龍寶寺

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明治四十三年七月五日発行 獅子頭第二巻第七号 巻首口絵写真 (久良岐氏訪問時、過去帳を写し取っている)

 

 

 浅草新堀端龍寶寺(川柳翁菩提所)久良岐氏并住職

 

 

 

 

 岐曰 翁の墓畔のやなぎが今年は非常に繁茂して全お墓を蔽ってしまった、写真を撮る時自分と車夫として左右で枝を押さへてお墓を写させた位で、自分は何となく愉快でした

平成二十二年六月二十四日撮影 現在の龍寶寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

墓碑・石碑・過去帳

 関東大震災前の調査、 伝統譜と重複しているが掲載)

 

 

初代川柳柄井八右衛門翁并同家累代の菩提所が、浅草新堀端龍寶寺に或る事はあらゆる川柳関係の著書・摺巻・雑誌類にも記載せられ、皆人の知るところであるが、未だ墓碣及び碑石に関して事実の真に触れた研究を発表したものは無い。

予は常に此の種の欠陥を、斯道の為甚だ遺憾に感じつつあったのであるから、これ等の実地調査を遂げて其の事実を明らかにならしむ可く、今夏来、翁が墳墓の所在地たる今の東京市浅草区栄久町四十番地天台宗金剛山龍寶寺に臻り展墓すること前後三回、墳墓其の物に就き詳細なる調査もし、諸方面から及ぶ限りの研究もして、得たところの結果は下記の事実即ち是也である。

龍寶寺は薬王院とも号し、上野寛永寺に属す。開基は比叡山正覚院の探題大僧正豪海法眼なり。本尊は天竺の仏工毘首羯摩作赤栴壇の如意輪観世音菩薩にして、西国三十三處写を安置し、江戸三十三處二十七番、浅草三十三處五番の札所なり。現住職は十八世釈氏亮榮といへる人、同釈氏の言によれば龍寶寺は明治維新前後(明治十年頃まで)殆ど無住職同様にして、その際森下町金蔵寺の住職が当寺を兼務したりしも、大いに荒廃を極め且其の寺域の如き昔時三千八百坪を有したりしが、凘時縮小して遂に現境の如く成れりという。

 

 

柄井家の墓所は本堂の巽位に在り、塋域略方六尺南靣して二台の墓石立つ。前に五枚の石畳を敷く。向かって左方の奥に前掲の墓碑あり。其の後ろには一本柳しげれりるありて、そぞろ川叟の遺徳を偲ぶに足る。又其の右に二世川柳夫婦の墓石並立し、域内の左右及び後ろの三方は高さ三尺許丸竹の疎垣を廻せり。

 

 

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これの記念標は明治二十二年十月二十日初代川柳翁一百回忌墓参法莚会開催の際、萬冶楼義母子(後九代目川柳を継承す)が同志者と謀りて建てる処なり。その位置は二台墓石の間にあり、小松石をもって造る高林五峯の隷書にして、左右には前記の如く同志者の雅号を記せり。

前掲二台の墓碣は龍寶寺境内柄井家累代の墓所に立てられてあるものであるが、此れを仔細に討究して見ると、初代川柳翁の墓石は翁の没後継続者たる二世川柳若しくは其の当時に於ける社中連などが建設したのではなく、後年に至り(其の年代不明なるも初代川柳没時より少なくとも三十八年後)三代目川柳孝達の死亡後、即ち文政十丁亥年六月以降に於いて、孝達が妻女の年に建設されたものであるという事実を発見し得られるのである。

この事は墓碣及び龍寶寺の廻向帖(以下過去帳以下同じ)が雄弁に物語っているので断じて其の当時の墓石では無いのである。

前図の如く初代川柳翁の墓石面には、初代川柳夫婦并三代目川柳夫婦の法名が四行に併記しあって、初代夫婦及び三代目孝達三名の分は法名下に其の死亡の年月日を記し、最後の三代目孝達妻の分に限り法名下に全然其の死亡時を欠いているところから見れば、孝達妻がこの墓石建設の際逆修に、所謂赤い信女を併記して置いたものであったという事実が解るばかりでは無く、廻向帖には明らかに「無量院長遠妙壽信女孝達妻逆修」と記載してあるし、又四名の法名の筆跡書風等に徴しても同一筆者が同時に書いたものである事が歴然と認め得られるのである。若し然らずして当初初代川柳の為に特設したもので其の余白は他日追記の予備であったとすれば、初代夫妻の次に二代目夫妻の法名が追刻しあってこそ有意義であり、如何にもそうと首肯されぬでもないが、二代目の墓は別に建設してあり、初代川柳のに三代目夫妻の法名を併記してあるとこから見れば、二代目川柳夫妻の墓石建設当時はどうしても初代等の墓石が、現存の墓碣外他に有ったものであろうと思われる。

のみならず現存の初代等の墓碣は、一見して二代目川柳墓碣よりは、ずっとずっと新しいものである事を何人の目にも確認し得られるのである。

然るに二代目川柳の墓石は、二代目妻死亡時の文政七甲申年を去ること、余り遠からぬ時期に於いて建設したものと見え、其の石質が初代川柳の墓石と同一質の普通切石たるに拘わらず、年所経過の痕跡上一段古色を帯びて居るに引替へ、初代の方は斯様の痕跡も無く文字鏨刻の點より見ても、二基の比較上二代目のほうが古く初代のほうが新物である事を推定されるのである。

そして初代当初の墓石は其の後どうなったものであるかは、今之を知り得るべき何等材料も無いが、兎に角現存の初代川柳墓碣は、三代目孝達の未亡人が後年に亡夫の墓石建設の際同時に初代川柳夫婦の法名をも合刻したものに相違ないのである。

更に注意すべきは、柄井家の墓所には前掲二基の墓石あるだけで他石塔が皆無なる事である。予はこの点より推究して当時における柄井家の内情は、前句点者の盛名程に幸運で無かったという事実を発見し得ると共に、如上の墓石も幾分社中の補助に成ったものではあるまいかと、想像すればされ得ぬでもないのである。

又初代墓石の裏面にある「教受院雪山源理信士」とは何人であるか、多分三代目孝達の相続人か或いは他遺族の者であろうと思われるが未だ不詳である。

此の「源理信士」が天保十四卯年十月十九日に死亡したことを明記してあるのに、三代目孝達妻の法名下に其の命日の追記無くして逆修の儘に現存してあるところから見れば、孝達の未亡人は天保十四年後一人ぽっちに存命して居ったが、何時頃にやありけん同女の死亡と共に相続すべき遺族もなく、逆修の法名下に命日追刻等の仏事供養を為すべき縁者とても無かったものと見え、遂に川柳前句の元祖として名声籍甚たる柄井家も、絶家の運命を齋らすに至ったものであろう。

特に初代川柳の法名において、墓石面には「勇縁信士」と刻してあるが、是は「花は紅、柳は緑」という成語もあり、龍寶寺の廻向帖には「勇緑」と記載しあるばかりでなく、同寺にある供養寄進の青銅製燭台に彫刻せる文字は、「縁」にあらずして「緑」とあるから全く「勇緑」と書くべきを「勇縁」と誤記の儘心付かずに墓石へ刻したものであったと思うのである。同寺住職の話にも其の法名は「勇緑」の方が本当であると言っていた。

其の他同寺には廻向帖の外柄井家に関する何等の記録遺物等も無い。唯上記の青銅燭台と花瓶との仏具一対が本堂須彌壇に現存するのみである。

此の仏具は和泉屋伊兵衛なるものの寄進に依るものであって、燭台(高略二尺)の下部台縁へ横行に「為勇緑信士法性信女菩提也」の十二文字を、又花瓶(高略一尺二寸)には「施主和泉屋伊兵衛」の八字も彫刻してある。

此和泉屋伊兵衛とは柄井家に有縁の者ならんと思われるが、何等慿徴も可きものも無く、従って其の寄進の時代及び関係とも全然不明である。茲に付言して置くべきは、前掲初代川柳墓碣の右側面に九代目川柳(元前島和橋、萬治楼義母子の事)其の他の法名を合刻してある事である。九代目川柳は在世中明治二十五年五月柄井家再興名跡継承の手続きを為して許可を受け、其の妻つねと両人が前島家より入りて柄井氏を称してあったのであるから、此功徳を以て九代目夫婦の法名を合刻するのは先ず無難としても、其の他に「紫岳妙雲童女大正六年四月二十七日、翠影姟女大正六年六月十八日清誠姟子大正六年八月十二日」といへる三童男女の法名を記入したのは、什麼如何の次第であるか、甚だ不可解な事である。

調べてみたら此三姟子は九代目の孫に当たる縁者ではあるが、柄井家には関係なく即ち九代目と全然別家を為している前島柳之助、同中吉という者の児輩であるから、之を初代川柳の墓に合葬すべき筋合いのものではない。然るに何物の没分暁漢ぞ斯かる心無き業をなし、あたら先賢の遺跡を汚したというのは、実に非礼千万僭越至極な行為というべきである。

又九代目川柳は「狂句柳の栞」第一巻(明治二十八年六月十九日発行)雑報欄の「柳宗忌」と題する項中に「予は明治二十五年の五月柄井家再興名跡相続の後同年十月川柳忌の前日菩提所龍寶寺に於いて告祭の法要を営み、その際元祖より三世まで居士号を贈る」と記してあるが、廻向帖の法名には別に改刻した所もなく、他に其の事実を証すべき何らの記録のあるでなし、住職の言にも更に聞くところなしとの事ゆえ、或いは九世が例の誇張説に止まるものであるかも知れぬ。

 

 

 

裏面

柄井家川叟五十回忌為追善建

       五代目

         川柳

干時天保十己亥年

  九月吉祥日 世話 惣連

        催主 壽山

           升丸

前掲木枯遺吟の石碑は、初代川柳翁五十回忌節五代目川柳が建設したもので、縦四尺横二尺乃至二尺五寸の根府川石を以て造ったもので、其の位置は龍寶寺本堂前左の方で当時有名の書家田畑松軒翁の筆である。石碑の背後にある石碑の壱幹の柳は、当時五代目川柳が手ずから植え付けられたものであったが、老木と成って立枯れした根生の若木を、現住の釈氏亮栄の手で植継いたしものとの事であるが、今将に直径七八寸余に成木して、年々歳々緑満だる枝葉の繁茂しつつあるのは、斯道隆盛の兆といはば謂うべきものである。初代翁五十回忌に前掲の如き石碑を香拲院に建設した上に、「前句附狂吟祖柄井川柳五十回忌追善会」(天保十亥年十月十五日開巻)なるものを開催して「俳風柳のいとくち」と題する上下弐巻の句選を出版したが、参考のために柳亭種彦の書いた序文を次に摘録しよう。

 

筑紫ことは八橋の流れ蜘手にひろがり、衣の色の紫の花々しき手事を畫し今、日に日に盛んなり。俳諧は難波天満の梅翁がかろ口の香りを花の江戸にうつし、柳の枝に咲かせてより、おかしき物とうばかかまで聞知るようになりたり。

元来和歌の一体なりとて寛永調を今吟せば、やまと琴にて貫川のやわらか手枕うたうが如く。なる程品のよいものと誉たばかりで誰かはまなばん。鳴呼柳宗の功なるかな其の祖の柳枯れてはや五十年に至りしとて、又新たに碑をいとなみ連中の句を集めてもて、法延をもうけしは、植えつぎうえつぎ、弥しげる今五本目の柳宗なり。例の如く綴ふみとし、それが柳のいとぐちをとそそのかされて、手にをはの調子も知らねど譬えに琴をひいてちょっとしらべておくは

         偐紫の作者  種彦なり

 

 

 

 

 

                現在の石碑

 

 

過去帳写(石井竹馬記載過去帳の誤りについても記)

以下は龍寶寺の過去帳により柄井家の部分を登録の順位及び文字共原本通り抄写したものである。

 

 

柄井家過去帳原本写し

檉風注書き

「川柳獅子頭」第一巻第一号(明治四十一年五月五日発行)登載 石井竹馬「柳談無駄話」の龍寶寺廻向帳柄井家写しの誤り指摘

石井竹馬記載

誤り指摘

柄井

 

 

柄井家

廻向帖原本には「家」の一字なし、又「過去帳」あるも原本は廻向帖と題せり。

顯實院是相日隆信士

天明四甲辰

六月二日

 

 

 

光明院融岳宗圓信士

寛延二己巳

四月四日

 

 

 

蓮壽貞性信女

元禄十三庚辰

七月五日

 

 

 

明夢童女

寶暦二壬年

八月九日

 

 

 

莊域實有信士

安永二癸巳

七月十日

 

 

 

貞彰院鷲峯妙松信女

文政元戊寅

十一月十一日

 

眞彰院

貞彰院なり。

微妙院浄心法信女

天明六丙午

二月十七日

 

 

 

圓鏡印智月寂照信士

文政元戊寅

十月十七日

二世川柳

寂照信女

之は寂照信士にて二世川柳の法名なり

恭岳常念信士

正徳二壬辰

五月十八日

 

恭岳

(「恭」の字が違っている)

徃蓮社譽源生雲意居士

寶暦三癸酉

十月十八日

 

 

 

智月妙元信女

寶暦三癸酉

十月二十日

 

 

 

觀月妙空信女

元禄十二辰

正月廿日

元禄十二年の干支は己卯なり。辰年とあれば恐らくは元禄十三年の誤記あらん。

觀月妙寶

妙空なり。

覺嬈童子

寶暦十四甲申

四月二十一日

寶暦十四六月明和と改元あり。

 

 

夏泡童女

明和六己丑

六月二十一日

 

明和六己巳

 

明和六己丑なり。

 

慈光院體心妙智信女

寛保元辛酉

八月二十二日

 

寛保卒酉

 

寛保元辛酉なり。

 

契壽院川柳勇緑信士

寛政二庚戌

九月二十三日

初代川柳

川柳勇縁

勇緑なり。元祖の戒名墓碣には勇縁とあるも、廻向帖及び燭台彫刻の文字は縁にあらずして緑とあり是にすべし。

全幻童子

享保十五戌

十一月二十七日

 

 

 

心鏡院常照妙光信女

文政七甲申

四月七日

 

 

 

m受院浄刹快楽信士

文政十丁亥

六月二日

三世川柳

 

 

無量院長遠妙壽信士

孝達妻逆修

 

 

茲遠妙壽

長遠なり。

教受院雪山源理信士

天保十四卯年

十月十九日

 

 

 

 

 

過去帳は天保初年十二世権大僧亮長の代に於いて調整したもので二冊になっている。是即ち龍寶寺唯一の鬼籍でこの他には、天保以前に於ける死者の正日等を知るべき旧記更に無い。他に如何しても開基伝来の過去帳有るべきはずであるが、寺什宝の其の物が全く無いのみならず、伝来物の無くなった理由等も現住の釈氏にはとんと解らないとの事である。

斯様の次第であるから龍寶寺の過去帳は、その実過去帳として余り価値ある資料と思われぬものである。

特に柄井家の鬼籍に至っては大いに疑い無きこと能わずである。若し是が果たして純真正当のものであるとすれば、其の登録の順位は死亡者の年代順に記帳してあるべき事は自明の理であるに拘わらず、上記の如く年代錯綜前後不順に書き込んであるところを見ると甚だ不審の感に耐えない事であるが、これ等の問題は川柳史実の研究上然迄詮議立の要もないから暫く姑らく省略に従うこととする。

        大正十一壬戌年十一月二十日

               木枯庵檉風 記焉

 

 

 以上の記録は、関東大震災そして東京大空襲を経た現在の龍寶寺の前を知る貴重なものではあるが、久良岐氏の様に写真として残していなかったことが悔やまれる。)

 

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