トップへ

元祖川柳

 

元祖川叟は柄井氏八右衛門の男にして、享保三戊戌年十月を以て江戸に生る。幼名を勇之助と云う。年三十八にして父の名跡を襲ぎ八右衛門と改む。名は正通、緑亭、無名庵と号す。浅草新堀端龍寶寺門前地の名主役たり。

 

柄井家の祖先は京都より出づ。元祖川叟の曽祖柄井将曹なる者、寛文十庚戌年の頃後西院天皇第五の皇子一品入道天眞親王管領宮天台座主に任じ、東叡山寛永寺へ東下せられ日光輪王寺へ御入室の際、御用掛として随身し江戸に来り住す。其の子図書の代となり、公辡准三宮に仕えしが、故ありて退院し浅草新堀端なる龍寶寺に寄る。図書初め桑門に入らんとするの志なりしが、当時住職の請託により初志を変んして、遂に其の貸地なる門前町の名主役とはなれり。図書没して其の子八右衛門父の後役を命ぜらる、是ぞ川叟の実父にして後年隠居し名を宗圓と改む。川叟は父退隠の後を襲て名主役たりしが、其の頃付近に於ける寺院の請託を受け、松源寺門前町、善照寺門前町、其の他壽松院門前、桃林寺門前、金龍寺門前等の各町をも支配せしと云う。

世に柄井家は阿部川町に住して、同所に名主役の如く思いいれど、云わば大いなる誤りなり。惟うに柄井家は川叟の孫即ち三世川柳の子の代に至り継なくして断絶せしやに、今寺牒を徴するに無量院長遠妙壽信女、孝達妻逆修としるせる次に教受院雪山源理信士天保十四年十月十九日とあるを以て終焉とす是前に云える三世の子にありけんか。されば母に先たって死し、母も逆修のままにて其の没年すら記しあらぬ所より見れば、他に縁者もなくて全く後絶えけると推して知るべきか。

而して名主役は文政十丁亥年三世没後以来天保度の江戸町鑑を按ずるに、従来柄井家にて支配せし龍寶寺門前外五ケ町は阿部川町の名主高松喜兵衛の管轄とはなれり。今推測するに此事より誤りて川叟を阿部川町の里正と思い違へるべし。

又按ずるに素行堂松鱸が秀句妙詠誹風新柳樽の序に曰「柳多留の巻に菅公の句をおおく撰むことハ、初代川柳文日堂といいしむかしより尊信あつき相なり、今浪華の新柳樽に天満まつりの月をはじめとせしも柳風の習いに依るということを初編に序す」と、此序文に依って見るとき元祖川叟に文日堂の別号ありしものの如くなるが、文日堂は礫川の号にて明和の末年より前句附に指を染め、元祖川叟の没後和笛見利に次いで斯道を裨補し、二世三世の時代には宛も其の後見の如くなりしかば、此礫川の事跡を混合して松鱸が斯く思い違いしものにあらずや。されど惟うに松鱸が柳門に入りしは文化年中にて、文日堂礫川の存命中江戸に在り礫川とも風交ありしならんに、其の堂号を知らぬ筈もなかるべければ、初代川柳文日堂の号といえる事、據所あるべきや不審なり。

 

初め西山宗因の風調を慕い俳諧壇林を再興せん志ありしが、後変じて自己の川柳風前句附なる一派を起こし宗匠たること三十有余年に及びぬ。

 

或説に曰く。

「元祖川叟は初め雷門三世の俊傑雷中庵蓼太の門に入り、淡味温健の俳風を学びしが、中頃雷門の宗派に飽き足らず慶紀逸の武玉川調に私淑し、頻りに奇抜なる独特の句風を行い宗則を無視して雷門の調子を全然脱失するに至りしかば、さらぬだに門人等は平素より川叟の才量に警嘆し敬服し且猜視しつつありし折とて、川叟の云為を以て淡味温健の宗風を紊るものとなし種々の物議を醸すに至り、師の蓼太は川叟の非凡なる才気を惜しみけるも、遂に一門には代え難く之を宗門より趁うことに決意して、或る日観月運座の席に於いて門人一同に向かって、今日改めて川叟を破門する旨の宣告を与えしに、川叟は寧ろ有難く破門の宣告を甘受し

目かちの蛙桂馬に飛んで行く

と云う一句を残し飄然として雷門を去れり。それより一意専心前句附に傾倒して名誉ある一派を成立するに至れるなりと云々。」と

此事は雷中庵雀志が家に伝えける雷門の或記にしるせる由聞き及びしかど、其の本書を見ねば遽に信とし難し。されども参考の為一説として茲に註しぬ。

 

其の間、寶暦七丁亥年の頃より、初めて川叟万句合の催あり。幾多の前句附判者中嶄然として頭角をあらわし、其の円満なる人格と卓越せる選評とは大いに世の歓迎するところとなり、遂に斯界を挙げて川柳の独壇場たらしめてけり。

 

誹風柳多留十八編の巻首に、呉陵軒可有が元祖川叟時代に於ける前句附判者の事に関して、

「蝶々子    苔翁(当時三代か)    竹丈     雲皷

白翁     菊丈          収月(一流選者享保年中壱万八千句集当時三四代目か)如露(二代読) 嶺松          南花坊    黛山

一翁     千          圭女     東

白亀     露丸          机鳥     錦江

川柳 宝暦七丑年初當卯年迄二十七年に至年々一万句或は二万安永亥年二万五千余句柳樽十八篇末摘花初編後編出」

と云える如く、是等著名の判者が各一方に割拠して門戸を張り、川叟と同じく万句合を興行しけるが、就中無名庵川柳の名声は隆々として他の判者を圧倒するの観ありき。

又誹風柳多留拾遺の前身たる古今前句集の序中に

「人はまえ句にのみ心をなぐさめけるむかしより、かくつたわるうちにもしんぼりのときより、そひろまりけるかのほりのはたに川柳いう人なん。前句のひじりなりけるこれは、てんじゃもとりつきも力をあわせたりというなるべし(中略)。又山の手に露まろという人ありけり。これもあやしゅうたえなりけり。されどかわやなぎは露まろがしもにたたんことかたく、露まろは川やなぎがかみにたたんことかたくなんありける云々」

と山東京伝己もやありけん古今和歌集の序文に擬して証せるを見ても、川叟が勢力の盛んなりし事を知るべし。

喜多於信節が嬉遊笑覧には

「前句附判者多き中に、宝暦の末明和の初頃、机鳥・露丸・川柳等大に行われ、月次万句合として集まる句数凡一万六七千、勝句四百四五十、半紙五六枚に暦の如く細字に印刻して摺る云々」

とありて机鳥・露丸と川柳とは稍互角の如き観あれども、安永天明の頃には川叟の勢力凘次加わりて遂に独舞台とはなりけり。按ずるに川叟の万句合は年々八月(陰暦)より十二月上旬まで五ヶ月間毎月三回宛て五の日を定会として開巻興行したるものにて、これは即ち今日の川柳大会と見るべく一会の寄高二万五千余員に及べることありしは、実に希代の判者と謂うべし。其選の秀句は惣句数に対し約三分乃至四分位の割合を以て抜莘し、之を当勝句と称して上木し二枚乃至八枚位の半紙へ、天満宮梅桜松鶴亀柳袖仁義禮智信など云う縁起文字中より一字を執って相印を付し、当時の伊勢暦風に版行したりしかば世に之を暦摺とは称しけると見えたり。此暦摺は創刊以来寛政元己酉年迄毎期間断なく版行せられし故、其の数量頗る大部のものとはなりぬ。彼の誹風柳多留、誹風柳多留拾遺、誹風末摘花は川叟万句合中より更に名吟桂什を選抜して編輯せるものなり。又万句合の興行は定会の外、時に或いは正月より七月まで月々五々の会を興行して版行されし異例あるのみならず、特定の一団連に於ける月次会は定会興行のなかりし期間に在りて所々に開催せられ、其の選句は暦摺の版行に俟たずして他に一部の冊子に上梓せらる。即ち彼の川傍柳、やない筥、藐姑柳、玉柳等の柳書は皆月次会の川柳評を版行したるものなり。

 

寛政二庚戌年九月二十三日没す

太田蜀山人の一話一言には川柳死日の條に

「寛政二庚戌八月二十三日川柳死、川柳は近頃前句附の点に名高き者也。浅草新堀端名主柄井八右衛門といえる者也。」

とありて川叟の死日に一ヶ月の違いあれど、菩提所龍寶寺の廻向帳及び墓碣には本文の如く九月と記しあれば一話一言の八月は誤りならん。

 

浅草区栄久町四十番地天台宗金剛山龍寶寺の塋域に葬る。享年七十三釈謚して契壽院川柳勇緑信士と云う。

辞世の句に曰く

   こがらしや跡で芽をふけ川柳

龍寶寺川叟墓碣には法号の柳緑を勇縁と鐫つけあれど、寺牒及び現存せる為菩提寄進の青銅製燭台に勇緑と彫刻しあるのみにあらず、柳は緑といえる成語に因みて勇緑を是とすべく。墓碣は誤りて鐫つけたるものや。又此墓碣は元祖川叟没時の碑石にはあらで、後年三世孝達没して其の妻女が逆修に元祖及び三世夫婦の法号を合刻したるものなるが、其の考証の事長ければここには大略を註し詳細は川柳墓碣及び碑石考に記しおきぬ。

 

元祖川叟の事跡に関しては古来大成せる伝記等のなかりしを以て今其の詳かなるを知らず。近年川柳家の著書又は雑誌等に散見するものは唯二三世に伝わる所の断片的記事に過ぎず。

明治三十丁酉年発刊の柳風狂句栞一二号に登載せる元祖柄井川柳翁之伝は、稍詳細なるものなれども九世川柳和橋の修飾筆に成れるものゆえ、いまだ慿信すべき史伝とは為すに足らぬものにてありけり。

 

嘉永二己酉年柳下亭種員が撰集せる新編歌俳百人撰に川叟の逸事を記しあれば次に其の全文を抄録しぬ。

「元祖は川柳ハ柄井氏の人浅草新堀端に住す。其先西山宗因が句調を慕い俳諧談林を再興せん志ありしが、中頃一変して自己の風を立て狂句を吟じ世に行るる事大方ならず。

諸方より評を乞に来る内或る時持ち来たりし詠草に

   天人ハ小田原町をのぞいて居

といえる句あり。川柳此句の意を解すことあたわず思いにくれけり。其婦も共に心を悩ましけるが、或る日辺ちかき浅草寺の観世音へ参詣せしに本堂の合天井に画し天人有、それが下に小田原町より奉納せし灯燈を覗くがごとく見えたりしかば、彼妻句の意を解して夫に斯と告げるにぞ、川柳横手を打て此句を高点に備えぬ。

 

按ずるに川柳宗家には従来伝玉の璽にも比すべき重宝として世々嗣号者に伝来二個の汁物ありけり。一は元祖の印章にして一は祖翁の画像なりき。

此の画像の原図は川叟在世の時其の全体を現し、前に文台を扣て左向に写生したるものなりしが、四世人見川柳の代文政十二己丑年三月二十一日神田佐久間町より出火して焦土となりたる大火の際焼失したるに、幸い当時の呉服橋連なる二代目武隈庵松歌(信州松本松平丹羽守の藩中 まつうた)なる者その写しを所持したれば、其れを以て画工長谷川等雪に画かしめたり画像の上に左の吟を掲ぐ。

行水やおもかげうつす夏柳    四世川柳

    写し絵や幾秋経てもその姿    八十五 文日堂礫川

    凩やあとで芽をふけ川柳     柄井川柳

其の筆者は四世川柳とも云い或いは松歌なりとも云へど今詳なるを知らず。

複写の年代は俳風狂句百人集(天保六乙未年孟春板行)に出てたる礫川の年齢を以て推算すれば、天保四癸巳年の製作なる事明瞭なり。斯くて祖翁の画像は四世川柳の手に再び成りしかば、之を嗣号者へ譲り物の一つに加えられ五世六世七世を経て八世児玉川柳に伝えたりしが、明治二十五年壬辰年十月一日八世病没の際何れかへ紛失して宗家の伝寶ここに滅しぬ。或る説に画像紛失の事軈て来るべき後嗣問題に関し社中に暗闘ありて、某野心家の姦謀に出でたりと云えり。斯る裏面の消息は必要もあらぬ事にて、事長ければ詳に記すに及ばず。されど一旦紛失せる画像は後九世の候補を争い、萬治楼義母子の為に失脚したる臂張亭〆太なる者の手中に秘め置かれたるものと見え、〆太は遂にこの宗家伝来の画像を擁して自立し九代目正風亭川柳と替称したりしが、明治二十九丙申年五月山形県西置賜郡長井市大字成田なる遊泳史魚心別号蘇息斎と云える者(佐々木宇右衛門)へ画像を譲りければ、今は佐々木家に於いて之を秘蔵しぬと云う。

 

又元祖印章の事は明治二十七年十二月発行柳の栞第二号中に九世川柳が記すところによれば、

「祖翁の印は石材にして白字を以て無名庵と刻したる甚だ粗刻なる物なれども、斯道にありては玉璽にも比すべき重宝なり。

柄井氏三世より人見氏四世に渡り、夫れより水谷氏(五世)に譲らる。五世の受取証、今猶人見の子孫に存せり。其の後六世翁是を引き継ぎしが明治十五年の夏を以て俄然卒せられしかば、其の息磯太郎氏より広島氏(七世)に渡す。七世翁此の印章に合わせ朱字を以て七世川柳と刻し、揮毫又は撰巻に押捺されし物今も各地に散在せり。

明治十九年七世翁退隠は快よからざる事情在ありて、此の印を児玉氏(八世)へ秘して渡さず、只元祖の画像のみを譲れりけり。予昨年九世嗣号せし祭七世翁の未亡人は素より近親従姉なるを以て、其の手より請取り再び宗家に立ち戻りしかば以後嗣号者へ譲り物の最大一を得たり。万一他において嗣号なさば、斯る由緒ある物の空しく其跡を止めざりしに、斯世に出現せしは影ながら祖翁の守らせたもう処なるべしあなかしこ」

と以て此の印章の末歴を知るべし。斯くて明治三十七年九世没後十世平井川柳に之を伝え、明治四十二年十世退隠して一旦十一世小林川柳に渡したりきが、大正二年十一世退隠十世平井柳翁再び宗家を襲て復机せし際、その手に之を伝承しけれども、大正十年四月六日浅草大火にて平井家類焼の際、由緒ある元祖の印章は他の歴代の印章と共に烏有に帰し、伝来の重宝ここに至りて全く滅絶しけるとなり。

 

又按ずるに宗家伝来ものにはあらねども、元祖川叟の真蹟として鑑賞に値する次の錦木塚の回文和歌の懐紙なるものあり。

 

「錦木塚回文和歌」

 

錦木塚

 

   錦木と

    とさして

  たにの塚の間の

かつ野に 

 たてし

  里ときき

     しに

 

錦木と

   つたへも

 おきし

    長の夜の

  かなしき

     おもえ

  たつと

    ききしに

 

   二首

         回文

 

            江都

             無名庵

              せん里う

 

「九世川柳の記」

柳門の開祖柄井川柳翁の真跡は、世に伝わる物実に稀なり。

茲に八世の翁いまだ柳袋たりし頃、明治のはじめ官の命によって

秋田の県に奉職中、同じ里なる二階堂某の秘蔵する元祖

自筆の懐紙を見て、懐旧の情に堪さるより強てこれを懇望し、、

任果て帰京の折其家に秘め置かれしが、同じ十七年の頃故ありて

昇旭ぬしに譲る事とはなりぬ。而してより以来年毎の祖翁忌に

必らず肖像の傍らに掲げ縦覧に備ふる事とせり、是ぞ斯道の

重宝にして、今日祖の遺物とするは吾が無名庵の印章と此

懐紙あるのみなり。翁の筆跡は素より作詠の卓越なる、一見

その人の非凡なるを知ること足れり。本年百六回の川柳忌に

昇旭ぬし志しありて、是を石版にうつし同好の雅友へ分布

す。之に依て聊その理由を記し保証すると倶に祖印を

模刻して茲に押捺す。

 明治二十八年十月      九世 柄井川柳謹識

此懐紙は前記の如く小林昇旭(十一世深翠亭川柳)が括嚢舎柳袋(八世任風舎川柳)より譲り受けて秘蔵したりしが、大正○年○月又故ありて十世平井川柳に譲与する事となりぬれど宗家の譲り物にはあらずとなり。

 

明和二乙酉年呉陵軒可有が川叟万句合中より抜莘して創刊せし誹風柳多留は、天明八戊申年に至り二十二編迄編輯したりたるが同八年五月二十九日死亡の後如猩なるもの出で、二十三編を編成し寛政元己酉年初秋に版行したれども、寛政二庚戌年には柳多留の発行なかりしかば、元祖川叟在世中に於ける柳多留の出版は二十三篇迄なりとするを当たれりとすべけんに、世には多く二十四編迄出版したりと云い伝えもし筆にもしるしあるが、言わば大いなる僻事なり。柳多留二十四編は花浴庵一口の編輯に成り寛政三辛亥年九月に於いて版行せしものなれば、之を川叟在世中の編数に加算するは心得ぬ事と謂うべし。若し之を其の内容の川叟評なる点より云いたらんには、二十四編迄には止まらず三十編、三十一編、三十四編及び七十編も元祖川柳の選評に係る秀句を編輯したりものにぞありける。詳しくは初代川柳評柳樽考に考証すべければここに大略を記し置きぬ。

 

元祖川叟没後其の子弥惣右衛門尚若齢にして父翁の衣鉢を襲ぐべき威望に乏し。社中のち桃井庵和笛を立てて仮判者となす。見利礫川又これに興る。和笛判者たること十五年、見利と交互に万句合及び相評句合を興行し、誹風柳多留拾遺を編輯す。和笛没して文化二乙丑年秋、弥惣右衛門二世川柳を襲名するに及び礫川専ら斯道の裨補に任じたり。

 

或る記に和笛は神田明神下に見利は本郷七丁目に礫川は小石川諏訪町に住める由をしるせり。此人々は柳門の元老株にして斯道に共鳴為実賛せられたる功績は実に多大なると知らる。

誹風柳多留二十五編の市中庵扇朝が序に

「年々歳々華相似たり。画せぬ水の葉に柳の老木枯果て此道既絶なん時に笛先生なるもの川叟の俳風を慕い是絶たるを継拾れたるをきす聖教に叶い翁の選評にひとし。神中誠に闇夜に往て燈に逢えるが如歓喜の美風々々と耳にみてり。予進で家名喜多留二十五編とハなりぬ」

と、亦以て和笛と社中との関係如何を見るに足りぬべし。

又文化十二乙亥年五月礫川六十八歳の時開催せし在世追善会の摺巻なる檉葉集(此摺巻は柳多留六十七編に収めらる)の自序に

「柄井川柳叟雪に古枝の折れしより、このうたの翁其糸にたよりたより、今また松の思ハんほども耻しく、年老いぬるまで此楽にふけり句を吐く事四十余年、句を判するも亦二十余年、されバ古き名をおのずから爰かしこにきこえつれど、實や俳の道も時の流行におくれてハ駑馬にむちうつがごく、今はただ句の語路だにたどりかねつつ、まして他の句に斧を加んことのいとかたければ、こたび諸君子の佳句高評を乞需て在東の追善会とハなりし侍りぬ云々」

と云へり。見利の事に就きては、其の選評に係る暦摺及び摺巻などの二三現存するものあるのみにて、いまだ他に事跡の徴すべき史料を見ねば詳なることを知らず。

 

或る説に曰く。和笛の後に門柳なる者出て、門柳の門の字を草書に認め川柳の川の字と紛らわしうして一口と共に仮点者となり、柳多留四十六編(或いは四十編までとも云う)まで出版せり云々と。されど此説は全然跡方もなき事なるに拘わらず、近時刊行の川柳作法指南、川柳難句評釈、独習自在川柳入門、大正柳たる、川柳を作る人に、などいへる諸書にも此門柳仮点者の事を記しあれども、是皆柄井川柳墓参法莚会狂句合いう摺巻登載の万治楼義母子が川柳嗣号沿革考捏造説に誤られたる結果にして、俚諺に所謂一犬虚を吠ゆれば萬犬實を伝うの類にもやあらん。

按ずるに此仮判者時代に於ける誹風柳多留の版行は二十四編より三十三編までの都合十冊にして其の内二十五編乃至二十九編は和笛の評せしなり。

 

 

川柳墓碣碑石考

 

初代川柳柄井八右衛門翁并同家累代の菩提所が、浅草新堀端龍寶寺に或る事はあらゆる川柳関係の著書・摺巻・雑誌類にも記載せられ、皆人の知るところであるが、未だ墓碣及び碑石に関して事実の真に触れた研究を発表したものは無い。

予は常に此の種の欠陥を、斯道の為甚だ遺憾に感じつつあったのであるから、これ等の実地調査を遂げて其の事実を明らかにならしむ可く、今夏来、翁が墳墓の所在地たる今の東京市浅草区栄久町四十番地天台宗金剛山龍寶寺に臻り展墓すること前後三回、墳墓其の物に就き詳細なる調査もし、諸方面から及ぶ限りの研究もして、得たところの結果は下記の事実即ち是也である。

龍寶寺は薬王院とも号し、上野寛永寺に属す。開基は比叡山正覚院の探題大僧正豪海法眼なり。本尊は天竺の仏工毘首羯摩作赤栴壇の如意輪観世音菩薩にして、西国三十三處写を安置し、江戸三十三處二十七番、浅草三十三處五番の札所なり。現住職は十八世釈氏亮榮といへる人、同釈氏の言によれば龍寶寺は明治維新前後(明治十年頃まで)殆ど無住職同様にして、その際森下町金蔵寺の住職が当寺を兼務したりしも、大いに荒廃を極め且其の寺域の如き昔時三千八百坪を有したりしが、凘時縮小して遂に現境の如く成れりという。

 

 

柄井家の墓所は本堂の巽位に在り、塋域略方六尺南靣して二台の墓石立つ。前に五枚の石畳を敷く。向かって左方の奥に前掲の墓碑あり。其の後ろには一本柳しげれりるありて、そぞろ川叟の遺徳を偲ぶに足る。又其の右に二世川柳夫婦の墓石並立し、域内の左右及び後ろの三方は高さ三尺許丸竹の疎垣を廻せり。

 

 

CIMG5764CIMG5765CIMG5766CIMG5767

 

これの記念標は明治二十二年十月二十日初代川柳翁一百回忌墓参法莚会開催の際、萬冶楼義母子(後九代目川柳を継承す)が同志者と謀りて建てる処なり。その位置は二台墓石の間にあり、小松石をもって造る高林五峯の隷書にして、左右には前記の如く同志者の雅号を記せり。

前掲二台の墓碣は龍寶寺境内柄井家累代の墓所に立てられてあるものであるが、此れを仔細に討究して見ると、初代川柳翁の墓石は翁の没後継続者たる二世川柳若しくは其の当時に於ける社中連などが建設したのではなく、後年に至り(其の年代不明なるも初代川柳没時より少なくとも三十八年後)三代目川柳孝達の死亡後、即ち文政十丁亥年六月以降に於いて、孝達が妻女の年に建設されたものであるという事実を発見し得られるのである。

この事は墓碣及び龍寶寺の廻向帖(以下過去帳以下同じ)が雄弁に物語っているので断じて其の当時の墓石では無いのである。

前図の如く初代川柳翁の墓石面には、初代川柳夫婦并三代目川柳夫婦の法名が四行に併記しあって、初代夫婦及び三代目孝達三名の分は法名下に其の死亡の年月日を記し、最後の三代目孝達妻の分に限り法名下に全然其の死亡時を欠いているところから見れば、孝達妻がこの墓石建設の際逆修に、所謂赤い信女を併記して置いたものであったという事実が解るばかりでは無く、廻向帖には明らかに「無量院長遠妙壽信女孝達妻逆修」と記載してあるし、又四名の法名の筆跡書風等に徴しても同一筆者が同時に書いたものである事が歴然と認め得られるのである。若し然らずして当初初代川柳の為に特設したもので其の余白は他日追記の予備であったとすれば、初代夫妻の次に二代目夫妻の法名が追刻しあってこそ有意義であり、如何にもそうと首肯されぬでもないが、二代目の墓は別に建設してあり、初代川柳のに三代目夫妻の法名を併記してあるとこから見れば、二代目川柳夫妻の墓石建設当時はどうしても初代等の墓石が、現存の墓碣外他に有ったものであろうと思われる。

のみならず現存の初代等の墓碣は、一見して二代目川柳墓碣よりは、ずっとずっと新しいものである事を何人の目にも確認し得られるのである。

然るに二代目川柳の墓石は、二代目妻死亡時の文政七甲申年を去ること、余り遠からぬ時期に於いて建設したものと見え、其の石質が初代川柳の墓石と同一質の普通切石たるに拘わらず、年所経過の痕跡上一段古色を帯びて居るに引替へ、初代の方は斯様の痕跡も無く文字鏨刻の點より見ても、二基の比較上二代目のほうが古く初代のほうが新物である事を推定されるのである。

そして初代当初の墓石は其の後どうなったものであるかは、今之を知り得るべき何等材料も無いが、兎に角現存の初代川柳墓碣は、三代目孝達の未亡人が後年に亡夫の墓石建設の際同時に初代川柳夫婦の法名をも合刻したものに相違ないのである。

更に注意すべきは、柄井家の墓所には前掲二基の墓石あるだけで他石塔が皆無なる事である。予はこの点より推究して当時における柄井家の内情は、前句点者の盛名程に幸運で無かったという事実を発見し得ると共に、如上の墓石も幾分社中の補助に成ったものではあるまいかと、想像すればされ得ぬでもないのである。

又初代墓石の裏面にある「教受院雪山源理信士」とは何人であるか、多分三代目孝達の相続人か或いは他遺族の者であろうと思われるが未だ不詳である。

此の「源理信士」が天保十四卯年十月十九日に死亡したことを明記してあるのに、三代目孝達妻の法名下に其の命日の追記無くして逆修の儘に現存してあるところから見れば、孝達の未亡人は天保十四年後一人ぽっちに存命して居ったが、何時頃にやありけん同女の死亡と共に相続すべき遺族もなく、逆修の法名下に命日追刻等の仏事供養を為すべき縁者とても無かったものと見え、遂に川柳前句の元祖として名声籍甚たる柄井家も、絶家の運命を齋らすに至ったものであろう。

特に初代川柳の法名において、墓石面には「勇縁信士」と刻してあるが、是は「花は紅、柳は緑」という成語もあり、龍寶寺の廻向帖には「勇緑」と記載しあるばかりでなく、同寺にある供養寄進の青銅製燭台に彫刻せる文字は、「縁」にあらずして「緑」とあるから全く「勇緑」と書くべきを「勇縁」と誤記の儘心付かずに墓石へ刻したものであったと思うのである。同寺住職の話にも其の法名は「勇緑」の方が本当であると言っていた。

其の他同寺には廻向帖の外柄井家に関する何等の記録遺物等も無い。唯上記の青銅燭台と花瓶との仏具一対が本堂須彌壇に現存するのみである。

此の仏具は和泉屋伊兵衛なるものの寄進に依るものであって、燭台(高略二尺)の下部台縁へ横行に「為勇緑信士法性信女菩提也」の十二文字を、又花瓶(高略一尺二寸)には「施主和泉屋伊兵衛」の八字も彫刻してある。

此和泉屋伊兵衛とは柄井家に有縁の者ならんと思われるが、何等慿徴も可きものも無く、従って其の寄進の時代及び関係とも全然不明である。茲に付言して置くべきは、前掲初代川柳墓碣の右側面に九代目川柳(元前島和橋、萬治楼義母子の事)其の他の法名を合刻してある事である。九代目川柳は在世中明治二十五年五月柄井家再興名跡継承の手続きを為して許可を受け、其の妻つねと両人が前島家より入りて柄井氏を称してあったのであるから、此功徳を以て九代目夫婦の法名を合刻するのは先ず無難としても、其の他に「紫岳妙雲童女大正六年四月二十七日、翠影姟女大正六年六月十八日清誠姟子大正六年八月十二日」といへる三童男女の法名を記入したのは、什麼如何の次第であるか、甚だ不可解な事である。

調べてみたら此三姟子は九代目の孫に当たる縁者ではあるが、柄井家には関係なく即ち九代目と全然別家を為している前島柳之助、同中吉という者の児輩であるから、之を初代川柳の墓に合葬すべき筋合いのものではない。然るに何物の没分暁漢ぞ斯かる心無き業をなし、あたら先賢の遺跡を汚したというのは、実に非礼千万僭越至極な行為というべきである。

又九代目川柳は「狂句柳の栞」第一巻(明治二十八年六月十九日発行)雑報欄の「柳宗忌」と題する項中に「予は明治二十五年の五月柄井家再興名跡相続の後同年十月川柳忌の前日菩提所龍寶寺に於いて告祭の法要を営み、その際元祖より三世まで居士号を贈る」と記してあるが、廻向帖の法名には別に改刻した所もなく、他に其の事実を証すべき何らの記録のあるでなし、住職の言にも更に聞くところなしとの事ゆえ、或いは九世が例の誇張説に止まるものであるかも知れぬ。

 

 

 

裏面

柄井家川叟五十回忌為追善建

       五代目

         川柳

干時天保十己亥年

  九月吉祥日 世話 惣連

        催主 壽山

           升丸

前掲木枯遺吟の石碑は、初代川柳翁五十回忌節五代目川柳が建設したもので、縦四尺横二尺乃至二尺五寸の根府川石を以て造ったもので、其の位置は龍寶寺本堂前左の方で当時有名の書家田畑松軒翁の筆である。石碑の背後にある石碑の壱幹の柳は、当時五代目川柳が手ずから植え付けられたものであったが、老木と成って立枯れした根生の若木を、現住の釈氏亮栄の手で植継いたしものとの事であるが、今将に直径七八寸余に成木して、年々歳々緑満だる枝葉の繁茂しつつあるのは、斯道隆盛の兆といはば謂うべきものである。初代翁五十回忌に前掲の如き石碑を香拲院に建設した上に、「前句附狂吟祖柄井川柳五十回忌追善会」(天保十亥年十月十五日開巻)なるものを開催して「俳風柳のいとくち」と題する上下弐巻の句選を出版したが、参考のために柳亭種彦の書いた序文を次に摘録しよう。

 

筑紫ことは八橋の流れ蜘手にひろがり、衣の色の紫の花々しき手事を畫し今、日に日に盛んなり。俳諧は難波天満の梅翁がかろ口の香りを花の江戸にうつし、柳の枝に咲かせてより、おかしき物とうばかかまで聞知るようになりたり。

元来和歌の一体なりとて寛永調を今吟せば、やまと琴にて貫川のやわらか手枕うたうが如く。なる程品のよいものと誉たばかりで誰かはまなばん。鳴呼柳宗の功なるかな其の祖の柳枯れてはや五十年に至りしとて、又新たに碑をいとなみ連中の句を集めてもて、法延をもうけしは、植えつぎうえつぎ、弥しげる今五本目の柳宗なり。例の如く綴ふみとし、それが柳のいとぐちをとそそのかされて、手にをはの調子も知らねど譬えに琴をひいてちょっとしらべておくは

         偐紫の作者  種彦なり

 

ページ先頭へ

 

 

過去帳写(石井竹馬記載過去帳の誤りについても記)

以下は龍寶寺の過去帳により柄井家の部分を登録の順位及び文字共原本通り抄写したものである。

 

 

柄井家過去帳原本写し

檉風注書き

「川柳獅子頭」第一巻第一号(明治四十一年五月五日発行)登載 石井竹馬「柳談無駄話」の龍寶寺廻向帳柄井家写しの誤り指摘

石井竹馬記載

誤り指摘

柄井

 

 

柄井家

廻向帖原本には「家」の一字なし、又「過去帳」あるも原本は廻向帖と題せり。

顯實院是相日隆信士

天明四甲辰

六月二日

 

 

 

光明院融岳宗圓信士

寛延二己巳

四月四日

 

 

 

蓮壽貞性信女

元禄十三庚辰

七月五日

 

 

 

明夢童女

寶暦二壬年

八月九日

 

 

 

莊域實有信士

安永二癸巳

七月十日

 

 

 

貞彰院鷲峯妙松信女

文政元戊寅

十一月十一日

 

眞彰院

貞彰院なり。

微妙院浄心法信女

天明六丙午

二月十七日

 

 

 

圓鏡印智月寂照信士

文政元戊寅

十月十七日

二世川柳

寂照信女

之は寂照信士にて二世川柳の法名なり。

恭岳常念信士

正徳二壬辰

五月十八日

 

恭岳

(「恭」の字が違っている)

徃蓮社譽源生雲意居士

寶暦三癸酉

十月十八日

 

 

 

智月妙元信女

寶暦三癸酉

十月二十日

 

 

 

觀月妙空信女

元禄十二辰

正月廿日

元禄十二年の干支は己卯なり。辰年とあれば恐らくは元禄十三年の誤記あらん。

觀月妙寶

妙空なり。

覺嬈童子

寶暦十四甲申

四月二十一日

寶暦十四六月明和と改元あり。

 

 

夏泡童女

明和六己丑

六月二十一日

 

明和六己巳

 

明和六己丑なり。

 

慈光院體心妙智信女

寛保元辛酉

八月二十二日

 

寛保卒酉

 

寛保元辛酉なり。

 

契壽院川柳勇緑信士

寛政二庚戌

九月二十三日

初代川柳

川柳勇縁

勇緑なり。元祖の戒名墓碣には勇縁とあるも、廻向帖及び燭台彫刻の文字は縁にあらずして緑とあり是にすべし。

全幻童子

享保十五戌

十一月二十七日

 

 

 

心鏡院常照妙光信女

文政七甲申

四月七日

 

 

 

m受院浄刹快楽信士

文政十丁亥

六月二日

三世川柳

 

 

無量院長遠妙壽信士

孝達妻逆修

 

 

茲遠妙壽

長遠なり。

教受院雪山源理信士

天保十四卯年

十月十九日

 

 

 

 

 

過去帳は天保初年十二世権大僧亮長の代に於いて調整したもので二冊になっている。是即ち龍寶寺唯一の鬼籍でこの他には、天保以前に於ける死者の正日等を知るべき旧記更に無い。他に如何しても開基伝来の過去帳有るべきはずであるが、寺什宝の其の物が全く無いのみならず、伝来物の無くなった理由等も現住の釈氏にはとんと解らないとの事である。

斯様の次第であるから龍寶寺の過去帳は、その実過去帳として余り価値ある資料と思われぬものである。

特に柄井家の鬼籍に至っては大いに疑い無きこと能わずである。若し是が果たして純真正当のものであるとすれば、其の登録の順位は死亡者の年代順に記帳してあるべき事は自明の理であるに拘わらず、上記の如く年代錯綜前後不順に書き込んであるところを見ると、甚だ不審の感に耐えない事であるが、これ等の問題は川柳史実の研究上然迄詮議立の要もないから暫く姑らく省略に従うこととする。

        大正十一壬戌年十一月二十日

               木枯庵檉風 記焉

 

 

 

 

 

参考

初代川柳の遺物に於いて(大正十年浅草大火で印消滅の以前に書かれたものにつき注意)

 

初代川柳「柄井川柳翁の遺物」に於いては、「無名庵」と白字に篆刻した石印一顆と、錦木塚回文の懐紙と、肖像の画幅との三点が現存して有ることは、梅本秋の屋氏が「五月鯉」第二巻第九号(初代川柳記念号)及び同第十一号の柳誌に記述をされてあるが、この説は予が見聞きせるところと、甚だ相違の処がある。

こんな事を申すと、先入主的な半可の似而非先生達より「又しても余り穿鑿に過ぎる」との抗議が起こるかは知らんが、遮莫柳界に錯誤、或いは虚偽の事柄、而も川柳史上重要な事たる初代川柳遺物に関する謬説を伝ふるのは、斯道の為、洵に忍びざる事であるから、「五月鯉」発行後十数年経過の今日、恥か既往を咎むるような感じが有って、実は本意でないけれども、予は茲に偽らざる事実を告発して、其の真相を明らかにしようと思うのである。

実を申せば、予は川柳に手を染めてより茲に二十有余年、この間兎に角公私多用の為、其の研究句作に専念たることを得なんだが、さもあれ九世川柳(前島和橋氏後川柳宗家を再興して柄井氏を称す)以来は、所為川柳の宗家に対して特別関係を有しつつあったもので、特に十一世川柳の号を嗣いた故昇旭(小林釜三郎)氏とは昵懇の間柄とて、明治四十二年五月立机披露の際には、其の席に参興もし、小林家には度々寄泊もしたことがあるから、初代川柳の遺物に関する消息、及び其の所在とも総て之を熟知して居るのである。

秋の屋氏が云われた通り初代川柳の遺物は全く如上の三品丈である。

 

(石印)

 

先ず石印の事は、秋の屋氏説に方七分とあれども、之は正方形ではなく、縦七分横七分五厘の蝋石印である。此の印の継承につき秋の屋氏は、渡部虹衣子の言を引き八世(児玉環氏)病没の際、昇旭氏の手に帰したものかのように考えて居らるるが、此の石印は一旦は九世川柳の有に帰したる後、十一世小林氏に伝来した物であるが、 大正二年十月訳ありて小林氏川柳宗家の机を辞し、十世平井氏復机の際小林氏より改めて平井しへ引継をなし、今現に同氏の手に保存して或る。予は九世川柳以来数次此の石印を実見し、又同印始め宗家歴代の印譜を所蔵している。

印譜 

 

 

 

 

 

 

(錦塚回文の懐紙)

 

錦木塚回文の懐紙は、八世在世中昇旭氏に直接譲与されしもので、宗家伝来物で無いことは秋の屋氏説の通りであるが、此の一軸今は十世平井氏の手に帰し、現に同氏が之を秘蔵して居られるのである。これも予が度々実見した軸で、特に明治二十九年十月百六回忌の、川柳忌の際昇旭氏の篤志を以て石版摺りとなし、当時に於ける同好の士へ配布された事があったから、川柳宗家の柳士諸氏には、之を蔵して居られるる向きが必ずあろうとおもう。

 

「錦木塚回文和歌」

 

 

テキスト ボックス: 錦木塚
錦木と
とさして
たにの塚に間の
かつ野に
たてし
里ときき
しに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


     右二首

テキスト ボックス: 錦木と
つたへも
おきし
長の夜の
かなしき
おもへ
たつと
ききしに
       回文

 

            江都

             無名庵

              せん里う

「九世川柳の記」

柳門の開祖柄井川柳翁の真跡は、世に伝わる物実に稀なり。

茲に八世の翁いまだ柳袋たりし頃、明治のはじめ官の命によって

秋田の県に奉職中、同じ里なる二階堂某の秘蔵する元祖

自筆の懐紙を見て、懐旧の情に堪さるより強てこれを懇望し、、

任果て帰京の折其家に秘め置かれしが、同じ十七年の頃故ありて

昇旭ぬしに譲る事とはなりぬ。而してより以来年毎の祖翁忌に

必らず肖像の傍らに掲げ縦覧に備ふる事とせり、是ぞ斯道の

重宝にして、今日祖の遺物とするは吾が無名庵の印章と此

懐紙あるのみなり。翁の筆跡は素より作詠の卓越なる、一見

その人の非凡なるを知ること足れり。本年百六回の川柳忌に

昇旭ぬし志しありて、是を石版にうつし同好の雅友へ分布

す。之に依て聊その理由を記し保証すると倶に祖印を

模刻して茲に押捺す。

 明治二十八年十月      九世 柄井川柳謹識

 

 

(肖像画)

 

肖像画の一軸につきて、秋の屋氏は前記初代川柳記念号に

「此の軸は八代川柳まで伝来したが、同人が病没の際、後継者の競争があったので社中の某が窃に隠匿してしまった。其の所在は目下不明であると云うが、夫れは全く詐りで、確かに或る処に隠匿して有るのだ。十一代目の川柳が出来ると共に、天から降る歟地から湧く如く、必然其の一軸が世に現れると、私は此処に予言する。」

と記述せられ、且つ「五月鯉第二巻第十一号」の誌上に於いて、虹衣氏の言に基ずき再び「此の一軸を、八世病没の際、昇旭氏に譲られたると云うは、虚偽の甚しきにものや。四世川柳より代々の宗家に、伝来したる肖像を、八世がお無くして、宗家にもあらぬ昇旭氏に譲るべき理由無し、案ずるに○鶴は嘗○○氏の師事せし人にて交際親密の間柄なれば、八世病没の際、両人○○して○○せしものならん乎。曩に予が、将来十一代目の川柳が出来ると共に、必然其の一軸が世に現れる、と予言せしが、将来十一世川柳の号を嗣ぐべき昇旭氏が、現に彼の軸を所持しているは、予の予言に違わず云々。」

と断言せられてあるが、之は全くの誤りで事実跡形なき無根の想像か邪推説である。

秋の屋氏は八世病没以後柳界を引退せられ、川柳宗家に遠ざかられたのであるから、この間の消息を知らるる筈はなく、多分何等かの勘違いをして居られる事であろうと思はれる。成る程昇旭氏は、初代川柳の画像一軸を持つことは持って居られたが、其の画軸は宗家伝来の肖像ではなく、九世川柳前島氏が原像の記憶を辿りて、画きたる複写の一軸で、飾り無く申せば贋物であったので、其の実宗家では、眞物の肖像が八世病没の際紛失したのであるから、九世が之を自作し以降仮に此の軸を伝ふる事に定めたのである。乃ち此の軸は今十世平井氏が所持して居られるので、予はこの間の事情を熟知して居るものである。

秋の屋氏は全くの別軸とも知らで、「昇旭氏の所持する肖像の軸は、臓物なることを告白す」と迄極言されてあるが、昇旭氏こそ飛んだ冤罪を被ったもので、甚だ気の毒な感に堪えない。

若し夫れ虹衣氏言の如く、昇旭氏が虹衣氏に対し宗家伝来の肖像画軸を、八世病没の際、譲渡されたと明言されてあったとすれば、察する処それは十一世を、継続せる自身の手に此の伝来物が無いと云っては、宗家の恥辱とでも思われたところより、虹衣氏は新川柳家でもあり他派に対する軆面を取り繕うべく、いい加減にお茶を濁した一時的遁辞であったろうと思われる。何となれば、宗家伝来の初代川柳肖像画の一軸は、事実全く昇旭氏が十一世川柳嗣号の際は無論其の前後に在りても、遂に昇旭氏の手に帰せなんだからである。

然からば、其の眞物たる肖像の一軸の所在如何。疑問は此の処に生ぜざるを得ない。併しそれには斯うした秘密の事情が伏在して居ったのである。

当初肖像の画軸を松楽堂寿鶴(森銅三郎氏)と云う男が、八世病没の際五世川柳(水谷金蔵氏)所用の印章二顆と共に隠匿したことは、秋の屋氏の推測通り相違ない実説だが、昇旭氏と共謀して同氏の手に収まりたりと云うのは全くの虚構説である。即ち此の軸は寿鶴氏の手より直接に膏張亭〆太(中村万吉氏 自立九世川柳正風亭の事)と云える人へ授受せられ、深く之を秘蔵して居ったので、昇旭氏は此の一件に何等の関係も無かったものである。

而して何故に寿鶴氏が斯かる行動を執ったかと云ふに、これは宗家継承問題に関連した事で、当時〆太氏と萬治楼義母子(前島和橋氏)との間に九世競争をなし、寿鶴氏は〆太派の参謀にて義母子氏に反対なるところより(当時寿鶴は谷中清水町に住し指物師を業とし、〆太は麹町山元町に住し畳方棟梁たり。両人共に音曲を能くし職人同士として意気投合の間柄なりき)宗家の重宝たる画幅を同氏に渡ざる可く、此の予備的非常手段に出でたるものである。

「柳の栞」第二号に八世翁の未亡人の言として、祖翁の画像は上記の印章と共に、翁が未だ息を引き取らぬ前日盗難にあいし如く記されてあるが、事実は全く未亡人と寿鶴氏とが諜し合わせて隠匿したものであったらしい。

果然其の後明治二十六年中、義母子氏が全国社中披露の結果大多数の推挙を以て、九世継承者と確定したにも拘わらず、〆太氏は寿鶴氏等一派の後援の下に、此の唯一の什宝たる画幅を擁して自立するに立ったのである。

茲に又、〆太氏の親友に、遊泳史魚心(佐々木宇右衛門氏、山形県西置賜郡長井市大字成田の人、蘇息斎と号し、資産もあり風流心もあり地方の宗匠株で、今は故人と成られたが、嘗て代議士たりし事あり)なる人あり。

此人は八世没後九世相続争いの際、隠然〆太派の総参謀として大いに画策するところあり、次回は己れ川柳宗家たらんとするの野心もあった云うことで、自ら無名庵の号を僣して居ったものだが、〆太氏とは交際最も親密の間柄で愈々或る密約が結ばれたのであった。

偶ま明治二十九年五月山形県長井町に於ける斯道の宗匠雅外、文子、蓼塢、芳川、呉茗の五翁が其の還暦賀会狂句会を開催の際、〆太氏は立評者として九代目正風亭川柳を称し、今以亭〆内なる従者と共に降羽し来たり。携帯したる彼の画像を右開巻の席に揚げ、会衆へ自身は川柳宗家九代目たる者に相違なしとの権威を誇ってあった事は、今猶ほ当地方の一話柄と成っている。それで狂句合摺巻にも〆太氏自ら序詞(実は他の代作)を添えその中に

「上略、己斯道に遊ぶこと五十余年嘗て恁る盛会をみず掲へし祖翁の画像も軸を抜きて為に賀さんかと怪しまる云々下略」

と記してある。斯くて帰京に際し、此の臓物たる宗家伝来正真正銘の画像一軸を、上記の魚心氏へ譲渡し其の侭く留置して帰られたのであるから、断じて昇旭氏の手にあるべき筈はなく、其の画像在りというは全くの虚言であって、言はば虹衣氏は昇旭氏より一杯喰わされたのであったろうと思ふ。この事実は予が責任を以て言明する所である。

斯の如く川柳宗家に伝来した、初代川柳肖像の一軸は事実全く山形県の佐々木家に秘蔵して在るので、九世前島氏在世中、如何にもして之を取り戻さんと百方復環の策を講ぜられ、明治三十五年五月昇旭氏と共に予が小庵がりへ来訪の際、此の事を談じられてあったが遂に其の甲斐もなく、後又十世平井氏奥羽へ来遊の際にも、佐々木家を訪問し舊交を温めて取り戻し方を交渉せられ、予も同氏の切なる依囑に由り特に宗家へ返還の配畗を試みてあったが、佐々木氏の頑強なる到底之に応諾せず、今以て侭惣案と成って居るのである。

佐々木家の現在は魚心氏の息、太郎助と云い、今は亥父宇右衛門の名跡を襲ぎ予とも心易い間柄であるから、機会ある毎にこの事の交渉を試みたがいつかな応託を与えず之には殆ど閉口せざるを得ないのである。当代の佐々木家は別に川柳趣味のある人でないから、我が柳界以外にさほどの価値あるとも思われぬ当軸、手放しても大事なさそうなものだが、絶えて聞き入るる様子の無きのみか、貸出し事も承諾しないのであるから、予は更に機会を見て当写真を撮影し世に紹介しようと思う。

以上は、予がこの頃「五月鯉」繙読みの際不図秋の屋氏の記事に触目し、余りに事実を誣ふるの甚だしきものと思ふるから、将又世の誤解を闡明し其の真相を知らしめんが為、新しく之を絮説した次第である。因みに、秋の屋氏が其の著「川柳難句評釈」の総説中に採用された、四世人見川柳の肖像の画幅(香蝶楼国貞書四世川柳画賛)を始め、その他祖翁以外の宗家歴代の画像等は、仔細あって今は予の手許に所蔵して居る。この事も川柳史上何等かの参考にもと書き添えて置く。

(参考)

祖翁以外の宗家歴代の画像等は、記述時以降檉風のもとを離れ所在不明

 

 

次に木枯庵檉風著「川柳の史的研究第二編川柳詞藻上巻」記載、四世川柳画像肖像自賛の一部を記す。

 

四世川柳画像の筆者は歌川派に有名なる番蝶楼国貞(後二代目豊国)にして、当時四世翁とは水魚の交あるを以て常に同家へ出入なし遂に該像を写生したものなりとか。其図は慰斗目裃にて新年の礼服(九曜の御紋所)を着し蒲団の上に座す。後背には刀掛を置き前に文台を扣へた極彩色にして、其の態突然生きるが如し、国貞の丹誠恐ふべし。伝える所によれば、画了の後五十日を過ぎ翁の機嫌よき日を見計らい点睛せしもの云々。

 

 

 

 

(参考)

遊泳史魚心(佐々木宇右衛門氏)について、  

「置賜柳風芳名録完」記載の内、魚心と九代目との拘わり及び無名庵の印を使用している箇所。

「川柳九代目選挙競争の折、吟社の出京委員となりて其の調和を試みしも、故ありて出来損じぬ云々」

      明治二十八年 中秋

          無名庵主人識    魚心作成

                          無名庵印

      吸いあきて花の乳房に眠る蝶

 

 

 

(参考)

祖翁画像の現在について、平成元年五月十二日付山形新聞記載記事。

 

「幻の文化財とされてきたわが国川柳界の三種の神器の一つ「初代川柳画像」(軸)が、長井市内で二十日から三日間、全国で初めて公開される。同市が実施する奥の細道紀行三百年祭記念事業の特別展として催されるもので、関係者によれば、この貴重な文化財は、明治時代に長井の素封家佐々木右エ門(柳号・魚心)に託されており、実に九十三年ぶりの里帰りとなる。(中略)長井川柳副会長の小松梢風さんらが精力的に調査研究した結果、長井出身で、東京都港区、三井信託銀行会長の川崎誠一氏宅に大切に保管されていることが判明。後略」

CIMG1335

 ページ先頭へ

 

 

 

二世川柳

 

元祖川叟の長子にして幼名を六之助と云い、通称を弥惣右衛門と云う。

或る記に、母を豊子と呼び延享元甲子年五月三日浅草新堀端龍寶寺門前地の自宅に生まれたる由をしるせるあり。此母及び生年月日説疑わしき事あれば如何にや覚束なし。又幼名は緑之助との説もあり、されど想うに是れ柳は緑といへるに附会せる説にてあらずや猶考うべし。

 

安永六丁酉年六月家督となり名を八右衛門と改め父の跡役を勤む。

父翁の机上日々撰冊の山をなすがゆえに、名主役の本務を欠きては先祖へ相済まずとて、南北両町奉行(当時南は山村信濃守、北は曲渕甲斐守)へ願い隠居して六之助へ家督と共に八右衛門の名を譲り、爾後川柳を以って通称とせられしとなり。

 

初め雅号を若菜と称し、文化二乙丑年秋二世川柳の号を嗣ぎ無名庵を別号とせり。

世に伝うる所は、二世幼年より父の教えを受け前句附の狂吟を作るに天凛の才あり。七歳の時召使の下卑なる者髪を洗い居たるを見て、

洗い髪菜漬ようにしぼって居

と口號みけるを、父翁の聞かれて大いに称美せられ、此時より若菜と云う狂名を附けられたり。長ずるに及んで益々上達し社中を取り立て数度の会を催して斯道に尽力せられける故、其の近連は二世翁の雅名を其の儘取りて若菜連と名ずけたる由也。按ずるに誹風柳多留三十篇花浴庵一口が序に、

「宝暦七丑どしの頃より川叟初て萬句合の催ありしより、年々日々のはんえい言葉につくしがたく、一会の寄高二万五千六百余員に及びしは実に稀代の判者というべし云々」

といえる如く川叟在世中に於ける前句附の流行、日に益し盛んにして、月々万句の興行をなすは元祖の伎倆卓絶なる勲しとは申しながら、亦二世翁の輔弼興かって力ありしものと知られ侍る。

 

文政元戊寅年十月十七日没す。享年いまだ詳ならず。

或る説に享年六十と云う、されど拠所あるにあらねば誠とし難し。

龍寶寺先塋の側に葬る法名は圓鏡院智月院寂照信士。辞世の句あり曰

   花ほどに身は惜まれず散る柳

 

或る記に二世翁の逸事中に最も感ずべきは、

「或る日例の如く、継ぎ上下を着し黒鴨の供を召し連れ南町奉行所へ出頭の途中、鍛冶柳御門の内を通行されると、向こうより壱人の浪人者深編笠を冠り襤褸々々したたる衣類を身に纏い、破れたる扇一本を手に携えつつ柄井氏と行き違いざま、彼の浪人は黒鴨の供に打ち向かい腰を屈めて偖言うよう。「我等は御覧の通り尾羽打ち枯らしたる長々浪人者にて、今日をも送兼候哀れ、願わくば貴殿より旦那様へご救助のお取次ぎ偏に願い上げ奉ります」と扇を差しつけたるにぞ、柄井氏は不図後ろを顧みられ何か心に打按じ、先ずこなたへと言いつつ土手際へ誘い行き、懐中の紙入より金袋を取り出し中をも改めず其の侭紙に包んで差出ながら、「最と丁寧にも我等如きを見かけての御頼み、宿所にあらば又如何とも致すべくなれど、ここは途中、心にも任せねば此に少々ながら是を進上致す。納め置かるるなら大慶なり。」と言葉を残して其の侭行き過ごしを、彼浪士は柄井氏の後ろ影を見送りながら貰い請けし金包みを開いて見るに小粒にて十両余り這ば如何にと驚いたり云々。」

としるせりあり。想うにこれは未了の記事にて、其の結末不明なるのみならず他書にも見えぬ事なれば、疑わしう覚ゆれども誠に此説の如くならんには称揚すべき一美辞と思い、伝えるままここに記しおきぬ。

 

按ずるに二世時代に於ける誹風柳多留の版行は三十四篇より七十編までの三十七冊なりき。

 

 

 

 

三世川柳

 

元祖川叟の五男二世の末弟幼名八蔵、兄の後を継ぎて家督となり孝達を以って通称とす。二世没後無名庵川柳を襲名して三世となりしが、事故有りて社中より点者を拒絶せられ眠亭銭丸挙げられて仮判者となる。

 

世に伝うるは三世襲名後幾程もなく破倫の非行ありて、物議を醸し遂に社中の排斥を受くるに至りしと云う也、誠に斯かる事の有りけるにや今其の詳なることを知るべからず。一説に三世の失脚に就て眠亭銭丸が宗家を簒奪せんの野心を抱擁して画策する所ありし結果ならんとあれど、当時の銭丸には斯かる事実の証跡なきのみならず、排斎などの卑劣を行いし人とは思われず、是或いは後日四世川柳たる銭丸が元祖川柳の衣鉢を没却し、俳風狂句なるものを起こして川柳を堕落せしめたり、と云へる所より感情的憎悪の憶測に出でたるものにはあらずや。想うに点者拒絶の理由は何等かの非行ありて、三世自ら招きたる所謂自業自得の運命に帰すべきにや。

 

文日堂礫川を始め、五葉堂麹丸、春始亭春駒、春風舎扇朝、武隈楼松歌等、亦其の班に列し臨時立評を勤む後文政七甲申年二月三世より川柳の点式を銭丸に伝う。

 

文政十丁亥年六月二日没す。享年いまだ詳ならず。

ある説に五十六歳といえり如何にや覚束なし。龍寶寺の先塋に合葬す。法名はm受院浄刹快楽信士。辞世に曰く、

   蓮葉の露と消えゆくわが身かな

 

三世川柳は二世没後嗣号して忽ち社中の忌避するところとなり、川柳の名義は有れど無きが如く、文政七甲申年正月まで唯々其の空位を擁せしに過ぎず。然れども柳風の道は益々隆盛にして以前に変することなかりき。伝うる所には曩に三世嗣号の際二世の門下たる燕亭木卯(柳亭種彦)の最も尽力する処なりと。云えば、其の退隠の事に関しても亦、木卯の斡旋に俟つところ多かりしと信ずべき理由あるのみならず、当時社中の一部に於いて木卯を四世に推さんという者ありしが、衆望皆銭丸に傾かんとする情勢に鑑み断乎として之を辭じ、衆倶に勧めて遂に銭丸を推して四世を嗣しむるとなり。

 

按ずるに此の時代の誹風柳多留の版行は、七十一編より七十八編に及べるも三世の選評とては七十一編中に文政佃島月次会の文政二己卯年正月十八日開初会、同三月二十二日開三会目、同四月二十日開四会目、同閏四月二十二日開五会目と、都合四会分の抜きが収載せられし外は、七十六編に文政六癸未年五月二十日開三友追善の評第一番ミ部僅々三句丈見えるのみに止まり、他は悉皆仮判者銭丸等の選句を以て満たされたり。其の他の摺巻類中三世評の選句なるものあるにや、いまだ管見の及ばざる所なれど恐らくは絶無なるべきか。

 

 

 

四世川柳

 

人見氏、通称は周助初め眠亭銭丸と云い風楓庵と号す。八丁堀(今の日本橋北島町)に住し江戸町奉行付同心を勤む。文政七甲申年二月三世より点式の譲を受け四世川柳となる。

元祖以来の前句附に対し初めて俳風狂句なる名称を付し、狂句社会に於いて斯道中興祖と尊称せられき。

按ずるに川柳(作句)の称呼に就きては、元祖以来之を前句附と云い又川柳風の前句、或いは川柳点など区々の称ありて一定せざりしが、四世に至り初めて俳風狂句なる名称を付し、且つ其の風調に変革を行い盛んに之を鼓舞して時流に投したりしかば、其徒より中興の祖と称せらるるは然もあるべき事ながら、之が為元祖以来の本領を精神的に衰滅せしむるの兆を誘起したる事実は否定すべきもあらず。されど此事は川柳の変遷史として別に論ずるべければここに漏らしぬ。

 

文政九丙戌年八月向島木母寺境内梅若堂の庭前に元祖川叟報恩謝徳の俳風碑を建設し、末広大会を開きて俳風芽出し柳を発行す。

此俳風碑の事に関し万治楼義母子(後の九世川柳)が四世川柳自身の壽碑なりとの異説を提唱せしより、以来世皆斯く伝えせし、筆にも記しこととなれるが、言わば全く義母子の誤解に出でたる僻事にて、真個に元祖川叟の俳風頌徳なる事実は別に俳風狂句元祖碑石考に詳記しおきぬ就て見るべし。

 

天保八丁酉年八月勤務の都合に依り、自ら退隠して点式を腥斎佃リに譲り柳翁となる。天保十五甲辰年(弘化改元)二月五日没す。享年六十七赤坂区臺町四十七番地浄土宗川勝法安寺(川勝丹波守建立の寺)に葬る法名は崇徳院仁誉普仙居士。

辞世に曰、

   香のあるを思出にして飜れ梅

菩提所法安寺は教導団兵営地となれるを以って、四世の孫女(実は嫁)人見春子の計らいにて、明治二十三庚寅年四月中人見累代の墳墓を東京府荏原郡大崎町上大崎七百六十五番地浄土宗極善寺に移したりしが、其の後明治三十五六年の頃又々他の寺院へ改葬したる由なれども、今其の改葬先及び遺族の所在とも不明となりぬれば尋ねるべき方なし。能く知れる人を待て明らむべきものなり。

 

按ずるに、九世川柳が記に云、「八世川柳の言に、礫川は四世嗣号の際大いに競争したり。」とあれど予は未だ其証跡を見認めず。或いは八世翁の思い違いなるべし。如何んとなれば礫川翁在世追善会の後十年を経て、眠亭銭丸川柳第四世を嗣号せし際、其摺巻本に翁の跋文あり、次に掲ぐるを読みて其の思想を覚うるべし。

「柄井川柳叟世を辞してよりこのかた、二代目三代目その名を継ぎりといへども句々を判するにいたりては一流の滑稽幽妙を失うに似たり。

たとえば、盲人の象を探りて足を撫でては桶なりと云い、尾を曳いては箒ならんと云いて、いかでか其の真を見ることあたわず。今さちに四代目川柳なむ出でて、全象始めて見え、ただちに真面目を得たり豈よろこばしからずや。はた古柳翁嘗ていえる事あり、もし百年の後ふたたび我が奥旨を知る人出んと、まさに此川柳雅士のために云えるなるべし。嗚呼川柳なる哉干時。文政八年酉の孟春七十八歳文日堂礫川題ス。

   春風にうちまかせたる柳哉  礫川」

右の序言を見ても競争などの卑劣を行いし人とは思われず、是より以後川柳の加評として相撲会ある時は必ず西の立評を為す云々と、いかさま礫川の跋文に穏やかならぬ言辞もて四世の為に、二世三世を斯くばかり抑え一方の四世を掲げ居る所より見れば、其の人と競争などせしとは思いも寄らぬ事にや。

 

四世時代に於ける誹風柳多留は七十九編より百四十五編まで六十七冊の大部に上りき。

 

 

俳風狂句元祖碑石考

 

碑は東京向嶋木母寺境内梅若堂の庭前に在り、石質は自然物の野面ラ平滑な青石で、地平線の直立面縦七尺二寸・横四尺五寸のものを、別に台石をもちいず、地中根深く据え付けてある。

表面には、其の筆者不明であるが中央に「川柳翁之碑」という六寸大の五文字を、其の肩書に「東都俳風狂句元祖」という略三寸大の八文字を隷題し、裏面には上部扁額に総評末廣會と楷題してあって、其の下方に凡そ三十句ばかり鐫りつけたように見えるが、彫刻の鏨浅かりし故にか文字壊滅してさだかならず。結尾の左側僅かに「文政九」という年号を判読し得る、他二三の残缺文字がわかるばかりである。案ずるに末廣大會の評者は、其の当時の三輔が句に「句の評も風雅に和歌の三十一人リ」とあるが如く、四世人見川柳を始め都合三十一人であったから、此人々の咏句を鐫りつけて記念としたものかと思われるが、他の面より考察すれば、或いは本碑建設の来歴を叙記したものではなかったかと思われぬでもない。また裏面の現態が、上部略一尺位より下方は悉皆平滑で、殆ど文字彫刻の痕跡だも認め得られぬ程になっている所より推究すれば、碑石創建以来僅々百年足らずの短期間に於ける、風雨酸蝕の自然的壊滅としては、天工の余りに巧妙過ぎる観があるので、或いは何か特殊の事情突発の為、後日人為的に其の前面を磨潰したものではあるまいかと想像されぬでもない。否その方が、寧ろ真に近いという暗示を与えているものとおもわれるが、今日では碑石以外に憑信すべき材料無く、確かめるに由ないのを甚だ遺憾とする。而して此の柳碑は、末広大会が風松なる者の催主で、文政九丙戌年八月二十八日の開巻であったのと、如上「文政九」の彫刻文字とに徴し、大会開催と同時に建設したものであるという事実が確認できるのである。

此の柳碑の事に関しては、萬治楼義母子(後の九世川柳)が、明治二十二年十月開催の柄井川柳墓参法延会の摺巻に登載せる「元祖川柳翁石碑」の項中に、

「碑面に元祖川柳翁とあるゆえ、誰しも柄井翁則ち初祖の事と思えどさにあらず、是ぞ四世川柳の壽碑に相違なし。四世は元祖伝来の前句付を始めて俳風狂句と改称せしゆえ、茲をいて狂句元祖と自称する由(この事は別項沿革考の中に記す)古老より聞き伝えたれど、猶疑はしければ、一日人見家(四世の孫)に到り古き書物等を取り調べしに、全く四世の壽碑なる事を確に発見したり。依って此疑を解ん為故らに記し置くものなり。」

と明記して、ここに一異説を提唱し、後亦中根香亭が「文芸界」に連載せる「前句源流」中に、此柳碑の事を記述して、

「先年吾が友桃廼舎鶴彦ぬし、此の碑におきて論じたることあり、今其の大略を挙げぐ。ぬしの曰くは、此の碑、初めは吾が初代川柳の碑とのみ思いいたるに、さわなくて、こは四世川柳の建てたるものなりというものあり。されど猶疑いいたるに、先頃九世川柳萬治楼義母子、四世嫡孫人見為助氏の許へ至りて、古書を調べ、慥に四世の建碑なること明らかになれり。尚又人見家に蔵する四世が肖像の自賛中に、「今は下の句ありて上の句をいえるは少なく、初めより一句に作りたるが多ければ、俳風狂句とよべるぞ、おのがわざくれなりける云々、天保三年壬辰春睦月某日東都俳風狂句元祖五十五叟四世川柳」とあれば、四世が元祖と自称したるは疑いべくもあらずや。されど初代川柳出でて、此の道始めてより、是より二世三世を経て、四世におよびたるに、此に至りて四世の元祖と自称するは、如何なる理由あっての事なるか。もし俳風狂句と改称せしをもて、然よべりとならば、五世も亦俳風を柳風と改称したれば、柳風狂句元祖と称すべきか。猶其の狂句元祖と記したる筆の続きに、四世川柳としたるは、頗る自家撞着の観なき能わず。また元祖ということ、初祖に対しても、少し憚るべきことならずや。吾は敢えて古人を傷つけんとはあらねど、後人をして惑わらしめんが為、斯くはいうなり。凡そ著名の地に建つる碑石などに刻する文字は、しかる紛らわしきことなからんように、よくよく注意なしたきことなりといえり。寂思えらく、元祖という文字、当面より論ずるときは、実に鶴彦ぬしの言の如くなれど、四世が元祖といえるは、猶本家又は家元といえると同じ義に用いたるなるべし。売薬屋などには、どうもすれば此の誤りあり云々。」

斯く論及してあったが、世の川柳家は皆此の異説に付和雷同して、四世人見川柳の行為を攻撃し、従って木母寺境内にある「川柳翁の碑」は、四世川柳自身の壽碑なりと断定して、其の不遜の罪を鳴らすもの、此々皆然らざるはなしの有り様となったが、今予が専攻の俳諧、主に川柳史実眼から見ると、上記義母子、鶴彦両説とも単なる当面皮相の見解で、全く考証錯誤の僻論にほかならないという事実を発見し得られるのである。

何となれば如上の「東都俳風狂句元祖」とは、四世川柳自身を自称したるものではないという反証があり、木母寺の「川柳翁之碑」は、四世川柳自己の壽碑にあらずして、初祖柄井川柳翁の頌徳碑たる確証があるからである。其の正否の一切は、建碑の動機及び末広大会の実質並四世が肖像の自賛を究明する事によって、はじめてその真に触れ得るのであるから、斯道の為是等偽らざる史実に憑徴し其の僻説を論破することにする。

但し誤解を避ける為くれぐれも断っておくが、四世川柳の選者たりし時代は、風俗日に惰弱揺麛に流れて、既に安永天明時代の撥刺奇警な観察眼がなくなった上に、風俗上の取り締まりが厳重であって、前句付の上にも厳格な道徳律を当てはめようとした為に、益が川柳を堕落せしめた事実は、予も之を確認するものであるから、此の点におきては、四世川柳の非を匡さらんとこそすれ、敢えて庇護せんとするが如き意思は微塵もないが、いわば全然別問題に属し、本案の場合と混同すべきものでないと思うから、上記の如き川柳史上の重要事たる考証錯誤の僻論に対しては、飽くまで其の紙繆を糺をして、事実の真相を闡明するの手段に出でざるを得ないのである。

前記「前句源流」の鶴彦説は、義母子説に基ける批判にとまり、新たなる史料に立脚しての論評でないから、義母子の謬的考証に出でた僻見であるという事実だに判明すれば、自ら雲散霧消に帰すべく、別に之を反駁するの要がなかろう。

そこで、義母子説に「人見家(四世子孫)に到り古き書物等を取り調べ云々」とは、果たして如何なる書類を指したるものであるかというのに、彼が所謂別項の「川柳嗣号沿革考」中に擧示しているところを見ると、単に四世川柳肖像の自賛を唯一引証としただけで、他に古き書物などがあったわけではなく、唯々義母子一流の誇張説を文飾したのに過ぎない。

而も其の自賛を軽々に読み下して誤解に陥り、他の最も緊切なる建碑の動機及び末広会の実質等に関しては、何等究明する所がなっかたので、遂に斯の如きあられもない疑惑を醸すに至ったものである。

然からば其の動機及び実質というに、此は末広大会の摺巻を閲見すれば、明白に其の内容を知悉し得るのである。則ち此の大会の選巻は、当時に於いて一部の単行本として板行せられた上に、猶ほ「俳風柳多留」九十七編乃至百編の四巻に収載せられ、且つ菅子が序文に其の顛末を叙述して余蘊なしであるから、左に之を抄録して、木母寺の柳碑が四世川柳の寿碑でなく、初祖川柳翁の頌徳碑なる事実の立証とする。

爰に狂句の元祖川柳翁は寛政二のとし故人となり、二代三代の間に俳風を催すといえども事ならず、今四代川柳叟の時に至りて此道の連中打寄り向嶋なる木母寺の境庭に創立せり、鳴呼川柳翁の末々広々なる事奇々妙々也、故にこたび諸連の惣評を乞大会を催し、其集吟の勝番を桜木にものし、柳たる九十七編と題し余れる句々を八九百と、四ツにわけたるとじ文も末広会もあさほしというべし。

             文政十辛とし冬の日     菅子述」

右建碑に関する事実の真相を究明するには、当時に於ける建碑の報條、広告の散紙等に拠るのは、最も的確にして且捷徑であろうと思うが、未だこれらの史料に接せざるを遺憾とする。乍然前掲「俳風柳多留」九十七編の序文の起首に「狂句の元祖川柳翁は寛政二のとし故人となり」といえる定言的宣示に徴して、其の碑面に所謂「東都俳風狂句元祖」とは、四世川柳自身の称に非ずして、初祖川柳翁を指したものである事が、争いべからざる証拠たるとともに、此建碑を企てるに至った経路も、炳乎火を観るより明瞭に分かるではないか。義母子何偽るぞ、建碑に関係もない四世肖像の自賛を援引し、途方もない異説を立てて、人を惑わすとはする、一体此義母子は万事物知り顔に言う癖のある男であったから、木母寺の柳碑においても、彼の四世が肖像の自賛を鬼の首でも取ったかのように、「四世川柳寿碑」の「発見」のと得意がり、忽ち例の衝気を出して其の実、義母子自身は大の四世崇拝者であった所から、柳碑と自賛とを結びつけて、大いに四世の遺徳を顕証せんと企図した事が、却て四世を殃ひし贔屓の引き倒しとなり了るに到ったのは、笑止千万な滑稽談である。

ここに附記しておきたい事は、予が所蔵する末広大会選巻収載の「俳風柳多留」中菅子が序ある九十七編の二巻は、義母子の旧蔵本で其の雅印が押捺してあるのみか、九十七編の表紙に「四世川柳建碑(木母寺境内)末広会ト号ス」と彼自身が朱書きしてあるので、無論此の編を閲覧したものと思うが、さあれ東碓、風也坊の雅印も捺してあり、又義母子が雅印は其の晩年新たに「緑亭」と篆刻した竹材(実は予が贈る所の仙台松島産の簣竹材)の雅印である所から考察すると、此の三人中彼は最後の所有者たらしものに相違なく、さすれば明治二十二年彼が「元祖川柳翁石碑」なる一文を作った際は、この柳多留を所有せなんだばかりでなく、他に末広大会摺巻の単行本だも閲覧して居らなかった当時の事とて、迂闊にも四世が肖像の自賛だけを見ての早合点は、遂に大間違いの基となったものであろう。

斯の如く柳碑創建の時期は、四世川柳時代に於いて風松なる者が催主となり、総連中協賛の下に建設したものには違いはないが、柳碑其の物は、初祖川柳の徳を頌せんが為であった事は毫も疑いを容るる余地がない。則ち此の建碑の挙は、四世川柳嗣号の文政七甲申年九月より三年目の文政九丙戌年八月で、時恰も初祖川柳翁没年の寛政二庚戌年より三十七年目に該当する所から、釈氏所定の追善回忌ではないが、三十三年の清浄本然忌は、四世が嗣号前既に経過し去り、来るべき五十年の半百回満忌は、前途猶遼遠で自己が時世中、祖先に対する本回忌追善供養の未必たることを察知し、七周の休広忌、十七年の慈明忌の回忌に準へ、三十七周の当年に於いて、宗家の祖先に対する追孝の意を表し、且つは二世依頼の惣案であった建碑事業の解決を告げん為に篤志を以て、末広大会なる前途祝福の好名莪下に、此の企てを為すに至ったものである事は、四世の意中を忖度するまでもなく、如実に菅子の序文が之を説明して余すところなしであるのみならず、更に更に同会の選句を以て之を推想するに難しからずである。

  短冊の紫雲へ置て手向の句     三輔

  碑の銘はアア執心の諸連名     古鳥

  是も亦アアと書たき柳子の碑    礫川

  雷イハ晴レ石碑へ孝の袖のあと   古京

  碑の建も回忌に丁度むかふじま   要宣

  埋れぬ名は寶井と柄井なり     三輔

  つかもねへ碑は親国いい手向ケ   春駒

  碑の会も三十七とせの忌に当たり  要宣

  風流の梁となる川柳        山笑

  新ン木が出来て芽をふく枯柳      

是等の追善句及び建碑の当句などが、末広大会の摺巻(柳多留九十七編乃至百編)中に点々抜粋されているところを見れば、其の建碑の目的が、果たして野辺にあった乎ということが愈明白に了解し得られるので、義母子説の如き曲解は断じて許さないのである。

もし夫れ此の柳碑にして、四世川柳が自己の為に建てたものとすれば、必ずや「四世川柳之碑」と題したであろうと信ずべき理由あるのみならず、どうしても四世自身が川柳翁と自称して、翁の字を書き添える筈がないと思うのは、人見川柳は、八丁堀の町方同心で朱総の十手をふり回したとはいひ、相当の学問(無論学者という程ではないが)もあり、井上剣花坊君が其の著「川柳を作る人へ」といえる書中に罵詈饞謗を極めているような、そんな悪人でもなく、金石義例、否な宗家祖先に対する礼儀を紊すような、悖徳漢ではなかったと信じ得らるる形跡に見て判断されるのである。

上来絮説する所に依り、木母寺の柳碑に関する建碑の動機及び末広会の実質を十分に究明し、こに異説の僻見を打破し得たと信ずるから、これより少しく、四世が肖像の自賛において、前句付命名の来歴及び狂句元祖の真義如何を研敷してみる。

由来我川柳には、一定の称呼なく初祖在世の時はもとより後になっても、其の本の名を以て前句付といって居り、或いは川柳点若しくは川柳風などと称しておったが、それを四世川柳が、和歌に対する狂歌より案出して、俳句に対する狂句と命名したのは、全く四世の創意に出でたものであるが、其の名称の当否は姑らく措き、四世川柳の意中では、此の狂句という名は、単に四世嗣号後の前句に付したばかりで甘んじたものでなく、三世、二世のは無論初祖の創作に迄遡り、猶其の範囲を川柳風の句調全体に及ぼして、悉く狂句と称せんことを試みたものであった。特に前句付と言えば初祖在世の頃は、「俳風柳多留」十八編の巻首を見ても、其の一班が知り得られる如く、実に多数の判者が門戸を張っておって、中には全然川柳同様の風調を選評した判者も居ったのである。

詳言すれば初祖時代に於ける判者中、苔翁、蝶々子(五代目)、竹丈、菊丈、黛山等の風調こそ川柳点と其の好嬌を異にする所もあったが、露丸、東月、机鳥、白亀、錦江、幸々等の選評は、殆ど川柳と其の帰趨を同じくし、就中錦江点、幸々点の如きは、もし其の評者名を欠きたらんには、如何に秀でた鑑賞眼有る人にも、容易に真評者の誰たるかを判別することが、出来得ぬ程相酷似しているのである。

則ち斯いった風なすがたで、前句付は全く川柳家の専有物でないばかりでは無く、自然、下の句の無い一句立てとなったのであるから、特定の名称を付することとしたが、之を前句付と称したのでは、どうもすると其の句風に適せない名であるという所から、川柳風前句の本家本元たる旗幟を鮮明にし、一に狂句命名の徹底をきせんとて、「狂句元祖」と銘を打ったものであることは疑うべくもあらずである。

世に多くは、四世が前句付を俳風狂句と命名したことを以て、在来の名称を改称したもののように思うのは大間違いで、是は改称ではなく、甫めて其の名を命じたのである。

此の前句付とは、其の句の名称ではなかったと言うことは、先ず牢記しておかなければならぬ。もし此の概念が確かでなければ、種々の誤解が之より生じるものであるということを、ここに反復しておく必要があると信ずる。

言を変えて言えば、狂句とは川柳風の前句に対し、四世が甫めて命名したものであるから、之を改称したなどというのは語弊あるばかりでなく、毫数里の差千里の諺を致すこととなるのである。

さればこそ、四世川柳は、其の宗家直系の祖先に対し「東都俳風狂句元祖」と称し奉ったつもりなので、自ら元祖と名乗った意味ではないのである。

予は此の見地よりして、四世川柳の提灯持ちをするわけではないが、公平なる史的観察から、木母寺の柳碑に対しては、「川柳翁之碑」といえる頭上に、「柄井」若しくは「初代」か「初世」などという、いずれかの言定的な文字を冠せなかった瑕疵あることをみとめては居るが、さもあれ、剣花坊君の如く「この前句付へ狂句という名を付し、自ら元祖と称しておる。固より役目が役目だけに、官僚根性から矢っ張り川柳界の大将株になりたかったのだろう、大将株ばかりでは無い、自ら元祖と名乗りたかったのだろう。いつの世にも斯うしたべら棒は存在するならいだ」などと悪罵を浴びせるには当たらないと思う。況や四世川柳の真意未だ必ずしも、自ら元祖と僣称したるものに非ざるをやである。斯く四世川柳の受ける過酷な運命を馴到したのには、種々の原因があるが其の主因は肖像の自賛である。

此の肖像の自賛の詞書は義母子の「川柳嗣号沿革考」に登載して有り、梅本柳花(秋の屋)君の「川柳難句評釈」採用されてあるから、既に同好の諸氏の知悉せらるるところであろうが、是は亦真に重要なる川柳史料の一部をなすもので、もと人見家(四世の子孫)に伝えてあったのを、後子細あって現に予が手許に所蔵して有るから、何より確かな証拠として之を提供しうるのである。

今此の四世の真跡の本書に依って見ると「東都俳風狂句元祖云々」の署名は、之を一行に書き続けたものではなく、次の如く三行に分記して、こらに四世川柳と署名して有るところから見れば、元祖と自称したものではなくして、其の肩書の元祖なるものは、蓋し宗家の直系たることを意味する積もりであったろう。

 

「    東都俳風狂句元祖

         五十五翁

      四世  川柳 印 印  」

此の点に対する「前句源流」の中根説に「四世が元祖といいるは、猶本家又は家元といえると同じ義に用いたるなるべし」との批判は、真個卓見にして妥当なる確論と言うべしである。

実を言えば、「前句源流」中には往々首肯し難い僻説なきにしもあらずであるが、この狂句元祖論は直截簡明我が心を獲たりであるばかりではなく、全くその真に触れている卓説なりと信ずる。

又天保六年寶玉庵三箱の編輯に依る「俳風狂句百人集」にも、四世川柳と署名した肩書きに「狂句元祖」の四字を記してあるが、是も前同様の理由から、川柳宗家の義に用いたものとするのは、妥当な見解であろう。

義母子等の説は、唯々文字の末に拘泥して対局を通観するの明を欠く弊に陥っておる。如何にも四世が書法を単に当面より論ずるときは、決して当を得たものと言へないには違いはない。本来なれば、宗家の祖風を宣揚する代名詞の如き、特に用語の選択を厳重にし曖昧な点のない様にしなければならぬこと無論である。ことに金石文字などになると、百世不朽の業であるから、明瞭透徹、毫も誤解の惧なきは無論、曲解の余地だにない様にする必要があるとともに、又適当な儀例を守らなければならぬ。一班に斯くありたいものではあるが、さらばといって、実際は必ずしも之に伴うものではない。のみならず市井の出来事などになると、寧ろ之に遠ざかった現象を呈するのが普通である。況んや四世川柳はもともと学者文章家という程でもなかったから、如上碑石に対する形式上の瑕疵が縦しあるとしても、之を追求して其の実質を没却するというのは見当違いの極であるから、否ナ々春秋の筆法を以て、川柳の如き国民の通有性に基づくところの、所謂平民的軽文学を律せんと擬するのは、事情に迂闊な僻論家の陋態と言わざるを得ないのである。之を按ずるに、義母子、鶴彦両説は、一知半解の僻見に出でたもので、毫も史実の真に触れていないから之に惑わざらんことを同好諸氏に警告すると同時に、木母寺の川柳碑は事実全く初代川柳頌徳の俳風碑なることを宣明する所以である。

 

 

 

五世川柳

 

水谷氏通称金蔵。日本橋茅場町に生まれる。父は魚商たりしが、九歳の時親を失い佃島の漁夫水谷太平次に養われ同所東町(今の京橋佃町三十四番地)に住し、御用魚商を営む。初め貧窮なりしが大いに家業を力め資産を興し、身裕かなるにつれ天凛の才を傍ら文学の研究によせ、腥斎佃リと号して二世川柳の門に入る、時に年十九、文化二乙酉年なりき。二世没後四世人見川柳の門下となる。柳亭種彦と親交あり。伝うる所には種彦が偐柴田舎源氏の草稿は必ず五世の検閲を乞しとなり。

 

又当時歌文の大家井上文雄、加藤千浪等と交を結て歌学にも頗る通暁したり。天保八丁酉年八月四世の譲りを受けて五世川柳となる。

 

種彦が五世川柳名弘会(柳多留百四十六編)の序に曰、

「川柳の名を継ぎて五世となるものハ誰ぞ。佃島の佃なり所のさまも須磨に似かよい、明石町へも言いわたる程なれば、香の国の焼印押したる、はんだいとかいう魚桶に源氏物語をとり重ね、せわしき物師走の月に杭さらしを操ふらけど、旦には日本橋の市に立ち、夕には等盤帳面を側におき、活計更におこたらず其暇なきうちに彼書を読み狂句を吟ずる事数年昔、境の薬種屋が宗祇を請ぜし連歌の席にて胡椒三文秤にかけて売りたる類、実に風雅の人にしあれば先生と崇められ宗匠と尊まるるは、原来(もとより)(のぞま)ぬ事なるを、四世の川宗故ありて其名を譲るに(いぶみ)がたく、佃子の諾されたるは、いわゆる以心伝心なり。かく名声にかかわらぬ子が性質なるにより別に大会を催さず、唯月並みの会を評して名を継ぎたるよしを披露す。そのことわりをここに記すは彼香の国に因ある偐柴の作者柳亭のあるじ種彦なり。」

と以って五世の為人と来歴とを想見ずるに足るべきか。

 

又五世嗣号の事に関し九世川柳の説に、

「当時麹町に住む五葉堂麹丸なる者豫て五代目の立机を望み居たる処、鎧図んや四世翁の先見明らかにして、直接佃へ祖先伝来の印章そのたの書類一切を授與すれければ、麹丸の失望比喩るに物なし。ここにおいて当局者は素より常に麹丸の恩を蒙る者共は憤然となり、同人も煽動して別に山の手へ一派をなして緑亭翁に抗し何をか為す事あらんとす。然れども昔の人は正直且恥を知るが故濫に宗家の名義を犯す事なく、依然麹丸の名義を以って立しが、終始敵する事能はず大いに後悔したるを、入船連(日本橋)、唐獅子連((中橋)、和歌堀連(南北八町堀)等の連中協議の上先師人見翁に仲裁を頼みしかば、翁は密かに麹丸を説得するに、遉は江戸っ子の性質諸事に分かりが早く何分宜しくと折れて出でたるゆえ、翁も大いに喜ばれ双方を扱い、当時木挽町にて有名なる割烹店粹月において和議を調え、以後麹丸は加評名義にて通常の楽評にはあたざりしと。夫より後五世翁も同人に対し特に待遇を厚くせしかば、其の厚意に基好き弥よ斯道に画くしけるにぞ、麹丸の名は今日に至るまでも毀傷することなく世にもてはやされしも、一っは己を顧みるの思慮あるがゆえなり。」 

と誠しやかに記しあれど、いまだ其の証跡を認むべき史料に接しず。且九世は五世と姻戚関係あり、五世一代を修飾せんが為したるものにあらずやと疑うべき点なきにしもあらねば、ここに一説として註しおきぬ。

 

緑亭、風叟の別号あり。四世命名の俳風狂句を柳風狂句と改称す。初めて柳風式法を定め地方判者免許の制を設く。

柳風式法の事長ければ後に付記すべし。

或る記に、地方に於いて立机免許を請けたる者は其の地限り、公然と点料を取りて引墨に従事するは無論のことなれど、立机者は冥加の為元祖以来歴代の宗匠を祀る意にて五六世の頃は供物料と称し、新年に到れば凡そ五百疋(当時の通貨金壱両壱分)を宗家へ献納せし由。且其の頃の点料は一句一文なりしと云う。

按ずるに、五世嗣号の天保八丁酉年は、恰も一点人の口を干すいう綽名の出でし所謂天保大飢饉の翌年にて、米価は百文に四合より二合五勺に暴騰し江戸市民が生活難に苦しめられ、春来火災多く人々不安且疫病流行、市中三箇所に救う小屋を立て、貧民をふるわすの凶歳たるのみならず、三月には大塩平八郎大坂に乱を起こし、六月には米艦浦和に来るを砲撃し、十一月には三河島砲台を修築すと云う世の有様にて、人心恟々今に天下の大乱起こらんとするが如き物騒なる時にてありき。幕府に於いても大いに戒心を加え財政を緊縮し風紀を取り締まり、天下に令して勤倹尚武の警告を発するに至る。尋ねて執政水野越前守忠邦諸政を改革すと云える時代となり、風紀の取り締まりは実に峻厳を極め富興業を禁じ、文身を禁じ、劇場の散在を禁じ、岡場所と称する遊所を禁ずるなどの外、出版物に対しても

「自今新書物の儀、儒書、佛書、神書、医書、歌書とて書物類其筋一通の事は格別異教妄説を取交え作り出し時の風俗人の批判等を認候類好色画本等堅可為無用事」

と云う町觸を発し人情本や俳優遊女の図など皆発行禁止し、版木を没収すると共に柳亭種彦、為永春水、寺門静軒など皆取締令に依り処罰せられたりしにぞ。

元来五世川柳は極謹直に真面目なる性格にて、移住地佃島の悪風俗を慨し切に勤善懲悪の道話会などを開き、盛んに風俗の改善を計り終に幕府より褒賞を受けし程の人格者なりしかば、深く此時代の趨勢に鑑み、文芸の余技たる狂句川柳も従来の如き楽観的洒落ならんは、風俗を紊乱し世道人身に弊害を及ぼすの虞れあれば、自今道義の上に立脚せざるべからずとの見識を以て柳方式法なるものを定め、且つ柳門維持の為封建的世襲の制度を設くるに至れり。さらぬだに四世の頃より衰徴の兆しを誘起しつつありし事とて、今此五世が誤れる改革に依り全く川柳(作句)の真面目を変化せしめたる結果は、斯道に大打撃を与え精神的に其の本領を滅亡せしめ、これより以後の川柳(作句)は皆悉く仁義、忠孝的の単語となり、従来滑稽の中に含蓄せる、穿ち可笑味の洒落は遂に得られぬこととなりぬ。

 

天保十己亥年九月元祖川叟五十回忌追善の為、木枯の遺吟を彫刻したる碑石を龍寶寺法堂前左方に建て大会を開催して俳風柳のいとぐち二巻を発行す。

此石碑は当時有名なる書家田畑松軒の筆にして碑面後背に次の通り記あり。

  柄井川叟五十回忌為追善建之

          五代目

             川柳

  干時天保十己亥年

        九月吉祥日   世話惣連

               催主 壽山

                  升丸

 

天保十二辛丑年正月新編柳多留を創刊し、爾後年々続刊して五十有余集に及ぶ。

按ずるに新編柳樽に二種あり。一は五世風叟撰にて錦耕堂山口屋藤兵衛板なり。他の一は当世堂蔵梓に依り表紙裏面に次の如く記あり。

川柳宗匠撰秀吟書抜    

新編家内喜多留 全    

     東都  当世堂蔵

上記の如く記しあるも、表題の貼紙には編数を記入したる角印を捺し、其の題名表紙共錦耕堂板と同一の様式にして、唯新編の二字を横に額書せるの差あるのみ。

当世堂板の新編柳樽は嘉永初年の頃数編を発行せしに止まるものの如し。

弘化年中絵本柳多留数編を版行し、其の他一代の撰集枚挙に遑あらず。

 

安政五戊午年八月十六日没す。享年七十二京橋区築地二丁目十八番地真宗龍谷山西本願寺別院に葬る。法名は釋浄豊信士。辞世の句に曰、

    愛されし雅を思い出にちる柳

 

水谷家に伝うる所の五世風叟の画像を見るに、安政五戊午年立冬日綾岡(清松輝松)の懐影慕写せるものに係り結髪にて、酸漿黄蓮の五紋所ある羽織と袴の礼服を着し短冊と筆を手にし、左側に扇と刀とをおき右側に上和下睦の題字ある墨をのつけし大硯を扣え、其の風貌如何にも庄屋然たる座像の上に、六世川柳が筆もて五世の辞世を首書し次に左の如き調書あり。

「翁は壮年の頃も世業に怠りなく行いたたしき事、聞こえてふたたびまで尊命を蒙り御褒美を給りぬ、また花には入相をうらみ月には更るまで首をかたむかせ句を吟じ余事を忘れし甲斐ありて、ことの葉のしげみをわけ良木を撰り添削の斧当たる身とはなりて、益々此道繁り々々て昔に倍せし栄えこそ徳の至れるなるらん。世の末も流れを汲むもの此五世の教示をしたはざらめや。

    其振りを道の目当てぞ玉柳     」

五世風叟は学博和漢の古典より雑書に渉り、著述の書俳諧問答を始めとし、狂句百味箪笥、狂句新五百題、俳人百家撰、瑞應百歌撰、寿特百人仙、畸人百人一首、贈答百人一首、列女百人一首、秀雅百人一首、義烈百人一首、英雄百人一首、続英雄百人一首、勧善五常の玉、天禄太平記、祥瑞白菊物語、遊仙沓春雨草紙、於竹物語、田舎織糸線狭依、政談国画、誠忠義士略伝等ありて世に行はる。

 

按ずるに、五世の享年七十一歳の説あれども、今衆説に従い七十二歳と記しぬ。

 

五世時代に於ける俳風柳多留は百四十六編より百六十六編までにて終止したりき。

(此檉風記述は誤り。百六十七編まで確認されている。)

按ずるに或る書に柳多留は嘉永三年までに第三百八十三編迄出版とあり。されどこれは何等根拠なき妄説にして信ずるに足らず。

 ページ先頭へ

 

 

 

六世川柳

 

五世水谷氏の長男にして、幼名を喜代松と云う。幼名金次郎と記せる書あれど、今六世の遺族及び古老の伝える所は全く喜代松にて、金次郎は恐らく六世の孫に金太郎と云えるものありしを聞き違えて記せしものなるべしとなり。

後父の名の金蔵を襲ぎ隠居して謹と改む。初め「ごまめ」と号し岸姫松連の巨擘たり。父没後順を以って六世川柳を襲名し和風亭と号す。父翁所定の式法に準拠して、其の規矩を越えず引墨最も勉む。

安永七庚申年(蔓延元年)春より文久慶応年間に於いて画入柳多留数巻を上梓して世に行う。

明治三庚午年四月父翁風叟十三回忌追善のため、

    和らかくかたく持たし人心

といえる五世の吟句を刻せる碑石を菩提所築地本願寺に建立し追福大会を催して柳の栄三巻梓行す。

碑面の筆者は古稀加一翁書とあれど、これは有名なる歌文家井上文雄の事なり。此の句俳風狂句百人集には「和らかで」とあり、又五世の自筆には「和らかに」とあれど、今ここに「和らかく」とせしは五世翁没後文雄大人加筆せしものなりといえり。按ずるに井上文雄は明治四辛未年十月十七日歳七十二にて没したれば、其の前年即ち七十一歳の時に斯くは古稀加一翁と書せられしと見えたり。又碑の後背に次の通華厳所依の経文を記しあり。

「化現其身猶如電光善学無畏之網暁了幻化之法壌裂魔網解諸纒伝超越声聞縁覚之地得空無相無頼三昧善立方便顕示三乗於此中下而現滅慶亦無所作亦而現滅慶亦無所作亦無所有不起不滅得平等法具足成就無量総持百千三昧諸根智慧広普寂定深入菩薩法蔵得佛華厳三昧」

後建碑の場所は官用地となりしゆえ、明治十四辛巳年五月向島なる三圍稲蔵神社の境内に之を移転し、転碑会狂句合の挙あり。それと同時に、

    つまらぬというはちいさな智慧袋

の自句を鐫つけたる壽碑を五世の碑の傍に建て、しげり柳を版行す。是より先き明治十二己卯年十一月開化家内喜多留を編輯し、又二代目笠亭仙果(通称篠田久次郎狂名月之戸須本太)と共に明治新調月鼈集を発行せり。

 

明治十五壬午年夏有柄川宮幟仁親王に謁し、

  かわ風の吹きかたよりになびけども

         みだれざりけり青柳のいと

という御染筆の和歌一首を賜り畏み歓びて、

  吹きおろす風にひれ伏す糸柳

の吟句を以って奉答し、こよなき面目を施こしたりしが、幾程もなく其の年六月十五日、日本橋区伊勢町の旗亭(今の中華亭)に於いて会宴中卒かに病で没す。

辞世の句なし。享年六十九歳。

 

水谷家に伝うる所の画像あり。柴田是眞の写生せしものにて、羽織に袴の礼服を着したる座像の上に、括嚢舎柳袋(後の八世任風舎川柳)が有柄川宮の賜歌と六世の奉答句とを首書し、次に左の詞書をしるせり。

「先師六世翁の風韻大内山に聞こえ、かしこくも有柄川一品の宮より王製の和歌一首を賜り、狂句もてそか返し奉りしとて、いと嬉しみ悦れしか、幾程もなく遠き路に旅たたれ思すも冥土のつととなりにしを惜しみ孝子こまめぬし、是真翁の師が生前画かれし肖像の上に掲げて朝暮の拜票として、追慕の情を慰る具とせらるると聞き懐旧の涙を硯にそそぎ事のよしを書き添えるになん。」

按ずるに、六世は急病にて終わりたれば辞世の吟なし。故に一世の栄たる有柄川一品宮幟仁親王より台賜の御歌へ対し奉りて、御返しを申し上げたるが一世の吟み収めなりしかば、宗家にては其の奉答句を辞世に換えれるなりといえり。

築地西本願寺の先塋に葬る。法名を釈祐正信士と云う。

 

吉澤六石が六世川柳翁追薦狂句合(明治十六年六月二十四日開巻)の序中に曰、

「翁資性宥厚句調靄然、又善々部下を遇す。旧幕府其篤志を挙て賞銀を給うこと既に三度に至る人。佃島の渡りに至って宗匠を訪うと言えば、船子其賃を辞すと云う。

維新後東京府廳褒状を賜うて、其善く一島を御するの功労を賞するを数次、以って其徳望あるを知るべきなり事雲上に達し、有柄川一品親王玉歌一章を賜る。翁亦返草あり嗚呼翁の栄誉浅からずと言うべし云々」

按ずるに、九世川柳が記に云。

「予は明治二十五年の五月柄井家再興名跡相続の後、同年十月川柳忌の前日菩提所龍寶寺に於いて告祭の法要を営み、其際元祖より三世までに居士号を贈る。又水谷二氏は真宗の習慣として、平民に院号居士号を許さぬ仕来りなりしが、明治二十七年の六月十五日の十三回及び八月十六日(陽暦に改め九月十二日)は五世の三十七回忌相当なるを以って、之を引上六世の忌日に西本願寺の輪番某氏に懇願して許しを得たれば、予の考案にて五世には眞實院、六世には安楽院の院号及び居士号を贈りし云々」

と、誠に然る事のありけるや、今菩提所の寺牒を徴し見るに、さる形跡のありしとも認められねど、参考の為ここに注しおきぬ。

 

 

 

七世川柳

 

初め山縣氏幼名は仙太郎。広島久七と通称し、雪舎と号し庵号を風也坊という。水谷家の姻戚にして浅草区吉野町八十一番地に住し煙草問屋を営む。七世翁は俳諧師にして帷草庵帷草を師とし、遂に帷草の別号風也坊の印可を請け以後柳風に於いても此号を用いる。帷草没して由推実を師とし後、施無畏庵甘海の門に入り一丸と号し、後年得蕪の跡を襲ぎ二世福芝斎蕪壌と名乗る。最も書を能くす。安政年間六世翁立机の際より始めて柳門に入り、遠近普く毎会殆んど欠くことなく多額の出句をなし、自ら会幹の任に関する事大小四十余回に及ぶ。明治十五壬午年六世没後十月、宗家姻戚の縁故により社中の耆宿括嚢舎柳袋、大過堂真中、臂張亭〆太の後援を以って蜿@七世を嗣号す。専ら開化の新調と称して拮屈奇矯の格調を唱う。柳界靡然と七風に化し宛ながら荻生徂徠が古文辭学を唱えし当時の如き観ありき。恁くて明治十八乙酉年四月羽前の風士住吉庵悠哉の勧告に基ずき、柳風交誼人名録を編集して此道の交誼を拡張せり。又明治二十丁亥年晩秋柳風狂句万題集を発行せしが、完成を告げずして止みぬ。同じき年九月十一日退隠して名を柳翁と改む。

伝うる所には七世翁退隠の事其の本意にあらざりしが、三耆宿推挽の当時或期間後退隠すべき誓約ありしに拘わらず、無視して辞譲せざりけるにぞ、眞中より厳しく其の履行を促され、遂に余儀なく退隠することとなりしかど、現地位に恋々たる七世は何思いけん突如として先例なき左の後嗣公選の議を提出したり。

 

一、迂老近頃稍衰弱に及び、机上従事疲労に仍而断念退隠願度就而ば社中一同不日集会御催被成。後任は投票選挙の上御決定可被成候。

一、本日の会に出句不被致欠席の君えは、迂老より此旨通達致し置候間会席及び期日確定の上は為念不漏様御報知可然侯。

一、前書の件は地方社中へ悉皆迂老より広告致候。

一、選挙の上嗣号の任に当たり候君は御一名にて、迂老に御入来可被成候余人御差添の儀は謝絶いたし候也。

      明治二十年九月十一日     七世川柳

   東京柳門社会 御中

此の一種珍妙なる提議は、第五四月次親睦会の抜萃に付記して発表せられけるにぞ、東京社中もこれには痛く面食らいしかど、協議の末東京府及び近県の社中投票を行うこととなれるが、七世の真意蓋し近県の社中の衆望を自身に集注せしめ、其の投票を以って現地位に留まらんことを画策したるものにてあるけんも、開票の結果は予期に反し括嚢舎柳袋の当選となり、ここに満々たる野心を抱きつつ退隠を余儀なくするに至れるなりといえり。

 

爾後加評の位地に在りて、一方の裨将たること四年。

明治二十四辛卯年九月五日没す。享年六十七。東京府葛飾郡吾嬬町大字亀戸二百四十五番地曹洞宗亀命山慈光院に葬る。法号は清風庵涼月柳翁居士。辞世に曰く、

戸締りを頼むぞ吾は先へ寝る

 

按ずるに、元祖以来の柳風は五世の立机後、天保度の改革似合い俄かに挫折してより、再び旧に復せず、哀類其の極に達し平淡俗語を本領とし滑稽軽味を生命とする風刺奇警の風調地を払って其の跡を絶たんとせり。されど維新前までは多少見るべき柳句なきにしもあらねど、七世時代に至り専ら文明開化の新調と称して在来の川柳を破壊し、拮屈なる漢語調の技巧弄作に選を取り、堕落に堕落を重ねて痴人の藝語と擇ぶところなきたる洒落なる語呂合謎々の即興的遊戯文字と化せしめたるは、是時代の思潮の傾向とは申しながら、一は七世翁が誤れる引墨の致す所に外ならず、実に柳会の荒廃七世次代より甚だしきは無く、其の在世前後十年間に於ける選評幾多の摺巻は全然縁語ずくめの俗悪調を以て充たされ、川柳の真生命を伝えるもの殆んど皆無にして、元祖以来の川柳は茲に到って精神的に滅亡しけれりと謂うべきにや。

 

 

 

八世川柳

 

上毛の人。富田永世の男にして、文政三庚辰年八月二十五日富田町に生まる。幼年の頃江戸に出、旧幕旗下の臣大久保家を継続す。諱は忠龍、左金吾と称し御廣敷御用番より清水家付けとなる。嘗て佐藤一斎に随い漢学を修む。雑学亦宏博なり。維新の際主家の叛状を忌避し旧領武州児玉郡の地名に因み、官準を経て児玉環と改め以後之を通称とす。柳風は天保十三壬寅年冬より五世風叟に従遊して括嚢舎柳袋と号し別号を任風舎と云う。五世没後六世の着遇を受ける事最も厚く、我が没後は足下管領すべしと時々戯言せられき。明治七甲戌年一月官に仕えて岩鼻県十三等出仕に補せられ、同九丙子年四月秋田県に転し同年五月中屬に補し、同十一戊寅年一月権大屬に任ぜられしが、同年十一月二十五日辞職して帰京の後は、閑散風月を友とし再び柳の道に遊ぶ。下谷区谷中清水町一番地に住す。明治十三庚辰年四月大過堂眞中と共に生前に追善会を催し、以後化外を以って別号とす。六世遠逝の際継嗣を慫慂する者ありしも辞して応ぜず。明治二十亥年秋七世翁柳壇を辞するに及び、同年十一月二十七日東京府外神奈川、千葉、山梨三県の社中投票を以って後嗣に当選し八世川柳を襲名せり。

 

八世立机の際主幹たりし大過堂眞中、錦太楼鉞青陽舎柳が八世川柳立机披露会柳風狂句合跋文中に云。

「我安永の際、柄井川柳風流洒落狂句の一派を開いてより二世三世に相伝し、三世は其任に協はずして退職し、四世川柳は社中の推選に依って暫らく牛耳を執り、五世水谷川柳は四世の選抜に係るも能く其任に適し、博学多識頗る此道の隆盛を致せり六世は其男なり。七世は其親族にして亦社中二三老輩の推挙に依って就職せり。然に七世は客歳秋退隠せられたるを以って、八世川柳其人を挙げるの議起これり。是に於いてか之れか委員を設け相評議せしに、広く社員の投票を以って選挙することとなれり。則同年十一月二十七日神田区相模亭に集会せしに、府下は無論南総甲府八王子等よりは代理人出席せられ、公選の結果児玉柳袋氏投票の最多数を占められたり。而て同氏齢既に六旬に超えたるを以って固辞せられたるも、社中多数の苦勤に依り遂に八世川柳の冠冕を載かれたり。依って其交壇披露の挙あるに及び、同氏及び委員各位より迂生等に本会の擔任者たらんことを嘱託せられ、迂生等亦此道の為に奔走することを厭わず、案内各位に広告せしに、八世翁の人望ある各位の祝評甲乙百十余名集吟積て二万有余章となるに至れり。依って曩日広告せし斯日を誤らず、五月五日六日の昼夜を徹し浅草区鴎遊館に於いて開巻せしに、地方各位を併せて一百余の出席あり、秀逸の披口に際しては喝采の声墨田の中流に響き浮遊鴎児をして殆んど警飛せしめたり。実に未曾有の盛会と言うべし云々。」

と、以って八世嗣号の顛末及び其の性格の如何を想見ずるに足るべきか。

按ずるに、八世翁は謙遜辞譲の徳に富み曩に六世病没の際、七世を嗣号せよと慫慂する者あれど、予は固辞し後ち七世風也坊退隠に際し、社中の多数の投票を以って八世たらんことを請いたるも、亦辞して容易に応ずるの気色なかりしが、説者あり、柳袋氏は既に逝けりとするも化外氏いまだ存命なり何ぞ辞するの理あらんやと、翁も今はた詮方なきに之を諾せしなり。

明治二十三庚寅年十月宗家継承記念として柳風肖像狂句百家仙の編輯あり。翌明治二十四辛卯年三月改正増補柳風狂句交誼人名録を編集して社中頗る交際上の便宜に適せり。

 

明治二十五壬辰年十月一日没す。享年七十三。

八世の没年、俳諧年表には明治二十四辛卯年の條下に記しあれど、これ大いなる誤り。又七世の没日に関し、或云七月と割註しあるもこれは恐らく太陰暦の月を誤り伝えしものなるべければ、ここに付記しぬ。

小石川区茗荷谷町二十六番地曹洞宗青龍山林泉寺に葬る。法号は川柳院徳法環翁居士。

辞世に曰、

    散るもよし柳の風に任せた身

 

 

九世川柳

 

初め前嶋氏。天保六乙未年七月十二日日本橋室町に生まる。同所木屋の一族半兵衛の男にして、母は五世翁の姪なり。幼名乙吉、後に和橋を通称とす。諱は好信、字正秀、焦畫堂、又、風柳閑人の別号あり。曽て狂句は五世の晩年六世の教示を受け、入船連に加わり和橋亭義星と称せしが、日本橋創建の年号に因み萬治楼義母子に改む。幼にして絵画を好み、十三歳の頃鏝の焼画を自得し後是を兼業とす。明治七甲戌年新聞記者となり操觚社会に入る。浅草区新旅籠町四十番地に住す。明治二十六癸巳年四月二十三日全国社中投票の結果、大多数に因り九世川柳を嗣号し、同き年六月一日元祖柄井家の絶家を再興し、其の家名柄井氏を継ぎ旧名に因って居を無名庵と号し緑亭を別号とす。

九世嗣号者公選の際は、麹町区山元町三丁目弐番地に住める臂張亭〆太(中村万吉)なる者、九世の立机を望み萬治楼義母子と候補を争い、投票の結果落選となりしかど、〆太派は之に服せず自ら立って第九世を称し、正風亭川柳と号して対立の姿となり、一方は柳門祖翁正統九世無名庵川柳など標榜するの滑稽劇を演じ、人をして何れが真の川柳なるかに迷わしむるの観ありしが、臂張亭〆太は明治三十一戊戌年十一月二十六日病没し、ここに一人の川柳とはなれるとなり。

 

明治二十七甲午年三月明治天皇皇后両陛下大婚満二十五年の御祝典に際し、社中有志八十一名総代となり柳風俳句祝吟詠進の献納を出願して、聴許せられ詠進柳風狂句集の出版あり。

「柳風詠進の事、当初川柳点狂句と題して宮内省に出願せしが、聞き届けられずとの指令ありしかば、更に之を柳風俳句と改め、且つ六世川柳が有柄川宮幟仁親王より台賜の和歌并六世の奉答句に関する事項を書き添え、再願の手続きを為し遂に聴許せらるるに至りしという。按ずるに、再願の書中に去る明治十五年中故有柄川宮一品幟仁親王殿下隅々御遊漁の際、住吉神社の詞官平岡好国方に入御被為在御休憩の砌り、六代川柳の吟詠を御覧被遊柳風の世に裨益なる事を御賞誉の余り、忝くも川柳に御目通り被仰付御懇の蒙上意を以来、狂は教の文字に換えしとの台名を下し賜り、加之御親筆の御詠御短冊を下賜被為被為在云々」と記しあり。此事前に漏らしたれば茲に付記す。但し台名下賜りとは実事にや覚束なし。

又柳風詠進之記事中に左の説を記しあり。今之を節録して九世が川柳観を知る便に供しぬ。

「夫やまと歌は遠く神代に起こり、素盈鳥尊より三十一文字に定まりしは事能く人の識る所なり。夫より幾とせを経て俳諧体を分かつ事は古今和歌集に見えたり。これに傚い連歌に又俳諧体あり、世下りて武将足利制度の頃、守武宗鑑などいえる者出て単に俳諧の発句と唱うる一種のものを起こす。爾後さまざまの流派おのずから分かる。正保年間西山宗因難波に任し、談林調の一派を起こして大いに世に行わる。遂にこの流れより来山のごとき達吟を出せり。吾祖川柳翁も元同派より分かれて出藍の誉れ高し。その頃連歌の体に傚い前句付いうもの流行し翁もこの道の判者と仰がれたり。然るに当時他の判者中に事故ありし為、翁も一時官廷に召されて其口調の尋問を請けたれども、柳風の一派は元来勤懲を専らとし天理を説き人道を諭し総じて心学に渉る事を務る旨を答え、其句調の他に異なるを証言して一句を差し出す。曰く、

    高枕これも日光細工なり

と、之即ち東照宮の乱れたる世を治めたまいしに因り、其疵蔭を以って人民枕を高く安眠するを喜び謝したるの句意なれば、却って幕吏の褒賞に與り、其れゆえを以って公然判者を許されし由。この事は予が叔祖五世の翁より伝聞する処なり。祖翁是よりしてますます俳道を研究し、従来用いたる下の句の題を捨て初より一句立てとはなしたり。是を柳風狂句の權輿とす。降って文政の末年人見四世翁に至り、俳風狂句と改称されたる事は同翁の筆記するところなり。斯変化して来たれども往時に溯れば一派の俳句なること明瞭なり。されば和歌と云い俳諧と唱へ前句狂句と其の名目こそ換われ、詰まる処は造化の妙用に従い人間に備わる七情の懷を述べ、或る時は花に七日の短きを惜しみ、又或る時は月に狂雲の影妬む事を恨むなど、其言の葉の上にこそ雅俗の差別はあるとも、其おもむく処に換わる事なし。」

 

同年十月機関紙柳之栞を創刊し、又明治三十丁酉年七月柳風狂句栞といえる雑誌を発刊したれど、孰れも三号雑誌にて終わりき。曩きに明治二十八乙未年三月柳宗忌を修し以後之を定例と為す。九世が柳宗忌序言に云う、

「凩しや跡で芽をふけ川柳の一句を残されたる吾曩祖柄井の翁は、予め未来を推測され寛政二年の九月二十三日を以って雲隠れ仕給給いしが斯の遺吟空しからず、其跡を植え継ぎし者先師まで八つの数とは成りぬ。元来祖翁の正忌は前記九月二十三日を用い来し處、去る二十二年の秋正当百年忌の際、予が計らいを以って陰陽暦を対照して十月二十日を用いる事とせり程、一昨年二十六年より従来の祖翁忌を単に川柳忌と改称し、是を秋季の例祭と為す。されば之に準じ二世より先代までを合祀して柳宗忌と名ずけ、中祖四世翁の忌日陰暦二月五日を陽暦に改め三月十二日を以って春季の例祭日と定む。然るに本年は創設に依って百事整はざれば、同年に十四日に延期し浅草公園の五色亭に執行す。当日の模様は豫て予が拙き筆もて一幅の内に写しまいらせたる、七霊の肖像に辞世の句を添えたるを神主と為し、正面床の間に掲げて酒餅香花を備え、又有志諸氏よりも特に献供等ありて賑々しく開巻したれば、代々の御霊も嘸な歓び給いし事ならん程後の栄えを祈ると共に、其景況と当日選けに上りたる佳吟を併せて全国会員諸氏の許に報告する事爾り」

と、按ずるに柳宗忌の例祭は九世の創設に係り、以後宗家に於ける行事の一と定めたるものなれど、九世の死亡と共に自然的廃絶に帰し、今は従来の祖翁忌のみとはなれり。従って七霊肖像の一軸は十一世まで之を伝えたりしかど、他へ転して現存の宗家は所蔵せずとなり。

 

明治三十二己亥年十月開晴舎昇旭(後の十一世川柳)と共に、柳風狂句改正人名録を発行して風交上の便に供せり。又別に明治新調柳樽数巻の梓行あり。

 

明治三十七甲辰年四月十一日没す。享年七十。龍寶寺柄井家の墳塋に葬る。法名は緑影院和橋川柳居士。辞世に曰く、

誘われて行なら今ぞ花の旅

明治三十八乙巳年四月十一日の小祥忌に際し、九世が長子柳之助なる者向島三圍稲荷神社の境内に在る五世六世石碑の側に、

    出来秋もこころゆるむ那鳴子曳

という父翁会心の句を鐫つけたる建碑の挙あり。碑面の筆者は五峯高林寛にして其背に左の伝記を刻せり。

「九世川柳翁名正秀前島氏号萬治楼義母子又号和橋以其生干江戸室街家近干日本橋皆取名焉及嗣柄井氏称川柳別有緑亭無名庵等之号明治三十七季甲辰四月十一日殉享年七十葬干浅草龍寶寺翁之俳詞称柳風寶寺翁之俳詞称柳風狂狂句其社曰柳風連多季之執牛耳名声震干遠邇矣其可伝遺鉢者為昇旭昇旭有昇旭昇旭有故雪雁暫承其の後

明治三十八季乙巳四月

        男  前島柳之助 建」

又同年九月小林昇旭、九世の遺嘱に因り、誘われての遺吟を彫せる碑石を龍寶寺庭前の門内右側に建つ。此碑の筆者は十世川柳なり。

按ずるに、九世川柳は博覧にして雑学に渉り、教育勅語解、大日本大祭祝日解、本朝歴史、本朝名婦伝、終身教育、新家庭教育、釋尊御一代記、興教大師一代記、圓光大師一代記等短編物の著書頗る多しと云う。

 

 

十世川柳

 

江戸の人。菅久三郎の三男にして、弘化三丙午年五月二十六日元山谷町田中(今の浅草区元吉町)に生る。平井家の養子となり、平井省三を通称とし北窓雪雁と号す。手師西村藐庵(吉原江戸町二丁目の名主)の外孫にて小山柳麓(徳川幕府の神仏御用達)の甥なり。夙に黒川眞頼の門に遊び、語学歌学を修め忠道と称し俳諧を施無畏庵甘海に学んで月鴎の名あり。又高斎単山の門に入りて書を能くし栩堂と号す。資性豪放不覊にして物に拘泥せず頗る奇人の風あり。弱年の頃より柳麓の誘掖に因り、柳風に遊び達吟の誉れ高く佳句妙案を吐露して錚々の雅伯たり。浅草区千束町三丁目五十八番地に住す。浅草区に市吏員たること多年。九世没後社中の歓奨に因り十世川柳を襲ぎ狂句堂と号す。

 

白念坊大槻如電が十世川柳翁嗣号立机披露会柳風狂句合に序して曰く。

「川柳狂句の世に興りしより百五十年、第九世和橋つねに来り点竄句中の難義難題を質されたりき。十世雪雁は手師藐庵の外孫にて夙に黒川博士の門に遊び、語学歌学を修む。余と交わるも三十年、その間漢籍のたしなみ亦少なからず、其他俳句にも狂歌にも趣味を解し、書は家業特に達筆なり。現に市吏の員にあれば世務俗事に通じ居るは言を待たず伊吹舎大人の言と覚ゆ。

川柳は現時の出来事を即時よみ出すものなれば、風俗史の好材料なり。俳諧は題に泥み古意古語をよそい、徒らに高雅めかす弊害ありて遂に史料とならずと、是れ真に確説と云うべし。おのれ近来の狂句を見るに往々この俳句の轍を踏むの観あり、世に新派とか云えるもの起こるも亦むえなりと思う。雪雁子よめいなる方針とりて今より川柳海の柁柄にぎらんとすや、此巻に一言するは利目して其盛擧を見ん事を望むなり」と、按ずるに、白念坊は元来川柳の真髄を解せず、曾て高潮と云う俳諧雑誌に、

    雲間に雁の出たり引込だり

といえる自賛の川柳を掲げ、連歌俳諧と川柳との別目(ケジメ)を論つらい、梅本秋の屋に青柳誌上にて冷評されし事ありしやに覚ゆるが、幵は兎に角として今伝統的に川柳系を襲ぐ五世以下歴代の宗匠なるもの、皆実語格調の形式に因われ、既に精神的に滅亡したる川柳の残骸を擁し来たるに過ぎざるものなれば、同社中に出でし十世雪雁に至って起死回生の秘術を施すべうもあらず。唯々川柳の空位を維持するに止まるの現状は素より当然の帰趨なるべけれど、如上局外の言にも亦一顧の価値あるに拘わらず、遂に何等復活の挙に出でんともせずとは、其の盛擧を見ん事を望める白念坊の期待に背くや大なりと謂つべし。

 

其の宗家を管理すること五年、明治四十二己酉年五月五日退隠して小林昇旭に川柳を譲り先人に倣い柳翁と称したりしが、大正二癸丑年十月小林川柳は不治の病に罹り身体の自由を失い、宗家を経営するに堪えずとて十世の復机を震めたるに因り、再起して十世川柳を復称す。その間奥羽磐城地方に吟笵を曳くこと数次、大正四乙卯年十一月今上天皇陛下御即位大典に際し、先例に倣い社中有志の総代となり柳風俳句祝吟詠進の出願を為し、聴許せられ御即位式大典奉祝詠進柳風献句集を出版す。今茲大正十一壬戌年七十七歳の高齢に達したれど、尚矍鑠として引墨に従事しつつありと云う。

復机披露柳風狂句合序詞に云う。

「去年神無月の頃十一世深翆亭川柳宗家の机を辞す。其の事実たる則ち左に掲ぐる汎報書の如し。

今年大正二年十月相あり、現代深翆亭十一世川柳宗家の机を辞せり。然るに斯道の衰世今日の如き未だ益てこれあらず。為に其継承者をも選ぶに由なく、我々一日前宗柳翁を浅草の狂句堂に訪ね、旨を告げ翁に於いて暫く復机挽回の策に出られんことを勧むれども快諾せず、啻に相倶に努力せんと誓うのみ。夫れ我々之を聞きて多くを云わず同庵を去って、深川なる十一世を尋ね、熟議数刻の上柳宗代々の圓章および元祖川柳の画像一幅を申し受け、是を掲げて亦狂句堂の門を叩く時に夜更けて二時なり。翁驚き出て一行を一室に迎え、掲え来たる画像并に図章を示し強いて復机を需むるにあたり、柳翁熟慮すること暫時の末泣いて謂らく。執烈なる貴下等が厚意を盛謝し、適任者を得るまでの内仮りに復机の決意をなせりとの確言を聞く。如斯にして時局は終に定まれり。希う川柳狂句に遊ぶの諸君よ、旧派新派の別なく本会の企てを協賛せられ、多数の御投吟の栄を賜り地下に眠れる祖翁が霊を慰められんことを切望すと述べるものは川柳界の古る弱者友の三名なりと謹んで白す。

  大正二年冬霜月   東京正派川柳会

             幹事 九七四

                龜堂

                昇

如斯にして甲寅歳旦柳風狂句合の散紙を添え此復机会を開催す。然れども悲しい哉甚敷衰頽せる柳界はこれを一時に挽回するの道なく、各位に促すこと数回いかに催主が焦心千慮するも、思い央にも及ばず集吟僅々三千章に満たず、頓て又向後雪耻の期もあらんを忍び、茲に本会を締め切り今年大正三年四月三日神武天皇際の日を選び、以って東京浅草大慈閣の後畔千束の里字浅間下なる狂句堂にほん開館を挙ぐ。干時喜び哉会する人堂に満ちて寸席をも余さず、元祖柄井川柳翁が肖像の前に賑々しく本会を終了せしは、是れ真事に祖川が功と、雅友諸彦が現代柳宗に援助を与えられたる賜ものに拠るなりと、独酌亭一盃謹述序に換う。」

按ずるに、序詞に云う柳宗代々の圓章とは、元祖歴代川柳の雅印の事をいえるなり。又元祖川柳の画像は、八代病没の際紛失し今は他に秘められて、宗家にては伝世唯一の什宝を欠くに至りたれば、九世川柳和橋が新に自筆もて想像的に元祖の画像を慕写して調製し、以後之を後嗣へ伝うる事と定めたる其の新画像なりと知るべし。

 

 

 

十一世川柳

 

小林氏。通称は釜三郎と云い中村良蔵(旭海楼昇叟)の長子にして、慶応元乙丑年九月十八日本郷根津八重垣町に生まる。故有りて母方の小林姓を冐す。根津遊郭の移転と同時に深川区洲崎弁天町一丁目六番地に転居し酒商を業とす。曩時根津廓内に在りし頃、遊蕩の萠しあり、父昇叟之を憂い松楽堂寿鶴に嘱し柳風に誘い八世の門に遊ばしむ。以後一転して狂句を恋翫し開晴舎昇旭と称して、上野清水奉額会其の他二三の大会を催し月々摩利子天奉燈会等を施行し、忽ち若手錚々の雅人となり僚友を勧誘して旭連なるものを組織す。八世没後は九世川柳に従遊し柳門唯一の寵児として、愈々柳風に熱中し社中能く之れに比較する者なかりき。明治三十五壬寅年四月九世と共に奥羽に遊び松塩の勝を探る。九世の将に簀を易えんとすや。囑するに遺吟建碑の事を以ってし、且つ宗家の衣鉢を伝う。昇旭弱齢に鑑み辞譲して、平井雪雁に十世を継承せしめたりが、後五年にして平井川柳の譲りを受け十一世となり深翆亭川柳と称す。

やまと新聞(明治四十二年五月五日発行、第七千二百六十五号)登載

「深川洲崎弁天町一番地の酒屋小林釜三郎(四十五)は、今回川柳第十一世を継承する事となり、五六の両日日本橋区常盤木倶楽部に於いて其の披露会を開催する由。甲州、出羽、信州、飛騨及び関東両毛等よりは各総代を上京せしめ、当日寄進の句のみにても二万六千句に達し居れば、両日共午前九時より夜十一時頃に至りても尚読み上げ終わる能わざるべしと云う。釜三郎の家業は世々酒店にて以前洲崎遊郭の根津に在りし時より遊郭を得意の酒屋を営み、釜三郎は幼年より日本橋区小網町の酒問屋高月屋に家業見習いの為奉公をなし居る内、一二歳の時八世川柳児玉括嚢の狂句に感じ、其れより樽拾いの余暇を偸みては作句に趣味を有ち、根津遊郭が引き払いとなり洲崎に移る。当時の吟に曰く、

    流連をさせて置きたい根津の里

と。後父の家業を継ぐに至りて、児玉任風舎に師事して三十三年の間作句に應心し半生を狂句のために尽瘁して今日に至りたるが、之れ迄亀戸、神田明神、湯島天神其の他の神社に奉額したる句のみにても壱萬余句に達したりと。」

同新聞(明治四十二年五月六日発行、第七千二百六十六号)登載

「前号報道の小林釜三郎(四十五)川柳第十一世継承立机披露会は五日午前八時より日本橋区常盤木倶楽部にて催されたり。出席者は山形、米沢、上総、上野、下野、長野、甲州、飛騨、京都、尾道、長崎等の各地代表者にして、寄進及び雑吟の句をかわるがわる読み上げ、二千七百余点の商品を贈りたるが、雑吟に至っては川柳唯一の滑稽俳謔召出し、為に傍聴者は孰も抱腹に供ざる程なりし。因に五日迄に寄進の句は二万四千句に達し、同日より六日夜までに読み上げを為す筈、尚六日には重に京浜間の出席者多かるべしと。」

前二項は十一世立机当時に於ける、やまと新聞の雑扱記事なるが今参考の為に其の全文をここに付記しぬ。因に当時のやまと新聞には新編川端柳いう川柳欄ありて、正統派と稍同型の狂句調を募集し、市村駄六なるもの之が選者なりき。

 

明治四十四辛亥年七月陶廼家香雪(小林佐太郎)と共に新選柳多留を発行し、同き四十四年十一月柳風新報なる機関雑誌を創刊したりしが時利あらず僅々四号にして廃刊せり。

 

大正二癸丑年十月不治の病に罹り、辞退して元の平井川柳に復机せしめ其の名を木聖と改め、永く閑静の意ありしも天之に年を假さず、大正六丁巳年五月十六日没す。享年五十三。下谷区谷中坂町三十三番地日蓮宗榮源山本壽寺に葬る。法名は智月院通達日淳信士と云う。

辞世の句に曰く。

    虫の居所定まると人も秋

 

十一代目深翆亭川柳追善狂句合序に云う。

「十一世小林川柳は、はじめ 開晴舎昇旭と云い、斯道に遊ぶこと久しく、おのれ十世退隠の後を請け深翆亭と号し、以って川柳を継承し暫く柳風界に力を尽くされたるも、爾後不治の病に罹り身体の自由を欠き隋て宗家を経営為すに堪えずとて、九七四、昇ル、龜堂の三氏を使いとして強いて自分に再起を需め、退机後名を木聖と改め永く閑静の意ありしも果さず、惜しむべし大正六年五月十六日遂に黄泉の客となる。茲に於いて黙翁、茂道、柳露楼、九七四の四氏起きて本会を企て、居士が巻嗣子江東居昇旭を額面持ちとし、おなじく七年五月東京市下谷区川端の里日蓮宗本来分寺に本会を開廷し、翌八年三周忌に於いて此額面を此寺の堂上に掲げ故人が終世を飾る事を永く後の世に遺しとどめんとす。この道に遊ぶの人々よ遠近を問わず此地を通過せらるるあらば、訪ねて一遍の秀句を賜らんことをと狂句堂老爺川柳しるして序とす。」

按ずるに、伝統的川柳は祖翁以来十一世百二十四年にして遂に滅びぬ。曩に十一世が病に罹り宗家を退くや社中十二世たるべき適当な後嗣なきに苦しみ、窮余の策として元平井十世川柳翁を再起せしめ逆転して十世川柳を復称せしむるの奇観を演ずるに至る。現に元十世は川柳正系の宗家として其の名跡を維持し居れど、積年の頽勢は如何ともするに由なく狐城落莫唯廃残の柳門に盤踞して、辛くも其の覚興を擁するの惰性を存するに過ぎず、想うに此正系派たる川柳の精神的衰亡の端は遠く五世時代に於ける柳風式法に胚胎し、近くは七世風也坊が全然在来の川柳を破壊し拮屈贅牙なる漢語調を唱道せし当時に於いて、業己に滅亡したるものと謂うべく。若し七世にして其の如き無識なる開化の新調を推奨せざらんには、然許の荒廃を見ずして止むけんものを惜しい哉、七世に前途明察するの識見なく遂に祖翁の衣鉢を没却して、一時の人心を左道に帰向せしめ荼毒を今日にまで流せるのみならず、斯の如く柳宗の祭祀を絶たんとする悲運の禍根を遺したる一半は、まったく七世風也坊の罪にして実に柳門を賊する元凶たるなり。爾飾の柳家に至りれは斗肖の人狂瀾を既に倒れたるに廻すの器あるなく、特に斯道の萎靡振いざる原由は単に卑猥淫廉の句作に帰し此風調をだに去れば以って足れりとなし、他に滑稽洒脱風刺奇警いう真精神を滅却せることに想倒せず、唯形式的句調の高尚のみ着用し徒に無意義なる掛言葉を使用し、縁語づくめの駄洒落なる陳番共漢語の技巧を以って其の真生命の如く思惟し、九世和橋の如きは滑稽にも狂句を教句と改めなんかなどと、實語教童子教もどき心学的勤懲文字を以って川柳の能事と誤解せる結果、益々堕落の深淵に陥り愈々祖翁の衣鉢に遠ざかることとなり、彊弩の末勢魯縞を穿つ能わずして今日の悲運を齋らすに至る。是れ五世以来の弊習特に七世風也坊が野心の為に誤られたる柳門の禍亂にして孺子の品を以ってすれば、天のなせる薛子は猶違くべし、自らなせる薛子はのがるべからず、と謂つべき運命にや噫。されど百年後を達観せる祖翁の遺吟空しからず、九世の晩年より十世立机の交に於いて、新川柳勃興の気運に乗し坂井久良岐・井上剣花坊等相前後して起こり、剣花坊は日本新聞紙上に、久良岐は電報新聞紙上に各門戸を構え盛んに真川柳趣味を鼓舞し尋いて、明治三十八年五月五日をトして久良岐社の機関誌五月鯉を発刊し、俗悪なる川柳を捨てよ、十七字は短詩たれ、新文学たれと絶吽し、叉剣花坊は柳樽寺の機関紙川柳を刊行し、川柳の詩たらざるべからざる事を疾呼したりしかば、天下合羽然として之に共鳴する者雲の如く輩出し、その間一弛一張幾多の曲折ありたれども、按ずるに川柳復古狂句撲滅を標榜する所謂新派なるものを生じ、伝統的柳宗社中が今尚桃源の夢を貪りつつあるに、新川柳は実に凄まじき擬勢もて邁進しつつありて、主客其の位置を顛倒するの観あるに至りぬ。

 

(坂井久良岐・井上剣花坊の懐紙・短冊)

 

 

トタンふき春雨をきく屋根でなし

 

 

緋撫子お七を焼いた原に咲く

 

ページ先頭へ

 

 

 

 

inserted by FC2 system