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一七一八年      

享保三年戊戌 一歳

十月閏

 

元祖柄井川柳江戸浅草新堀端に生る

月日不詳

   (一説に十月とあれど誠とし難し)

 

大伴大江丸生

谷口鶏口生

人見蝶々生

二世徑童生

 

四月八日 並河天民没年四十

四月十九日 高森正因没年四十九

四月二十三日 岡井孝祖黄陵没年五十三

五月十二日 立花北枝鳥羽卒基没

五月十二日 香田正宣没年五十八

五月十五日 酒泉彦太夫竹軒没

五月二十九日或いは五月十九日 内藤風虎没年六十七奥州磐城の城主

六月十八日 左保介没年六十八

六月三十日 谷重遠没年五十六

七月三日 山科庄八没年四十六

七月十五日 祐天上人目黒に寂年八十一(或は八十三)名は愚心顕誉と号す、奥州岩城郡新妻西村善内の男、寛永十九年壬年正月元日生る、幼名三之助檀通上人の弟子となる

七月二十一日 北村文英没年七十三

八月三日 小川弘齋没年六十八

八月七日 三宅旭峯没年六十一

八月二十六日 三宅観潤没年四十五(或は四十四)

九月七日 伊賀平蔵没年七十五

九月二十六日 宇都宮怒齋没年二十二

十月四日 狩野探信没六十六歳称図書探幽長子

閏十月二十二日 佐治竹輝没年四十

十一月十一日 深尾省齋

十一月十三日 藤井玄洞没年七十六

十二月八日 山下苅橘歌瑠藻没年三十三

 

四代目市村竹之丞寛文四年より座元と成時に十歳、同八年より舞台を勤む、延宝七年三月発心して剃髪し権大僧部賢盛となり、本所六ツ目に自照院なる一宇を開創したが本年十月十日大往生を遂ぐ年六十五

 

六月七日日本堤の傍示杭を建替らる

日本堤は元和六年荒川防水の為箕輪より山谷に至るまで、長さ八百三十四間余を築堤せられ、元禄十五年始めて此堤上に傍示杭を建て、杭より南方土手の上は御町方、北方は御代官所附と定められたが、享保三年六月七日次の如く傍示杭を建替えた

従是南方土手なだれ馬踏共

          新吉原附

従是北方土手なだれ馬踏共

          箕輪村附

従是南方土手なだれ馬踏共

          新吉原附

従是北方土手なだれ馬踏共

          今戸町附

世に所謂土手八丁とは、此従是傍示杭より聖天町木戸際迄の間のことで、長さ京間三百八十五間二尺也と言う

 

土手のかまどのうるほいはすけん也

土手で逢いどこへどこへと手をひろげ

土手であい今は何をかつつむべき

土手で遇ふ和尚笹原はしるなり

土手を行くらんと女房歌人なり

土手のかご宿へ上着をほうり込み

土手のだんごやはすけんの心まち

土手の雪ふられた客が道をつけ

土手を行く医者は上野か浅草か

なまながい徐で有ったと土手でいひ

内のやつとんといやのと土手でいひ

ふつ攫ひませうとたいこ土手でいひ

どこへみこしをすえようと土手でいひ

おれをせく客めが来たと土手でいひ

ふところはでんがく切リと土手でいひ

其数珠は仕舞ってくれと土手でいひ

ぬしがのは気取がよいと土手でいひ

倅めがしかりましやうと土手でいひ

海川は野卑だと息子土手でいひ

気のかたの息子は土手でいやといふ

むごい事もめんもやうで土手を行き

たくましき男と小あま土手を行き

銀世界金のわらじで土手を行き

おつかない顔で親爺は土手を行き

夕すずみなんの気もなく土手へ来る

ふつきあるいて引ケ四に土手へ来る

よい智慧の出た夜九つ土手で聞

目のまける駕をおふくろ土手で借り

あした出来ぬと番所だと土手でかし

直が出来て四五丁あるく土手のちょき

革羽織着て御嘉例の土手を越し

ろうそくのしんもえている土手の雪

口とりはいまいましいと土手に居る

たいこもち前世は土手の狐なり

見物左衛門をあてに土手の茶屋

三味せんで土手八丁をつき直し

表徳を俄に土手で付てやり

聟土手で惣やす様へ晦ごひ

三分一土手を残してねだるなり

七夕は土手からみえるもん日なり

若い内だと土手を行くすけんぶつ

聟土手で三の足まで踏で見る

口まづは土手で逢ったと軽くいひ

惣勢は土手をおしてくよしの落ち

手一そくすへたが土手でとち狂ひ

もみうらに吹かれて土手へ気かのぼり

二の足で師走の土手を踏で行き

一ツ角と一片土手で仲間われ

ほととぎす土手でと口がついすべり

きひた風土手の道哲町医者さ

土手で逢イ隣の手代舌を出し

土手のまん中で去状くれろなり

土手の雪金のわらじの跡ばかり

土手で広言はいた奴ツ皆ふられ

土手の雪思い出しても足がひへ

土手でかりたのだとかへす人のよさ

土手で売るやつは白狐のように見え

土手を行く女房目尻が上つてる

土手を来る客を二階であてつくら

此仏さまをお好きと土手でいひ

しやうとうじ是がいやだと土手でいひ

なんとええ角田川かと土手でいひ

催しちや出られませぬと土手でいひ

やぼな事どこへ御出と土手でいひ

正燈寺中たづによふと土手でいひ

はて珍らしい対面と土手でいひ

ぬしなどは目出たい株と土手でいひ

兵糧がつづきませぬと土手でいひ

ばんしうが寝かねをつたと土手でいひ

ぶくづいた小袖で浅黄土手を行き

にげそうなのを先へたて土手を行き

飛ぶぞと見えしが忽ち土手へ行き

たち売を喰って無しども土手を行く

すけん物こつを持ったは土手に居る

田を行も土手を行のも心せく

破竹のいきほいでよつで土手をかけ

こは飯をやつた乞食に土手であひ

女房とからかつただけ土手をかけ

首と首よせてよんでく土手のふみ

なんでかの事やあらんと土手を越し

つい返す事かと土手で一分貸し

まだどてはこすまい床があつたかだ

駒とめてともありそうな土手の雪

気のどくさあくる日土手でつほにあひ

遣り手の口と土手とが八丁なり

女房に土手であつたは百年目

後ロから土手で見つけて目をふさき

どつちらか利口で土手で別れたり

見世へ居てくれろと土手で祈念する

旦那を土手で見かけたとやぼなやつ

運のよさ土手へ来るまで男なり

女房は土手のあたりで髪がとけ

四人で土手を来るのは鞠くづれ

すけんぶつ土手で小田原評定し

雪喰つて土手を行くのが迎なり

能い仕掛汐干が土手と変る也

女房をなぜこはがると土手でいひ

買ひ放しにおもなるまいと土手でいひ

たくましき男と小あま土手をこし

姫氏国と日本堤で発明し

お袋はいとしや土手をえつちおち

壱人して土手をかけるとはびる也

さすか武士まかねにわたし土手へ行

舟廻しのも岡づけも土手へ出る

出来ごころ土手に良馬が五六疋

今朝かけた土手を麻上下で行き

ぜんたいか高尾も土手をこす気也

りんじのもの入土手からちイらちら

眉毛はなけれど土手にておへえられ

御めいげいはくをいひいひ土手を行キ

岡とは違ふぜと土手で功者なり

道もかへべきにずかずか土手へ出ル

いつきかしつき奉リ土手を行キ

夜桜を見すてて土手で子也

自分用でも土手ハ行にくい所

武家方は酒も出さぬと土手でいい

蛙がなくから土手へ来たとしれる

土手をすたすたと身持のいらぬ事

土手ぢかく啌をふつ込ム供の耳

堤からおりる所ロへ門をたて

をかしさは其頃土手で馬やらう

間男はするなと親父土手であい

おしそうに土手へ上てふりかへり

日本のたらたら下りへ門をたて

日本へ来てはにんそうづらをやめ

日本を暫時の内に四ツ手かけ

日本をすこし下ると美人界

日本の地へ踏込むと酒手なり

日本の地へ来ると下乗あいはなし

日本かときいて上総でわらはれる

日本を越すとありんす国へ出る

日本からアリンス国ハ遠からず

日本ではきやうきぼさつと女郎也

聟じつは日本の地理も知て居る

日本堤を知らねえか唐人め

日本の土手で唐もろこしがうれ

手軽い船で日本の地へ渡り

是から日本の地だと猪牙を出る

うその穴日本づつみの事くずれ

おし送り日本と江戸の(あい)に来る

あんのじやう日本で跡の愛いてなし

丸腰に成る故にほんつつみなり

日本の上り口から聟はづし

とうろうの手がら日本をせまくする

日本から京の短冊竹がみへ

一生けんめいに本と盛てみせ

目にみえて富る所は日本也

花の外には日本で団子也

日本の詞を知て腹をたて

日本へ四角な口を出してにげ

やねを足元トに見て行おもしろさ

日本から極楽わづか五十間

日本の地へはいかりをおろさせず

 

十月両替屋の数を六百人と定められる

 

両替屋のつぴきの無い音をさせ

両替屋りつぱになわを引くわえ

両替屋四粒ならべてくらわせる

両替屋次へ見せるはむづかしい

両替屋二タ人で見るはにちか也

両替屋足ばやに来てさとられる

両替屋のせてくれろと肩を出し

両替屋ぞんじの外に肩がきき

両替屋ばばア車はもたぬなり

両替屋しかうして後ふところ手

あるかへとうそりうそりと両替屋

両替屋車力は若衆まじり也

化物はきらずに返す両替屋

爪弾き巧者にあてる両替屋

 

女子の簪に耳掻を作ること此頃よりと言う

 

簪を借りて息子の掻くやつさ

かんさしでかきかき車いひこめる

かんさしでかきやと山出し叱られる

かんさしをかせてもいはずすいとぬき

かんさしはかゆい所へすぐにさし

かんさしでしたとははでなつき目也

かんさしと巾着が出てしばられる

かんさしを二三度かりてこころみる

かんさしをふところにして木戸を出る

かんさしで嫁はちうえのすをはらひ

かんさしの跡を小ゆびでかき廻し

簪をはかりにかけるしぎと成り

簪でかきかきよめはしちをかし

かんさしもさか手に持てば怖ろしい

かんさしをふきながら最ウ行てねや

かんさしをさした牽頭を禿追ひ

かんさしを借てかゆくもないにかき

かんさしの雛のと娘くどかれる

かんさしでかくのがそだと仲人いひ

かんさしをしこなしぶりにかりる也

簪は受取る時も髪を出し

かんさしをとられて姑それ見やれ

かんさしでつっつき廻す三世相

かんさしでつきつきにげるおもしろさ

かんさしで小刀にして封を切り

かんさしで面白くこぐたからふね

かんさしでかき立てよむおもしろさ

かんさしではな緒を立るいくちなさ

かんさしに襦袢を見せる手御き有

あいさつにこまりかんさし差直し

どれででもかきなとあたま出してかき

気の知れぬ客かんさしをぬいて寝る

たつた一度でかんさしをもうねだだり

いわぬなとかんさしで毛をかきわける

くどきそびれてかんさしをかりてかき

くどきそびれてかんさしを又かりる

つりの弐朱かんさしなどでいぢつて見

銀のやうなるかんさしは下女も持

井戸かへに出る簪は銀ながし

うつ向てかくかんさしはものになり

枡花女ハはなかんさしの元祖也

あいさつのたびかんさしハ場所をかへ

ひよめきを銀でうきうき嫁ハたち

二かい笠かんさしに付く紋て無し

そばへ寄るまいぞと耳のあかをとり

思案して娘かんさし返す也

女房の留守耳かきに迄こまり

かんざして面白くこぐ宝船

かんざしを気にしてあるく嫁の供

かんざしへ一つ半ぶん紋をつけ

俯向いて掻くかんざしは物になり

 

隠遊女を召しとられて新吉原に下さるる事 昔は生涯奴の事にてありしに享保中大岡越前守殿御奉行勤給ひし時 奴に成たる遊女のよめる歌

はてしなきうき世のはしにすみた川

     なかれの末をいつまてか汲

越前守殿此歌に感ぜられて夫よりかくし遊女吉原へ下しおかるる事三ヵ年の年限に定められるとぞ(津村正恭著譚海記事)

 

吉原は岡場所からの松が丘

岡場所も松が丘ほど難があり

江南の花北国へ三年うえ

とらわれの入札になるつらい事

つきぬけて客をとる事三ヵ年

 

園女剃髪して名を智鏡と改める(享保十一年の條下参照)

 

千代女年十八金沢の表具師福岡弥八に嫁す、「渋かろかしらねど柿の初ちきり」の詠あり、後二十五歳にて夫に死別せし時「起きて見つ寝て見つ蚊帳のひろさ哉」他に「あさがほにつるべとられて貰水」など(安永四年の條下参照)

 

千代は句が上手と浅黄おもへらく

加賀紋をきて風流な後家をたて

おちよさん蚊帳が広くば這入らうか

翌年は千代井戸端をよけて植え

桶つるべ千代と千代C名が高し

千代が蚊帳うらやましがる子沢山

広ひ蚊帳広い操か見へ透り

広ひ蚊帳女房の内は句にならず

だだ広い蚊帳に風雅な後家一人

名高い句京都のふとん加賀の蚊帳

蚊帳つり草も寝つおきつ千代が墓

蚊帳の広きハ五七五の仕立栄え

起きてみつ寝てみつを蚤を六つとり

井戸端と釣瓶で雅女の二幅対

起きてみつ寝てDみをあした受け

虫干に広けて見せる千代ケ蚊帳

夏の句で千代万代へ名を残し

鏡研千代もそんじておりまする

 

貞享頃より正徳享保の末まで前句附冠附大流行を極む、収月という点者尤も著る。収月は当時の一流選者にして二徳亭と号する。三世収月は実に元祖川柳と其時代を同じうし、選句の風調最も川柳に酷似せり。今安永八年刊本「俳諧自在袋」と題する三世収月点の冊子中より百句を選抜し爰に収録して参考とす

 

おやの手にのらぬむすこは猪牙にのり

浅草のふじにも迯るあるかあり

ゆいのふをおつかなそうに覗イて見

顔のしわ火のしをかけぬ斗り也

たはこまてさいまつを呑ムかかり人

山吹を雨具に出してこまらせる

夕立の頭から点もふつて来る

びんさしか出て髱さしか隠居する

楽屋では頼朝公に茶を汲セ

やせたるか故に尊し佐野の馬

サウカウに秋はお寺の賑かさ

ひもじくも無に先キからぜんをすえ

あくた川草臥るのは一人なり

やぶ入の母は小袖の名もしらず

大名をおもひかけなく孫にもち

前帯にするは巧者な切落し

よし丁で黒かもといふ女きやく

五十にはとんた茶かまとのそいて居

とうろ見た斗リて済マぬ所也

云わけに娘を出してくにや付せ

はきだめガ人の出世をする所ロ

野かけ道きせる同士か口を吸イ

餅花の無不動にはいくよ餅

道中の蜘は縄手にすをつくり

品川はめしの風味を分るとこ

よしハらの桜はまちのなりに咲キ

八はしへむかし男を見にまわり

はんじやうは水まで玉をのべるとこ

辻ばんへ預ケてうばもかくしげい

船宿てむす小立派に衣モかへ

石とうに朱をいれさせてよをあそび

我馬鹿を手からに笑ふたいこ持

入りこみのこたつは母のおちど也

いくたりも当テの有のにこまる母

極楽とうしろ合の正とう寺

仲人は上下を着たたいこ也

切落し五尺からだを引こぬき

いく人も落馬をさせる丙午

旅はうしとて能因は内でよみ

とめたがる袖をふらせてわづらはせ

平内はのつ引させぬすがた也

せきれいはおどけたこしでえを拾イ

けんぎやうの娘は耳をくらませる

おき去りさなどと女房は留守にしやれ

仲人は人のなる木をうへる也

とし忘レ終イ夜が明てまた覚え

まつ直な針に女房も退屈し

生娘といふのは小町ひとり也

よし丁は仏の落る地こく也

仲人はかみのつやからほめはじめ

うたがるたうば田舎間の尻をすへ

ぶんのふのふだん桜や後家の胸

見せに行日は箱入のふたを取り

元日はきのふといふを持ぬ也

源水がこまはまつごを呼生る

肉屏風三千人の雀メかた

正とう寺見てうえられぬ所也

丸の内四角にかけるにわか雨

頼政にならべて置イてわづらわせ

馬頭でまめの相だんにへきらず

二ケ国の人を玉屋はあをのかせ

子のやみにあたまの光るほたるなり

蟻一ツ手もなく嫁をはだかにし

俄雨いきたかかしに行あたり

すみた川今も狂乱する所

引導の仕廻に何かしかるやう

まいないを絵師にやらぬで呉にやられ

色男医者の逃たを快気させ

ためいきをえり元に来てやつとつき

野ぜつちんはぎにおいどをこそぐられ

あづさ弓人をなかせに出ス仏

よりまさは団子の受でよめをとり

笑ふよりにらむ目元のおもしろさ

ふり袖のもげる所へ母のこえ

手ばかりが産レて当主の申訳

ながすなとよくにめのなき下女が宿

龍宮はそりやしら浪とさわぎたち

鷺の足分別の有ルつかいやう

中の町馬鹿が禿に引キずられ

燈籠をとぼして馬鹿を廻らせる

ねてくらす娘は親のたから舟

元日はえんまへ顔をみなもとし

としよれば人のふこりとはき出され

持て来た程は重たき嫁の尻

切落しとんた茶釜に割込れ

一日をくらしかねてる二日えい

中の丁右と左へ咲わかれ

手を出してよみかへらせる下手のまり

忠度は受で一夜を花の宿

よし丁のとのほ白むくふつ重ね

玉川をせり出しにする四里四方

大名の道具に母はする気也

此座切り出してくれるなと出し

大名ものせたかただと雲はいい

城で持玉はたからの雨さどし

素足をば足袋やも誉る八文字

里ぶちの度に咄を聞斗り

あみ笠のぬかれぬかほへ一チのとみ

 

木の葉(来山)・奈満津波止((里仲)・ひとりごと(鬼貫)・遠千鳥集(伊丹社中)・九折集(言水)

 

 

一七一九年      

享保四年己亥 二歳

 

建部涼袋生

釈大典(蕉中)生

増田眠牛生

野村其梅生

 

四月十三日 安藤東野没年三十七

八月八日 山村惣左衛門没年四十四

八月十五日 佐藤直方没年七十

九月二十四日 池西言水没年七十三(或云七十二)名は則良通称八郎兵衛、紫藤軒・風下堂・洛下堂と号す、南部の人江戸談林派の俳人なり「木枯の果は有けり海の音」の句に因て世に木枯の言水と称せらる

十一月六日 近藤謙齋没年六十七

十一月二十日 早川傳五郎没年五十

十二月九日 天野桃隣(一世)没年七十一(或言八十一)通称藤太夫、太白堂・桃池堂・呉竹軒・五無庵・桃翁の号あり

 

江戸町火消いろは組始る

河東節始めて一派を為す、一寸見と云、大尽舞小唄流行す(享保十年の條下参照)

 

河東節内では後生願いなり

河東節上手の歯から声が洩れ

河東節どれも朝湯に這入る人

江戸のなまりで出シのきく河東節

其むかし馬の耳にも河東節

半太夫おぼへているがきき人なし

河の東でおとなしい吉野丸

半太夫天命を知る人斗り

河東節杖にすがつて隠居聞き

河東ぶしいづれ新造買の類

唐人の泣出すやうな河東ぶし

河東節しんるいだけに二段きき

さいたさいた見さいなめかけのおとと

大黒舞を見さいなと和尚酔

かなえ舞を見さいなと初手ハ云ひ

鼎舞ひを見さいふさ初手ハさわぎ

 

宝井其角、服部嵐雪十三回忌

各務支考自ら没すと称し跡を暗ませしが再び現る

 

野馬台(知名)・繪大名(格枝)

 

 

一七二十年      

享保五年庚子 三歳

 

九月十五日渋井孝徳生

茨木素因生

堀田麥水生

 

七月二十日 菅沼曲翠没、通称外記、馬指堂、初め曲水と号す、膳所の藩士なり主君の為に故ありて自殺す、一説に享保八年没と

七月二十三日 中埜為謙没年五十四

七月二十七日 元祖大谷広右衛門幡風没年五十六

八月十五日 井上逍山没年六十四

八月十八日 鵜飼称齋没年六十九

八月二十二日 河村通顕酣墨齋没年五十七

十月二十日 平田無ト没年六十二、幽翁と号す、越後の人江戸に住す、辞世あり「其心其期になりて其覚悟先それまではそれよ世の中」

 

三月二十七日箔屋町より失火金杉箕輪迄焼ける

八月町火消しの纏に其組の方域を記したる長七尺の吹流しを付又掟を記したる竪幟を副ゆ

十月十四日大坂網島大長寺境内に於いて紙屋治兵衛紀伊国屋小春情死せり、近松門左衛門心中天網島と題する浄るりを作る(一説に享保七年の事と云う)

 

雪隠に冶兵衛は尻をかかへてる

上るりをはじめてつくるとをりもの

上るりが出ますと師匠しかるなり

上るりの通俗ものはこくせんや

上るりのてんねきまじる元結こき

湯上るり着物を着るとけちな声

上下で上るり余程ひどく酔ひ

ばかにして弾くに上るり気がつかず

かわきりが済むと上るり本を出し

女房は上るり本をほんにする

十二段さ三分らしいが琴を弾き

てんぐに上るり洗う風呂の中

ひきがたり母はたはこをわきへふき

盃をさせばうなづくひきがたり

湯で語る太夫は升で水をのみ

湯帰りに寄ツては二三枚うなり

老ぬれば土場浄瑠璃の茶など汲み

弾かたり御両人とはあちをほめ

 

上野仁王門建つ

 

足軽の仁王にかはる花の山

仁右衛門のすんだあたりに仁王門

仁王門そのかみ蔦のあつた所

大名に肌を脱せた仁王門

仁王をはまくろのやうに建立し

仁王門右はあくひの立チすがた

ほうそうの此ころ見ゆる仁王門

仁王にはむねまて白い吹出がし

仁王にも乳の無イのはすこく見へ

仁王のからだつみ入レが付て居る

仁王さまどれも極楽おとし也

仁王さまなりに似合ぬおぐし也

仁王様うんやさといふ御姿

仁王様うぬめうぬめの御すかた

仁王様ねぢつて見ろの腕ツつき

仁王さま幕をひかせる御すかた

仁王様鼠入らずの中に居る

念力の度に仁王はきたなかり

仏師やははしたに仁王とり廻し

山王に一王たらぬ御門番

魂が羽蟻となつた朽仁王

 

秋関東大水(享保八年の條下参照)

大水は器物にはしたがはず

諸色高直川手前川むかふ

水ともろとも諸色の直も落る

きみわるくなすのの出水こへかねる

 

献上物と贈遺の数を減せらる

水戸侯徳川宗堯大日本史を幕府に献す

洞房語園写本成る

 

都曲宗(言水)・雪の光(百花)・鐵割(前句附冠句)・綾錦(沽凉三十六番句合も入る)

 

 

一七二一年      

享保六年辛丑 四歳

 

石田賦泉生

僧月D生

 

二月十五日 彫金工柳川政次没柳川の祖なり

三月四日 吉田林庵没年八十七

三月十三日 森尚謙没年六十九

六月三日 服部寛齋没年五十五

六月二十二日 大熊民中没年五十

六月二十七日(或云六月十二日) 縣宗玉泉没年六十六 名は俊正遠州流の茶道

七月二日 広瀬篤叟没年四十九

七月十八日 五井持E没年八十一

九月八日 岡田宜純没

九月十七日 水木竹十郎花艶没年四十八

石川勘介柏山没山没忌日未詳、羽州の人京都に来り佐々木志津摩に学び書を以て業とす、享保六年台命に依り六諭衍義大意を書す、没年六十八歳なり

 

正月八日呉服町より霊巌島迄焼ける

二月三日神田三河町失火下谷浅草に及ぶ、上野仁王門焼ける

同月四日牛込失火小石川を経て日暮里に至る

十二月三河町失火築地迄焼ける

 

本年春二代目市川団十郎大当りなり、依って褒美として此後他の芝居に出勤せず勘三郎後見して其座に永々可勤給金千両に極め毎年六月中休みを許すと云う(或は云う享保七年)

 

入りはおちたかと柏莚土用干

暑中御見廻と柏莚はあるき

ぬいだ笠かぶり柏莚一句する

返答をすぐに柏莚紅葉哉

だだをいふのを三舛屋でおつとめる

市川家十八番の一暫

しばらくの聲なかりせば非業の死

しばらくがあたまをみんな横につけ

団十郎で出ましたと母くろう

さあ半六と団十郎の次第

なる神はしてしてとうたなととぬれ

しやこざかしいとなる神むつとくみ

大なる風呂敷の中で暫らく

千両は舞台へ一人しをれて居

大当り口上足をふるばかり

大入て口上足を振て居る

大当り一坪ほどで所作をする

大当り小町が来ても穴はなし

大当りやろうそんじやをおんならべ

大当りけんくわいくつかつかみ出し

大当り毎日舟がぞうろぞろ

大当り死体をやつと方付る

大当り煤になるまで顔を見せ

大当り後ロにも目が二三百

大当り後ロにも目が五六百

大あたりうしろ目高くほめられる

大あたり作り六月まで遊び

見物と役者とならぶ大あたり

五百人見物のます大当り

切りおとしでも立てをする大あたり

てんかんを二三人出す大当り

あらかんのE殖る大あたり

つんぼうも仏も多い大当り

仏ケへもわりこみのある大あたり

後ロにもめの小千ある大当り

三番叟大勢で見る大当り

狂言があたり黒がも杯をおき

 

四月四日吹上にて三奉行の公事裁判を聴かる

六月下田奉行を廃し浦賀奉行を置かる

八月二日評議所の腰掛に訴訟箱を置る

 

二か村をぬけがらにして公事をする

麦めしのあぎもわすれた長い公事

新田を手に入れて立つ馬喰町

国々の理屈を泊める馬喰町

諸国からふくれた顔は馬喰町

上の字を出しかけてくる馬喰町

馬喰町諸国の理非の寄る所

馬喰町御捌ほめて酒を買ひ

鍬の柄はすされて馬喰町を立

公事宿にちうや枕がごろつかあ

死んでしらせたのが公事のおこり也

かとく公事元のおこりはそつ中風

かとく公事相手といふはくえる顔

かとく公事後家くどかれた事もいい

かとく公事後家はきいろい声を出し

かとく公事まづ文通でいぢり合い

家督公事目鼻がつくと座頭が来

かとく公事おこり内裏で角力也

御しらすでひいひいをふくかとく公事

やれでかいたくみをしたと田舎公事

勝公事の戻りむすめをつんにがし

勝公事に足のひよろつく御膳駕籠

負公事の方へ娘は行きたがり

山公事も甲斐と駿河はきついはれ

母親の訴訟で鼠尾をもらい

たいくつをすると泣出す公事相手

勘当の訴訟のたしに髭がなり

たいけつに大きなはらでいひふせる

公事宿でとんとまけたとあんこ売り

鮎がさびるのに川公事まだすまず

せめて色なれば訴訟もしよけれど

舟宿の訴訟で禿蔵を出る

何出入りだか吟味所でなぐさまれ

訴訟にも縁起をまぜる寺の公事

壇方と公事に勝たがさびれなり

乱鬢の男のかける常盤橋

常盤橋御用の女郎通るなり

境論まけ勝ともに売払ひ

さかい論負けた年から柿を買ひ

かて飯のあぢをわすれる境論

ほりかけた臼などの有るさかひろん

なんの出入かなふたり叱ったり

御しくすでばれをいひ出すばか亭主

ばからしい出入り相手は女房也

のらでものしたと代官所でしやべり

麦畑の出入り代官腹をより

無念さは太夫桟鋪に公事相手

是式の出入りへへへとなげづきん

釜の下の灰を互ひにあらそひ

 

夢中問答(何狂)・続余花千句)・続余花千句(花千句(沽徳)・身延詣(貞佐)鰤俵(虚白、竹司)

 

 

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一七二二年      

享保七年壬寅 五歳

 

左橋橙雨生

高芙菩生

僧化来生

 

五月十九日 中根左内桂叢没

六月十三日 江村青甸毅没年六十九

七月十九日 江左尚白没年七十三

八月六日 古市東之進南F没年六十二

八月八日(或云八月十八日) 深見玄岱没年七十七或云七十四と

九月十八日 北田清佐没年四十七、松貞門、京都の人なり、辞世「木まもりとなりて益なき此身かな」

九月 都一中元祖千翁没、此流の祖なり(或云享保八年)

九月十四日 近衛基煕公葬没年七十五

十月四日 富塚静慮没年六十

十二月一日 松本永固没、通称長左衛門後に非群と号す

同水没年八十、西同院・権大納言時成卿

 

三月内裏雛の大きさを七寸以下と定めらる

 

だいり雛つとにして行く乳母がせな

内裏雛離宿へ仕まふ御勝手

六月はその日帰りの内裏ひな

其中に本店からの内裏ひな

甲冑の下へ内裏をおんならべ

雛祭是から斯うは姉さまの

雛祭旦那どこぞへ行きなさへ

雛まつり下戸におおせつな〱

雛祭ゆかの下から馳走する

雛祭見世から袴垂れが来る

水引ではまぐりを釣るひな祭り

馬付の花うりも来る雛まつり

ねだられてかぶとの側に内裏也

村の嫁今戸のでくでひなまつり

お妾はまだ気のすまねひな祭り

労咳があるで淋しひ雛祭り

雛棚の樋合ふさぐ楊枝さし

雛棚のひよ鳥こへをねつみ来る

雛棚へ艾を置くは姉の智慧

雛棚のしがをかくすも山桜

雛棚の家主らしい次郎左衛門

雛の棚いぢると罰が当るによ

雛の壇五條あたりは真っ裸

余寒さりかね雛棚に梅つばき

雛の箱まだふみも見ず明けかがり

雛箱へむすめ道からついて来る

ひなの箱ころんだ所で明けて見る

初のひなていしゆさわいでしかられる

初の雛伯母御やつきとされたなり

初のひなこころあたりが二三げん

初の雛ていしゆも次について居る

初の雛旦那御大儀なさつたの

初雛のあるじ盃しやぶつてる

追い〱に割込の来る初の雛

席いまだ定まらざるは初の雛

G顔殊にうるはしき初の雛

天顔のうしはしからぬ母の雛

おがむから出しなさるなと母の雛

やかましいおれがひなだと母はいひ

鳥羽の雛宿へおし込メる母のひな

嫁の雛かざらぬ内に人だかり

隔心に座って御座る嫁の雛

嫁礼の衣装かたづけ雛を出し

腰帯を雛の幕とは嫁の作

冠を桃の下にて嫁直し

嫁とよめはなすをきけば雛の事

見てが多いので三月が嫁苦労

嫁娘南北朝の雛をたて

嫁のひな見直しに来る暑い事

紙雛が抱かつて居たで嫁ハ逃げ

紙びなはころぶ時にも夫婦連

紙びなは柳の葉ほどまどをあけ

紙びなへ棒を通してぼろを下げ

紙雛に角力とらせる男の子

紙雛は雨具を召した立ち姿

紙雛を隣の槝屋つき倒し

紙雛も母のは腰が曲がるなり

紙雛はちやつとで取れぬ所へ落ち

紙子着たのは雛様もやすくされ

紙ひなのゆふれい花の宵に出来

座かしらをあねのもつてくひなの棚

えんこして居なよと娘雛をたて

打敷をしいて八百屋は雛を立

えんつきが来て大内をわけるなり

王様の首をぬくよと姉は泣キ

ひなの酒下戸をへだてぬすみにごり

ひなの酒みんなのまれて泣いて居る

雛の酒茶わんでのんでしかられる

行廻りかん廻りのむ雛の酒

下戸御座れ上戸御座れと雛の酒

白酒をきれいに飲んだ鼻の先

白酒の徳利階下の下へ入れ

白酒に酔て公郷衆の供をわり

真っ白な酒も桃園の院へ上げ

意地のきたなさ白酒でようろよろ

ほめたる白酒で嫁赤くなり

雛をほめるとのろこい酒が出る

せいだくをわけてもてなすひなの酒

御ちそうのつくは大キなひなまつり

位あらそいを娘と嫁はたて

もの申に公家をさらつて嫁はにけ

味醂酒を入れてびいとろすすぐなり

ようろよろするは階下を遠ざける

小笠原流で供へる雛の餅

重箱へそりをうたせる雛の餅

礼に着て来たのを蓋の餅へかけ

初節句其如月に餅をつき

公家の子のほまれ毎年くんじゆなし

ひなもかぶともおれがのとおとこの子

いり豆に花とはひなへちそうなり

いり豆に花がきんりへちそうなり

豆がらで豆をたき〱雛分ける

何事のやうに兄弟ひなをわけ

さむそうな内裏をせなあ買て来る

手ごみにはさせぬと母は雛を分け

うい〱しかろふと雛をつつませる

雛わけによめは一日里へ行き

雛分けに母手を出してしかられる

白酒に酔洛外へおん出され

先祖代々鼻ツかけのひなを立

木の丸どのにお公家だの小僧だの

古ルい雛かざつて鈴をふつて来る

何もない雛を見ている暑い事

雛の日はあいそずかしの鱠食ひ

土みかどさまべい立てるいなかびな

土みかどさまを姉へもかざるなり

雛の膳米屋の隣さて困り

雛の膳白魚うつてつつた物

雛の膳客は握りや左箸

かしましく階下にならぶ雛の客

居なりかと背中を叩く雛の客

居なりかと雛の使いに聞かれけり

雛抱いてなめているのが雛の主

ほめられて呉れた名をいふ雛の主

かけこんで雛をせツつく八ツ下り

窓へ出て雛の便りを待って居る

おちやつぴい節句の礼に早く来る

節句前箱でとりこむ女の子

初節句貰ふたんびに立て直し

目ぼしい雛を節句の日叔母持参

中納言ぐらいを呉れるけちな叔父

ほうばつて女房をじらす雛の菓子

あたりみてちよつくら盗ム雛の菓子

袖形へ載せてお針へ雛の菓子

雛の菓子五臓六腑のやうに詰め

袖布のやうな雛様叔父が呉れ

ひなさまへやろう来て居る猫の番

まだとしやわかいなひなさまに梅

だいりぞうえい四分板と小わりなり

内裏ぞうえい押入を明け渡し

惜しさうに隅からはさむ雛の重

ひなのめしおらかへも来て戴きな

悪人が隣にあるで早い雛

泣ながら気ばつて母は雛をうり

払い雛泣く〱母はきばるなり

混雑さ雛に夜食がそつて来る

うるさくてどうもならぬと雛を出し

雛の昇殿ゆるさぬでだだを云ひ

ひなをつかませぬで今朝ツからのだだ

内気には似ず内裏をば小さがり

いとけない主上が娘気に入らず

通町ずつずと行くときんり様

あかつきの枕にたらぬかるた箱

をわり町木の丸とのかにぎやかさ

金魚を片身上げておくけちなひな

けちなひなそばやの膳でまぐに上げ

風呂敷も持て来やれハけつな雛

をはり町春はやさしく夏武ばり

雛寒く桃のやう〱たるを上げ

母親のやうに遣手が雛の世話

妹だけ雛までせいがひくいなり

新世帯わけのつく迄雛がなし

どういふ気だかと赤子にひなを見せ

ひなじたくほうろくうりもしたくする

雛のある内はおふくろ気が残り

嘸おしかろうと圍ヒの雛をほめ

雛の座敷から男は押し出され

蛤であげるが娘気に入らず

蛤の湯で雛様をふいたやう

蛤は桃のみやこを吹いたやう

あらツぽい下女ひな皿がわり納め

ひなの椀下女のしかられ納め也

あれえ雛をつかいやすよと姉の聲

ひなをよび返し泪をふいてやり

逃けただけ雛さま七分三分なり

家にかつひなはおあして清めたの

橘や桜のかはり桃を上げ

公家衆の御馳走役に嫁はつぎ

据柚をおさへて雛を直すなり

げきりんばつて兄弟でひなをわけ

涅槃ごろから道具やに雛が見え

雛どもハ二月うろふと納品いひ

花の留守やつぴし雛へ手をのばし

手をつけぬものさと母はきんりしゆご

草庵の一町つづくひなの市

雛にこもふき合せはの尾張町

石町の四ツには雛の見世を引き

石町へ内容をうつすにぎやかさ

雛店ではづかしそうに値切つてる

雛店で生酔い一歩つつあげる

雛店へ昇殿をする能きば買人

雛店で花見に行かぬ筈にする

雛店へ素見の箱で娘行き

雛店で買ってて和尚目立なり

雛市に月と山とは値が高し

あら世帯ほと買たがるひな祭り

何宗か知らず和尚が雛を買ひ

大どらだ〱と雛をかつぎ込み

はしごおりきると二階で雛をまけ

大雛のおもてで小雛しやこをうり

ひなのわん小ばかにならぬ高いもの

雛のくどきにや番頭もこまつてる

けちな雛一けん店で買って来る

一軒店で買って来たけちな雛

九軒見たおし一軒で買ってくる

二階まで見て紙雛を一ツかひ

大師から帰りに安い雛をかひ

最うに二十四文買ふハけちなひな

雛買に来てちやらくらを女房云

紙幟真鳥と真田うれ残り

逆鱗のやうな内裏ハうれのこり

買つけぬなどし内裏を弐朱に付

雛なればこそ間に合ふと買ひに出る

芝居をばやめて内裏の願ひ也

雛の買上を女房は二枚とり

まづ桐を植え雛店え亭主行き

にこついた内儀のあとへ雛をしよい

なんぼべえしますとけちな紙ひひな

内儀が一歩たした雛安い筈

小ぬすみの白状をして雛を買ひ

酔ったやつ二朱づつ雛をつけあげる

おいてはつた通りに雛をねだるなり

万屋へ主上を始めたてまつり

箱入の市は一ト月先に立ち

内裏雛ぢきにまけたで気苦労さ

ふだん着で掘出しに行く大内裏

ぐわんじような雛は是じやと村の市

升餅をけつへ突ツさす人形屋

ひなを仕廻ふと人間の値をつける

箱入のひなで年玉云わけし

十ツけんはみんなきんりの宿所なり

ひなの内裏猫ぬえほどに嫁さはぎ

天上の交りをする太郎左衛門

出したり入れたり高砂金太郎

色娘春三夏六雛を出し

春三夏六に娘雛を出し

四日には夫婦別ある内裏雛

あさづきの膾進ぜて猿轡

胡葱のなます進んせて猿ぐつは

嫁の手は高みくら迄といきかね

箱入の娘わら屋の御所へ来る

けちな雛なまぐさくない鯛が来る

蜃気楼ともいひそうに嫁はたて

ほめられた嫁てんじんの方へ向き

ひなたなへしやうでんしうとだだをいい

うい〱しかろうと雛をつつませる

雛棚へモグサを置くは姉の智え

やかましく他人のせつくよめのひな

おふくろもわざつと院の御所をたて

まあ是で置ケとよふしゆたをかい

ひなたなへ兄イとびつきしかられる

ひあふぎの咲ころひなに風をいれ

大汗で殿上人を相手とり

花の当主諸卿と斗りさし向ひ

娘子はまめかとひなをしちや取り

おもしろおかしくいいひなあねははけ

もの申に公家をさらつて嫁はにげ

涅槃ごろから道具やに雛が見え

雛まつり下戸おおせつな〱

ひな両をはだかでたてる日の永カさ

十軒の長屋で悪くいふめかけ

仕合は蒙古退治を妾餝り

よかんさりかねひなだなにむめつばき

賤が家に公のまします通り町

立なから膳に向ひし紙ひひな

てんがんのうるはしからぬうれ残り

豆いりはまづきやうおふのはじめなり

みじヒかなHをひいたで雛の番

かんさしの雛のと娘くとかれる

紙雛は奥様に手のない証拠

紙雛は涼に出ても懐手

をしそうにすみから挟むひなの重

ひあふぎの咲ころひなに風をいき

ひなの内裏猫ぬえほどに嫁さばき

ほしひ顔せまいそと雛へつれて行き

紙雛は何の手の無き立姿

紙ひひな糸目の切れた立姿

むろ町の御所はもも咲く頃に出来

十軒が十軒ながら公卿の宿

雛の時遠い所のものを見る

けちな雛桃をやう〱買て上ケ

取るくい所へ紙雛おつこちる

嫁が来て仙洞と成る母の雛

古い雛花の外には菓子ばかり

朝顔が来て破却する雛の重

四分板と小割で禁裡普請也

日なの椀小馬鹿にならぬ高ひもの

初の雛めめちよ形の餅が出来

どなたにか似ましたなぞと公家の雛

雛の棚節句に崩す気の毒さ

雛の酒すそにかかればあじに見え

雛両の出合い春三夏六也

雛見世は只もやつたひ顔斗

箱入の娘さへ出る雛の市

春と夏十I店に公家と武家

太上天皇ばあ様のゆづりもの

南北に新都の出来る桃の春

桜町の院御馳走やくは嫁

御本坊雛を飾って見たい所

おらんだの横丁仮の御所をたて

一チ日の雛へは桃の実をあげる

桃の頃室町近く御所が建チ

出は出たが居所にこまる母のひな

 

三月火事場見廻り役を置かる

 

七月薬種問屋を二十五人と定めらる

 

薬種屋のかんばん朝の一ト仕事

薬種屋でとそを買ふのは無病なり

薬種屋銭をにぎつてわすれて居

薬種屋は足のくすりも一本うり

薬種屋のやつと聞きとる山帰来

口へ出るやうだと薬種屋を帰る

小屏風のかげで薬種屋がたつかぜ

木ぐすりやさくびやうぐらいなをす也

木薬屋でつちぐらいは内でもり

木薬屋駈て来たのはむみやうえん

木薬屋聞いてきなよと子を帰し

むめうえん聞きに帰って叱られる

鰯屋はどうも似合ぬ木薬や

木薬屋ぜげんのそばで5両とり

くやみいひながらせたげる木薬や

飲逃をきぐしりやへもいひ聞せ

猪牙と車で薬屋は粉にきざみ

一町を薬袋でおつぷさき

三丁目ふかわづらいそうもなし

三丁目医者の蔵宿らしく見え

三丁目にほはぬ見世が三四軒

三丁目鱗のぬけたおしい事

四丁目もまたちらほらと匂う也

二つ三つふくろ四丁目迄あまり

割床で薬種ひひてる三丁目

どつちらの袋か知れぬ三丁目

袋町ともいひそうな三丁目

鰯だの酢だのとふさぐ三丁目

見世先にてい主ぶらつく三丁目

ぢうのふをうまくつかふが三丁目

得知れない文を干しとく三丁目

俄医者三丁目にて見た男

ヒでもるものとは見えぬ薬種船

屠蘇を下さいと丈夫な男来る

いけずるい奴に一ぷく屠蘇をくれ

薬迄春は目出度のんでさし

赤松をぶつさいて屠蘇買に来る

三角な薬四角な形で呑ミ

三角は目出度い薬袋なり

俗名で呼べば薬種は安くなり

薬代に一つひつぱぐ他人宿

大丸のけつに大きな目ぐすりや

()()()を下さいとすねをまいて来る

ちんばひきながらまちんを買に来る

見くびつてないら薬に馬を盛

見くびつて薬の上に目が二ツ

目薬の看板まゆはいらぬ事

子を呑は煎じつまつた薬代

切腹をしたかんばんは固本丹

女湯の方へはらせる血の薬

虎の威を五種香賣もちつと借り

山帰来まづかさばつた薬也

山帰来草履の側へほして置き

山帰来子をうまぬかと下思い

巻ぞへにあつて女房も山帰来

色外にまだあらはれぬ山帰来

 

(付記)両国の四つ目屋

能書の通りじや四ツ目安いもの

馬鹿も重宝四ツ目屋を買ひにやり

差合いはござりませぬと四ツ目いひ

ごうてきよろこびますと四ツ目いひ

まくらにのこるくすりとは四ツ目也

尤な事四ツ目やへじやもつら

くたびれた夫婦のそばに四ツ目結ヒ

ふり袖を四ツ目殺にして仕廻ひ

いつちいい智慧四ツ目屋を聟は買ひ

四ツ目あり買ひにくい薬なり

四ツ目屋の亭主薬を遣ひこみ

四ツ目やの良薬口に苦くなし

四ツ目屋はきかぬと女房負おしみ

四ツ目やはつけぬヒ浅黄じやうを張

四ツ目やの女房わつちがうけ合さ

四ツ目やの近所いく世は面白い

四ツ目屋を落して置イたべらぼうめ

四ツ目屋をねだるは下女の三回目

女房のために両国まて廻り

両国で女房すすりなきをする

能書にひりつくべしは何事ぞ

ひり〱を洗い落として浅黄待ち

もてぬやつまだ薬でも遣る気也

ほれぐすり僧にいわくは何事ぞ

惚れ薬十日過ぎても沙汰はなし

惚薬二貼国府の中へ置き

ほれにくひ顔が来て買ほれ薬

かの薬それいくよ餅近所なり

両国の薬泣ずは銭とらず

提灯へ四ツ目をつける馬鹿隠居

両国で泣カずは銭を取りません

聟斗り両国橋へ出て帰り

たのまれて来たといはねは買にくし

短命丸といひそうな薬なり

 

本城近き所に藁葺屋を禁じ瓦金を貸与せらる

小石川殿舎を廃し薬園を設け後に養生所を立てらる

御薬園酢味噌を知らぬ草ばかり

藪いしゃへ断りいふて御やくえん

 

幕府令して世上の噂及び男女情死等の事を板行すべからしむ

男女とも襟なき合羽を着すこと此年俳諧宗匠着始める

十徳の雪打払ひうちはらひ

十徳と十二一重でいひしめり

十徳を坊主かふろにきせて見る

 

大坂にてお千代半兵衛の情死あり、豊竹座紀海音作にて心中二腹帯を出し、竹本座近松門左衛門作にて心中宵庚申を出し竹豊両座張合に興行せり

半兵衛雛の頃から心がけ

 

早野巴人京に上る

 

俳諧いまみや草(来山)・俳度曲(曲(沾徳)・俳諧絵文匣(立詠)

 

 

一七二三年      

享保八年癸卯 六歳

 

正月十日 片山北海生

五月八日 池野大雅堂霞樵生

好文軒青牛生

八木五株生

青木十口生

小林文母生

 

正月二十九日 梨本裕之没

二月二十三日(或云二月五日) 佐々木玄龍池庵没年七十四 文山の兄

二月二十五日 元祖宮崎十四郎巴十没年五十七

二月二十九日 志村無倫拾柴軒没年六十三

三月十七日 中村半三郎没

四月十七日 千那没年七十三法名明式上上人葡萄坊と号す、江州竪田本福寺十二世の住職たりしが退院して芭蕉の門に学ぶ

 

五月三日 若林實齋没年四十五

五月十四日 新井宣卿没年二十五

五月二十五日 元祖坂田半五郎杉暁没年五十三

六月四日深井政圓秋水没年八十二

八月三日水田正秀没、通称利右衛門、竹青堂・竹節堂と号す、江州膳藩の物頭を勤む、菅沼曲翠の伯父なり

八月三日 朱拙没四野人四方郎と号す

十二月六日 町田秋波没年六十三、茶人、没年六十三、茶人、名章、号玉容齋

 

大名の年せんじ利休させはじめ

夫の頭茶釜でたてる千家りゅう

和州まで願に行く非番也

お茶の間をほうじ直してさまを付け

茶の飲める庵はみやこの辰巳也

茶の会へつねのあたまは下手らしい

茶の会にかげのうすいがてい主也

茶呑づれはいとうの来た気の毒さ

人を茶にして山門へ高あがり

高見での見物茶人おちどなり

利休がおちど紫を茶にしすき

一生ウの身のかたつきを茶できはめ

日をえつて茶をのみに行く恥かしさ

茶をのんであいもなく来るやなぎ樽

 

十二月十日(或云十二日)狩野洞春福信没

 

三寶銀四寶銀通用止

 

二月生玉琴風奥州に遊ぶ

陸奥・出羽・蝦夷地方に関連する柳句を爰に収録す、但し前九年・後三年戦役・義経・弁慶・仙台萩狂言・陸奥の守と高尾薄雲・秋田蕗・お竹如来及び各藩主に関する柳句は別項各関係の條下に登載せり

 

国ひとつ和銅の頃にはねがはえ

萩だの杉だのと奥羽のむつかしさ

伊勢と陸奥紙のつぼ石のつぼ

十かへり見ても目に飽かぬ千松島

松島の雪は誠にむつの花

碑は苔にさびても光る芭蕉の句

兵の夢のあととふ歌まくら

稲舟へ雀のりくる最上川

湯殿山くつわ虫ほどおとをさせ

陸奥のはては牡丹の畠なり

道中に二十日もかかる牡丹なり

正月にいい御領地は二本松

黒づかの刀目貫の鬼ごもり

上ぞりの家根松前の大ひでり

松前の盆踊それおつとせい

五爪織るのは指折の蝦夷の嫁

小原女の身で千代能は月をすえ

底ぬけた桶すへ和歌の器もの

こぼれた水もたまらずさとる也

月がもり千代能たがをかけかへる

悟らねば下手桶屋めといふ所

宿らぬ月で千代能が胸は晴れ

敷島の道草うちの窓で喰ひ

とんだ道草は露から秋風

露から秋風長いうそをつき

能因が窓へ出ぬ日は田がしめり

白河の関を窓からのぞいてる

能因も顔を取込む俄雨

蜂の巣が落ちて能因首を入れ

知る人が来ると能因窓をたて

歌人は居ながら日にやけて嘘をつき

日に焼けた嘘は兀ても名歌なり

白河の名歌能因黒うなり

白河を見て来たふりて黒ひ貌

底豆のかはり能因座りだこ

歌は顔書物は腹を日にさらし

能因はいけまじ〱とわらじはき

わらじくひ迄は能因気がつかず

のういんは川どめなどのうそをつき

一戒破る能因が旅の笠

名歌中へ一戒やふる秋の風

妄語戒能因一首よみ

細布をとはれ能因こまる也

能因は一つの啌を小半年

能因は右の手李白は左の手

いでもの見せんといふままに能因

おんはくでもいけないを能因持ち

下戸向の歌を能因一首よみ

歌まくら見てまいれとておん出され

歌枕みよとは慈悲の御憎しみ

陸奥で実方伊達の紋と化し

 

二月十五日より三日間中村勘三郎芝居開闢より百年の壽と狂言名題を出して新発意太鼓猿若大名等興行す

 

猿若へ七つめをつむ賑かさ

堺町人の毛なみをいふ所

堺町ずか〱通る相撲好き

堺町おとなしぶつて残される

堺町ひつそりとなる暑い事

堺町和泉町からうんだ町

堺町住吉町の近所也

御本坊から堺町までまはり

すいぶつて昼過に行く堺町

生キかわり死かわりするさかい町

とんだ事堺町まで追手なり

 

二月十六日赤坂出火西の久保に及ぶ

 

二月情死の者の処分を令せらる

男女の申合果候者の事(徳川御定目)

不義にて相対死の者死骸取捨為吊申敷候一方存命候はは下手人

双方存命候は日本橋にて三日晒非人手下

主人と下女相対死にて主人存命に候は非人手下

 

心中はほめてやるのが手向なり

心中を魚屋尾ひれをつけていひ

心中といかりと海へしづむなり

心中はさい鯖からのおもい付

心中が有るでつよくもしかられず

心中の追手に親のゆるし文

心中が出るで結納うりはぐり

心中のじゃまして今に礼をうけ

心中の頭へ干シとくかつほぶし

心中を本の思案がつれ帰り

心中をむさしとう〱祈りのけ

心中はいや道行はしてみたし

弁慶は心中させぬ札をたて

賀の祝ひ心中に出た迄はなし

死に切つて嬉しそうなる顔二つ

ふがいない魂二つ番がつき

男めはにげたそうなとこもをかけ

死をぜんどうにまもらずおとこにげ

心中の前夜男のひざがぬれ

心中を女針にさせてにげ

死を共に女はすれど男せず

つまらなくなり死ぬ連レをこしらへる

刃もののいらぬ心中は下卑た物

心中をざつとするのは手たてなり

心中の帯をして居るむごい事

きやうけんにする心中も似セのえん

心中を見ころしにするむごい事

日本橋馬鹿を尽したさし向ひ

日本橋おし分けて見る買たやつ

四日目は乞食で通る日本橋

死すべき時に死せざれば日本橋

おつかならしい机のある日本橋

定業のいまだ至らぬ日本橋

いたづらが叱られて居る日本橋

日本に死そこないが二タ人なり

がうざらし日本の地へも二タ人出る

江戸のまん中へうろたへもの二タ人

業ざらし死神まで見放され

江戸のまん中で分れる情けなさ

親達はお菰にやるを云ひあてる

鳥追に出る頃は早疵も癒え

不心中五十三次ぱつと知れ

みくるしさ男と女二人リ居る

心中がまじ〱どらをさらし場所

あどけない名札の見える日本橋

れない物と見えたと日本橋

道のりのめどに取らるる日本橋

日本橋何里〱の名付おや

日本橋どこへ行かうと好きな所

日本橋勝手に足の向く所

日本に一つは橋の一里塚

置く霜の向きを見せぬ日本橋

日本から駿河の見えるいい日和

日本橋四角い渦の巻きはじめ

一里塚日本一は橋をかけ

道のりの掟もきめた擬寶珠なり

日本一を二つ見る日本橋

市は一花の江戸日本ばし

富士山も蓬莱山も橋で見え

 

三月十九日柿本人麻呂千年忌、二月朔日石見国柿本社へ正一位柿本大明神と謚を給ふ

 

和歌は柿詩ではりがよく熟し

末世迄あかしの浦で目をさまし

百人に一人綺麗な股から出

九十九人は親のはらからうまれ

白妙の中へ山鳥おりるなり

かくれ行々舟かくれなき名歌也

化粧しながら島かくれ行くをいひ

白粉をとき〱船をしぞ思ふ

めのさめた人が名歌を丸くする

人丸も菅家も人に目を明かせ

人丸を片身おろしてあすの朝

人丸を枕時計に奥でする

人丸を読まぬは不人相で寝る

人丸をねつぶして下女まくられる

人丸をたのんだ事を下女わすれ

明日芝居人丸どこか寝ずに居る

歌の徳ほの〱明ぬうちに起き

歌のとくわこくが前てほの〱と

ほの〱にあかしのとのの御立ち也

ほの〱と須磨も明石も仕度出来

ほのどうと証も須磨もつくり立ち

ほの〱と芝居も内はからす飛び

ほの〱とよまぬは不人相で寝る

 

八月江戸近在大水

 

きついふりおもてをいなぶらがあるき

きついしけ田をも谷をも人で埋メ

きついしけ嶋田金谷は人だらけ

いよい〱と竿の立てるきついしけ

大名をおつつくねとく川づかへ

ごしやうぎでくらすはかたい川づかへ

旦那は棊家来はふせる川支

奥橋の指の間逢ふ川づかへ

かいつくらとても嶋田は川づかへ

のりものを戸だなに遣ふ川づかへ

川留になりけふも山けふも山

川留になり桟道を通るなり

川どめになりて双六にない旅

川留めに宿の小僧が頭を追ひ

川どめにてにはを直す旅日記

川どめの状を二人でよむにくさ

川どめに碁盤の外はつぼをふせ

川留に足の淋しき供廻り

川留をわらじではなす旅もどり

川留にむけんのかねへさそはれる

川留と○ぬけなんしと女郎いふ

川止の間太夫も○をつき

川の口明たと後架まで叩き

だいやを二つくらつたに川があき

たつた今留ツたかわへ仲右衛門

不二の夢はたして川留めをくらひ

あげつめのうち川どめに島田あひ

一宿は御家中に成ル御川留

島田にも金谷にも武者五六千

御退屈金をば谷へすてるやう

退屈さ川を越す夢斗り見る

あくびの中の川は一里なり

たいくつの中水はばが一里也

駿河橋遠江橋も御たいくつ

駿河にあくびをさせるきつい降り

見えて居て行かれぬ所は遠江

伸びをするたんびに見える遠江

遠州のあくび駿河へうつる也

御退屈昼夜寝耳に水の音

国姓命などを嶋田の亭主貸し

川向ふでも喰ては寝〱

首すきう流れるやうな大井川

またぐらの首が取レると遠江

甲冑のねばついて来る永いしけ

ごう腹さくどき落せば川があき

 

八月火の見の高さを定む

竹田出雲大宮曦乃鎧を作り竹本座にて演ず(宝暦六年の條下参照)

此頃地口附と云うこと流行す、後停止せらる、三笠附の如く博奕に類する悪弊ありしに因る

よしの山人のよくいふ地口也

ままならばままさとおやぢじぐち也

もてぬやついつそ地口をいひたがり

喰ひつみにめでたく地口言ひ始め

わる道につらきと車力地口也

ぶきな客地口にしてもさしをいひ

もらハれてたいこの地口おちつかず

伊勢ひじき取も直さず地口也

 

智鏡尼安藤冠里公の母に仕う耳順の賀あり

未適仙台躑躅ケ岡に大淀三千風の碑建つ

 

俳諧其桂(貞佐)・俳諧媒口・撰句鸚鵡返志(前句冠句等)・雪みとり(前句附)・つづら笠(前句冠句)・しぐれ笠(前句冠句)・若みどり(前句附)利風、東林、故風、立子、支川等撰者・誹諧江戸すずめ子、子、子、竹丈竹丈竹丈(前句附)蝶々、紫川、鬼蜂、可仲、可角、梅山等撰者

 

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一七二四年      

享保九年甲辰 七歳

 

居初乾峰(二世)生

元杢網生(通称大野屋喜三郎 後平七)

 

正月 加藤謙齋没年五十七

正月十三日英 一蝶没年七十一(或云七十三)白銀二本榎承教寺塔中顕乗院に葬る墓は今郡部に移れりと云う、一蝶は絵画の外諸芸に通じ特に短歌に妙を得て間々誦すべきもの尠なからず、朝妻船の如きは人の能く知るところなり。

辞世わざの色とりもありや月のうす墨の空

朝妻の粗相一蝶舟にのり

はなぶさも萎れて島に一つ蝶

四月十四日倉橋檢校没(箏曲妙観派)

五月十五日山中平九郎没年八十三 江戸の俳優實悪古今の名人は俳名を仙家と云う。

悪がたはあぶら見世など思ひ切

山中の家納戸絵に平九郎

土民とは公家悪のいふ言葉なり

六月四日 深井秋水没年八十二

六月七日 狩野永寂主信没年

九月十五日 神岡政之助没年五十四

九月二十四日 宇都宮一角主齋没年三十

九月二十四日 西川如見没年七十七

九月二十五日 石井弥五兵衛三朶花没

九月二十七日 二代目坂田藤十郎車連没年五十六

十月二十四日 中村竹三郎没

十一月二十一日(或云八月) 高井立志(三世)没年四十二

十一月二十二日 近松門左衛門没年七十二

姓杉森、名の信盛、幼名を藤四郎と呼べり、平安堂・巣林子・不移移山人等は其の号なり、越前の人(或云長州萩人)叉を村松八兵衛と云う(或は杉切某なりとも云う)藤四郎は其第三子、幼より肥前の国唐津なる近松寺に入り薙髪して古澗と号す、終に某寺の住職となり名を義門義門と改む、幾もなくして去て京師に至り、其の弟なる学医岡本一法子の家に寓し還俗して一條家に仕へ従六位に叙せらる居ること数年姓名を改めて近松門左衛門と云う、是に於いて伝奇小説の作者となり浄瑠璃正体を作れり。大坂八丁院穆矣日一具足居士と云う、この法名は近松在世の時自ら設おまたる也。

辞世

 去るほとに扨ても其後にのこる

桜の花しにほはば

竹本座の為に右大将鎌倉日記を作る、蓋し絶筆なりと云う。

我うそにかんるいなかす門左衛門

 我作の立聞をする門左衛門

 近松は作者の中の一本木

 孔明か頭で近松韃をせめ

 妻もよろしうとちか松まぜるなり

 近江屋松右衛門の書物作り出し

正月三日芝口門焼失後再建なし

三月松平吉里が甲府城を収め大和郡山に移さる、甲府を番城とす、吉里の父柳沢弥太郎吉保が将軍綱吉の殊遇を受けたる事跡は世の人皆知るところなり

 すでのこと柳が梅にならぶ所

 すでの事柳百本に成るところ

 梅ほどに既に柳ものびる所

 梅柳両木既に並ぶ所

 二十万石で沢山だにたくみ

 あてことが八十二万石ちがい

 鮫すでに百万石ものむところ

 

 信玄は七書にひいで四書にもれ

 信玄公は名将と借りたやつ

 かりたやつらがしんげんをほめるなり

 信玄公のけんひきははらぬなり

 信玄と道鬼相求めた軍師

 信玄の武勇に道鬼相もとめ

 信玄の納所めつかち坊主也

 信玄はかはつたものを目の敵

 ぞくの僧正は座頭を目の敵

 僧正は座頭をひつし〱うめ

わるい日をくつたは甲斐の座頭也

穴山がうめるそうだん相手なり

つへをとり上げほうりこみ〱

信玄はしこたま借りて焼き殺し

信玄はあとうら杖を千本くべ

ごぜといふ瞽女甲州を夜逃する

めつかちは大じ盲はむごくする

びつこめが下知かと座頭くやしがり

手引をば皆追出せと三郎兵衛

あんまは埋めてもけんびきは越後勢

明いたのと無いを和漢でうめる也

甲州は針や按摩に事をかき

一国成敗あんまが一人なし

信玄のざいせあんまに事をかき

はなねじりばかりがねだる甲斐の国

一国は祝をねだる根をたやし

とんだこと座頭並に魚鳥止め

信玄の遺言魚鳥止めはよせ

魚鳥当せぬのは甲斐のはかりごと

信玄はばば楠は尿で責め

親に虎家来に馬を家来持

息の音の調子もくるふ野田の城

きくかひのなひは哀な野田の笛

笛の音も野田と驪山の恋無常

信玄も鉄砲疵をはひしかくし

武田のからくり三年ひしかくし

塩を貰って謙信を甘く見ず

信玄の頭にやどる諏訪の神

やき塩ば信玄きつい奢なり

信玄に生れて来ても不孝なり

目が一つ殖えて信玄やたらかち

五体不具なれと武道の鬼神也

五たいふぐにして山本は名が高し

一つ目は軍師蛇の目は勇士なり

跛引き〱それ攻めよそれかかれ

この人にしてこの病軍師なり

うごきなき片目川中島軍師

勘介はむかし鬼王だも知れず

もふ片目無いと勘介うめられる

勘介か麁相車で足を引き

勘介か片身信玄気にいらず

たき置きをせねば勘介おちどなり

ふとつ目がきかんのんしと越後勢

追焚を見て謙信は小うなづき

車にはりこまれ道鬼は仕廻なり

片目だけ車がかりを見そこなひ

かげ膳をすえてる所へ武田寄せ

ぬかぬ太刀とは甲州でいひはじめ

ぬかぬ太刀一生無事で功名し

川中島はしんげんの勝負也

甲斐の田を越後の鎌でかりたがり

互先定石をうつ甲斐越後

えちごのけんしんかけねなしのいくさ

小豆が勝って赤くなる甲斐の色

大あづき団扇へあてる川の中

川中で団扇でさます小豆粥

武田の仕かけ川中で大はたき

勝頼はちやわん今川桶で死ニ

越後の車に甲州の馬はにげ

奈良は鹿越は虎すむ春日山

謙信は塩で信義を磨くなり

塩をもらふやつさとけんしんいい

煮え切らぬ中だに甲斐へ塩を入れ

越後から塩を送ったかひもなし

町人にしても謙信すさましひ

 

其の他甲州著名の事跡に関して詠まれたる柳句を次に掲ぐ

法華経へ鮎の子をひるいさわ川

妙な石投げて浮むは石和川

そこが妙石にも堅い経の文字

一字ツツぼちん〱とうかませる

あれなるは鵜で候と渡し守

やれ起きろ山が出来たとさわぐ也

三国一の無精者あす見よう

仰ぎ向いてうそだ〱と翌日見村

孝霊の前は名もなき翌日見村

あす見れば見えぬを直に村名也

をしいこと末代見えぬ翌日見村

姑婆々甲州月に二斤のみ

勘介も丸い一分にありつかれ

甲州の貸借丸くすます也

柿の木の売買丸い金でする

信玄は金まで丸くあそばされ

徳本の薬禮丸い一分なり

徳本はたのみ甲斐ある名医也

徳のある本道は苗字が知れず

名優はみかん名医は葡萄也

甲州は塩もぼさつの数に入れ

武夫の小手指原にかぶとぎく

 

五月細井知愼召されて百人組与力となる

 

八月蔵前の札差を百九人と定めらる(安永六年の條下参照)

百九軒ながら当主といふ所

蔵前へ来て長髪のわりくどき

蔵宿に一人か二人うぢ〱し

蔵宿で引きおとされる月二つ

蔵宿のよめはこころで笑止がり

蔵宿へ廻るで四ツ手百高し

蔵宿でかりずと来なと高尾いひ

蔵宿に嶋田たび〱いけんされ

蔵宿へ二百十一日にゆき

蔵宿がかさぬとだぼうはぜをつり

蔵宿へ使いにも行く安隠居

蔵宿へつつ一ツぱいの手紙つけ

蔵宿を出ると状箱ふつて見る

蔵宿へ大職冠から使者が立チ

蔵宿を出てから四ツ手はやひなり

くら宿で又来たといふそらぬやつ

蔵宿を出る長髪の定九郎

長髪で弱そうなのをおびやかし

天鵞絨のやうな天窓で借りに来る

御ふ勝手しやぼんのやうな玉が落ち

人は武士なぜ蔵宿にあてがわれ

丹前で来ると蔵宿うんざりし

玉に疵蔵宿を出て猪牙に乗り

たち入った咄の多い御くらまへ

ひねくると小便にたつ御蔵前

鬼王に似た人の来る御蔵前

蔵まへといふ米ひつをもたせられ

蔵前えんまにちるを帳に付け

くら前がくもつたて月一ツ見る

くら前へちよつと寄ルぞとかごをかり

御蔵前三季に渡ルかりのこへ

御蔵まへぬれて通るは地かた也

御蔵前閻魔の側で地蔵顔

 

護持院の跡を閑地とす、ごちんが原と云う

 

大坂大火

低き家の烟は高き御製なり

賑はしき烟はあつき御仁詠

火の用心せよと仁徳みことのり

難波津の梅からひらく文の道

難波津の梅は一重を八重によみ

難波津の歌は四角な口でよみ

梅の大関難波津と筑紫潟

呉国から鳥二つ来ておりはじめ

機も手間西方からも二人くる

何の木か知れぬは二女の機道具

美酒佳肴実に列国の台所

難波津の名所は底のしれぬ池

馬卯浪華の町の名に残り

ぶら〱と瓢箪町へ素見くる

瓢箪町心の駒の御かし飼

女何壺は道頓堀で客をひき

日本の米の集まる喰ひ倒れ

堂島は日本こくの脈所

堂島で上り下りの道をふみ

堂島は雲から運の風が吹き

堂島の利運順慶町の人

日和見て順慶町の夜店出し

千日寺に百日紅咲いて居る

いちにちも添はず千日寺で死に

けんぎやうに成るに大坂かかはらず

大坂は座頭に用の無いところ

大坂のまつりへんしやう男子也

大坂の金逆桐が一分出来

大坂はなんにも色を染ぬ所

大坂はにしめの味のかはる所

大坂ははや一瓢の飲となり

大坂に寺といふもの出来たげな

猿末期犬と虎とに子を託し

大坂で一幕切の猿芝居

猿の尾は短し虎の尾は長し

猿は暮虎は日の出の御開運

へうたんの蔓吹切らす松の風

桐枯れて松しげれる御威勢

嫁応挙姑狙仙でもめ

鎧武者出たは元和の五月切

菖蒲湯を湯灌につかふ浪華勢

総堀をうめたで夏がしのがれず

堀を埋たで五月雨の頃崩れ

大坂屋息子はなまけ後家奢り

淀殿は帳台浅く出てしゃべり

お妾は鬼もおそれる威勢なり

女さがしく六文をむだつかひ

銭の遣ひよう大阪知らぬなり

大坂であつたら銭をむだつかひ

上田の古着も大坂でひとはれ

なんのあの喰らひぬけめと大野いひ

おあしの旗は真田かと淀の方

たつた六文でひと冬もちこたえ

九十抜けても馬鹿でない軍師なり

大坂は真田兄くじ当りなり

幸村は生きる気でない紋どころ

討死の覚悟は真田紋で知れ

大坂の名残真田の七変化

影武者を銭の数ほど出して見せ

似せ銭を三十六文真田出し

六文を四十二文につかふ智慧

四十二文を乱軍へまきちらし

定紋へ真田は六をかけて出し

六文の銭が切れるとまけになり

銭がなくなつて大坂しまいなり

惜い銭むだにつかつて落城し

落城をする筈銭をつかい切り

銭づかひわるくしたので落城し

銭がなくなつてつぶれた大坂屋

ゆき村も消えてなくなる夏御陣

水うつたやうに治る夏御陣

ゆきも消えたりやめでたく夏御陣

一筋は夏しめきつた真田帯

うは帯の真田をしめた夏御陣

六文は敵六文は御味方

おひねりを二ツにわけて御味方

たね銭が関東方に残るなり

片々は長持のする帳の紐

帳のひも智慧のあまりで織り出し

どう見ても真田は男二ひきなり

六銭を分け一もんをたやさぬ気

二六勝負は兄弟の敵味方

西方へ杖と柱を真田分け

御味方と敵で二六の十二文

東西へ身ごろを分ける上田縞

東西へ一端づつの上田じま

半分は残す知略の十二文

銭をたやさぬくふうするあわの守

煙草出る沼田にけむい安房守

銭づかい上手にしたは安房守

三代はどれも一とく才知なり

真田父子斗ハけつのしてがなし

武勇では一家六もん名が高し

くふことも武勇も真田人にこえ

賑ははぬ煙りをさとる安房守

大坂と江戸で引張る真田帯

村中を酔ハせて真田ずつとぬげ

みそすりをやめて大坂がたへつき

大坂といいたい所にきらず桶

大久保に手を洗へとは御強運

大久保も印和も玉で名が高し

金玉の論を大久保申し上げ

大坂屋眉間の白い犬を飼い

大坂で後藤目貫の男なり

木村あづかり大坂の冬相撲

むづかしい判とりの来る茶うす山

茶臼山冬ひいたのは甘茶なり

片桐もこまるは質と銭のこと

水車片桐質におくところ

片腕に成る桐の木を惜ひ事

片桐が為にはちやちやのつぼね也

六夜には至極の所と市の正

よしあしにつけてもまれる市の正

市の正二の足をふむ三か条

茨木の城でかたきり手を出さず

君々たらず茨木へ蟄居なり

大坂で市の男をおしいこと

片腕の武士茨木へ退去する

お手切れと聞き茨木でそれ見たか

遊軍といふは薄田隼人也

いそがしい中で薄田どらをうち

薄田は月見も仕廻ひかねぬ所

薄田が陣小屋へくるさがりとり

すすき田はあそんだだけがとくに成り

すすき田は冬ばツかりの女郎かひ

塙はみじかく長曽我部長すぎる

長曽我部先祖は秦の薬とり

さつま薯ばたへひやうたん植えた沙汰

 

地理上の関係により畿内の堺、住吉、和歌浦、当麻寺、吉野山及び奈良の史跡に関連する柳句を爰に収録

冬の庭わらづとにする妙国寺

つみでない釘をきかせる妙国寺

鉄砲のせん屑もらふ妙こく寺

信長の下知にそてつはしたかわず

釣鐘もそてつも故郷恋しがり

住の江の景色暑さも忘草

住よしで音にきこえた太鼓橋

置霜の神はおとしも津もり浦

神慮にも霜の降夜は寒くこそ

御歌で見れば住みにくいやうすなり

松一本植えたさかひて名が高し

苔衣着る開山の植えた松

住吉の燈籠青さ苔ごろも

青苔衣に似てとうろうまけず

龍燈の松にも苔の鱗がた

楽天が目あてのちがふ高燈籠

楽天もくが地をくると播磨切

浦で漁夫山で木樵と化したもふ

楽天はへぼくた親仁かと思い

舟と船寄せて和漢の結ひらき

山がつは道すき漁夫は追戻し

漁夫木樵深き神慮の底筒雄

東海はよみ西海は追かへし

唐織の帯はまはらぬ山の腰

是がわかるかと楽天初手ハいい

はや住の江に着キにけりなぎになり

無常で漁翁はすぐにしめたまひ

和らかにおつくじかれる山のこし

八重垣に結なほされる山の腰

歯はたたぬ筈神詠も巌也

神詠はいはほ楽天歯がたたず

神と儒者ゆへ問答に通辞なし

胸わるで来るとゆるさぬ和歌の神

日本の土はふまれず和歌の徳

言偏の寺へ神風ひどくあて

詩学にてくれば歌学でぼつかえへし

住よしは此漁父などと下から出

日本の土は踏ませぬ和歌の神

神国の曠着は漁夫の鱗衣

着てかへる恥は故郷へ苔衣

猫もしやくしもと楽天おどかされ

楽天もちくらが沖で逃つ尻

さてよくしやべる猟師めだと楽天

ばかされた様に楽天船にたち

こけ〱と赤楽天になつて逃げ

髭などで来たは大きなこけ衣

猟師だと見たが楽天ひが目也

退けて我住の江におんかへり

風の神におくられたのは楽天

何が食ひますと楽天傍へ寄り

あかをかへろとらく天下知をなし

らく天は日本一のはぢをかき

楽天は麦めしおやぢだと思ひ

神詠にこりて交えき船斗り

筒男の神事早少女も玉ぞろひ

うかれ女も早少女になる神事也

深泥に美女のまみれる神事也

美人を泥へぶつはめる神事也

早少女はおやまぢやさかい美しい

神事前田植教へる姉女郎

傾城へ火を打かけてのらへ出し

傾城の蛭に吸はれるにぎやかさ

住吉は太鼓はきらひ女郎好き

他国からおすみおよしが来て植る

泥水で住吉の田をうえている

ただならぬ早少女お住お吉也

堺屋や住吉屋から来て植える

堺屋の息子のいたい神事也

田植笠禿を呼んでほどかせる

田植の奴のと女郎けちな所

素見のくんじゆ田を植に出るさかひ

乳守からうえるで米もよくそだち

ぐんじゆする田植はお住お吉なり

住吉の田から去年の櫛が出る

はりのなさ奴コにも成り田をも植え

田植見の崩れ蘓鐵へ二三人

名聞な浪のうつのは和歌の浦

名残をしけに鶴のたつ和歌の浦

密推つぶてで鶴のたつ和歌の浦

あとつてはくだける波のわかの浦

帆のかげも色紙にからぬ和歌の浦

短冊なりに帆の見えるわかのうら

言の葉のちり打よせる和歌の浦

枯あしの腰打もあり和歌の浦

霧霜の中に立つわかの浦

和歌のうらやもめの浪に女夫鶴

和歌の浦さつぱりとした浪の音

焼き筆の先づぶつ付けは玉津島

波一つ仇にもうたぬ玉津島

神慮にも若い男波は面白し

住の江と明石の中へ男波うち

末世まで消えぬは和歌の霜ときり

若浦のてごとで又も立ちかへり

戻り駕でもやりさうな和歌の神

三神は嬲るとよみしおん姿

和歌の神山といふ字の御姿

面白ひ和歌後家を真中の置

三人は神六人は仙と成り

ビイドロの左右やくわんとやくわん也

梅干を左右に花のお客顔

真中は若め左右はほし大根

左右か提灯真中かすきこほり

浦波の左右夜の歌朝の歌

一字づつあまる左右の御神詠

蜘蛛の巣を笏で払って御幸也

さうがにをみすへ包んで心待ち

くれかかる軒端見ている美しさ

かけとりの来べき宵也かねて逃げ

暗やみへ衣通姫は穴を明け

心待ち衣通姫が元祖なり

すき通るから召たまふ緋の袴

当麻寺機のあまりをよごしにし

当麻の惣菜まんだらの切れつぱし

どなただと中将ひめはまぼしがり

当麻寺聞き惚れのする名が残り

まんだらの御気根盛に当麻寺

ごふくやに無いのを拝むたへま寺

仏道に織り儒道には断つた機

蓮でまんだら杜若ではころも

煩悩菩薩蜘のいと蓮のいと

吉野山十七文字でほめたらず

吉野山十八文字でとどめたり

吉野山これより上の句はきかず

吉野山引つきりもなくほめて置き

吉野山横手をうつて十八字

吉野山なんぞもらつたやうにほめ

吉野山お久振のやうにほめ

貞宝も喜六も一字たしてよみ

思はずしらず貞宝は一句出来

貞宝も小町も○は一首也

まつすぐに言って貞宝落をとり

字あまりの後は一句もいいてなし

十七八で名高いは雨と花

白雲できろくにのこる歌の徳

吉野山鬼も十八名句なり

松に月をやすめて通る吉野山

桜ちる下に葛桶うるし桶

久助が在所は花の名所なり

御会式の桜も吉野紙でする

祖師のさくらも吉野から漉いて出し

(南朝の遺跡に関する吉野山の史的柳句は天明三年の條下参照)

大仏もモト色事で出来た給ふ

大仏は誉めた斗で済む仏

大仏は見るものにして尊ばず

菩薩から大仏になる民の汗

鼻くそにかなうもりも出る盧舎那仏

大仏のくさめ奈良中それ早手

木やりにて蓮の葉にのる大仏

大仏にこいつかあらはとふたろふ

勅封に鼻うごめかす東大寺

大きながぶらりしている奈良二郎

奈良二郎其名は四方になりひびき

木辻の里でにくまれる奈良二郎

垢すりに白綾つかふ施行風呂

湯の施行水にはならぬ御光明

垢すりをかはとりきんでみことのり

身にひかりさす迄人の垢をすり

千人目鼻をつまんで湯を浴せ

呼出して我顔を見る二月堂

十二月堂なら若狭から雪をよび

神社は春の日仏閣は二月堂

善知識普く諸経よく辨し

良べん僧都しびんかと尿だはけ

薪御能飛火野の近所也

なまくらをさして薪の能を見る

大つづみ茶碗の胴をぶつつぶし

能を見る鹿ぽんとしたつらがまへ

鹿の糞よけて地謡かしこまり

灰だらけになつて奈良の能を見る

ふじの外にもしれている三笠山

さらし揺く杵で教へる三笠山

三笠山唐まで月のさえた所

四角な文字の中でよむ三笠山

一首にて和漢を照らす三笠山

唐紙へもにじむ三笠の月の歌

只一首異朝をてらす月の朝

明州で月を三笠の大和歌

日本の寝言だといふ月の歌

異国へも月を残せし和歌の徳

仲麻呂はもろこし団子にて月見

他人がうの入ったあべの仲麻呂

仲麻呂も蜘には深い恩があり

月を詠み故郷の山をかがやかせ

月の歌ばかり掃朝と秦聞し

平仄の中で手爾波の月をよみ

言の葉の錦を幣に手向山

取あへず御歌を幣の手向山

三まいにおろした頭が東大寺

いかにやの時分小鍛冶は火をおこし

宗近は狐がついてほめられる

宗近はそらおそろしい手間を入れ

合槌の音コン〱と世にひびき

身をなげた所へ女の宮をたて

さる澤の土左衛門を見に御光なり

あを向て居る土左衛門へ御幸也

美しい土左衛門宮を建させる

憐なる柳猿沢隅田川

大一座木辻は能のかへりなり

なまくらな鍛冶屋木辻へくらひこみ

早く目がさめて木辻もふりむかず

ふられ客采女の宮で夜をあかし

ふることを采女の宮と木辻町

ねきへよりすぎて大和を半巡り

朝起の土地に寝ている奈良の鹿

朝おきをして御ぞんじの神を追ひ

折々は口書に参る奈良の鹿

朝寝の門へはきつける鹿のくそ

朝寝でも随分今の京はすみ

寝ぼうでは昔の京はいかぬ所

遷都の楽寝朝起の奈良にまし

奈良へ行く人にくれぐれ石の事

鹿のまたくぐつてみかんひろうなり

蜜柑をも鹿へあたらぬやうに投げ

のびをした木魚を釣るす興福寺

墨の出る町には筆もいきている

筆の毛のあるくを墨屋うるさがり

下女のはれ奈良うら墨の肌が見へ

墨にくれ晒に明るならの町

ねむつたい縞柄はなし奈良晒

さらし屋は江戸にいるうち朝寝する

うるさくもさらし蹈分け啼く所

内証で鹿を手杵でおつぱらい

晒屋と墨屋碁をうつ奈良の雨

鹿の背をわけて晒にしみがつき

鹿の背をわけて団扇屋大騒

奈良の風諸国で暑気をしのぐ也

知ったふり団扇の芝は奈良にある

古の都の風を丸くうり

八重桜鹿の昼寝の上へちり

鹿がいさめば花のちる奈良の町

奈良桜一重よけいにほふ也

八重を残して九重を京へひき

奈良の鹿座敷へ来ぬがめつけもの

旧都の名歌八重桜山桜

朝起をしては見に行く八重桜

御所近く匂ふ名所の八重桜

奈良と滋賀都に残る桜也

仏閣も桜も奈良は匂ふなり

うろたへた旅人耳塚奈良できき

遣唐使

六十里ならしにあるくけんとうし

又一里塚かと遣唐使笑い

他人の中を見てきたは遣唐使

はらもちをさんざんにするけんとう使

石と野が出来て手がらなけんとうし使

四五日は帰朝の口にまめができ

遣唐使吹出しそうな勅をうけ

けんとうし後は茶づけをくひたがり

帰朝して一のはなしは蜘の事

遣唐使詩も碁も喰ぬ男也

詩の碁のと言って日本のちえにまけ

遣唐使既に笏にて払う所

蜘の巣にかかつた遣唐使手がら

読めぬ場を蜘蛛先生の引廻し

蝿を取ルやうに唐紙を蜘は飛び

ばたりといふと東海とよみはじめ

東海といふと大王ぎよつとする

唐人の眼には蜘なくよむと見え

東海の道は唐でもくもが知り

百二十字をやみくもに読んで行き

虫の知る事を唐人気がつかず

むづかしさを野馬を台にのせて出し

他人こんじやういりほがな詩をよませ

碁のまけ腹でむたい成る詩を出し

さあ〱どうだええといふとこへ蜘

是で手こらずはと詩を書て出し

しやぐわん〱とやばたいをたたむなり

和蘭陀ならば豆蟹でよむところ

くものふるまいを他人はしらぬ也

遠ひないまん中蜘が差図する

くものはふやうに大臣こじつける

くものあるくのはしらずたまげる

知らんだ文字をときわける蜘の糸

蜘の巣をのけて吉備津の媒払

我朝のきびもろこしで餅につき

仏力で寺の言がつつと読め

妙知力何のくもなく詩をよませ

御すがたは蜘とけしても多イ御手

貞操の腹に碁石のぬすみもの

目を白く黒く一目かくしのみ

東海へわたるも読むもくもの糸

吉備公の帰朝もくもが先へくる

東海を波打ぎはで蜘はきへ

扶桑を向ひて念ずると蜘が出る

詩や船をおもへば蜘も教へ蟲

吉備よくもすら〱〱と読おわり

吉備よくもくもは日本の味方也

蜘手かくなハ書たをづつとよみ

けんたう使妾のみげそツと出し

他人へは蜘としらぬが仏也

よべば蜘行けば風にて手におへず

養老の瀧

養老の瀧下に〱也

養老の瀧へは甘露寺を勅使

養老の勅使翌年袖がかび

勅使の供はまんがちに飲んでみる

天孝心を水にせず酒となし

孝の徳四方の瀧水ほどのめる

養老は実にはかりなき孝の徳

酒の瀧元は孝子の身をしぼり

瀧水をのんでおやじはようろよろ

李白来て見よ我国の美濃の瀧

孝行を水にはなさぬ養老酒

年寄りの冷水でない美濃の瀧

和の孝子鯉も及ばぬ瀧の酒

 

不角法眼に昇進す(宝暦三年の條下参照)

蓮二諸国へ三千化の回文を出す

 

成瀬川の土左衛門は此頃を盛んに経たる力士なり、江戸の方言に溺死の者を土左衛門と言うは成瀬川肥大の者故水死して渾身膨れたるを土左衛門の如しと戯いしが遂に方言になりしと言う

折りよくも土左衛門が来てせがきなり

変生男子女だに土左衛門

身なげのはじまり土左衛門といふ男

身を投てうらは女も男の名

仰向になつて流るる女左衛門

是いかに水に入たを土左衛門

土左衛門の幽霊みんなふくれ面ラ

 

享保八九年頃女子小道具品々現金掛値なし擇り取り十九文に売る見世創る、後には町々辻々にて何品にても置いて売る故に大いに繁盛しけるとぞ、是市中の縁日露店等に於いて日用の雑貨玩弄品の類を値均一に鬻ぐ商人の濫觴なりと言う

十九文見世にいなかが五六人

十九文程はもてない加羅の下駄

十九文べらほうめがとかたつける

だんの浦なんでも後家は十九文

 

露月集(貞和編)・水の友(正秀)

 

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一七二五年      

享保十年乙巳 八歳

 

蘆田鈍永生

小澤蘆庵生

新井白蛾生

 

三月二十六日 市川介十郎助花没年五十七

四月七日 允明齋惺々没年六十一

四月十九日 秋色女没年五十七 大川端東江寺に葬る、大目目氏名はあき、菊后亭と号す、照降町菓子屋某の女、俳諧を其角の門に学ぶ、寒玉(俗称詳ならず)という者の妻となる、十三歳の時上野清水堂のうしろ井の端にある大般若桜をみて「井の端の桜あぶなし酒の酔」といえる句を咏せしが東叡山山門跡の御聴に達し御感に興かりしと言う、辞世「見し夢のさめても色の杜若」といえる句あり

十三の春十七の名を残し

井戸端の桜でお秋名が高し

生酔が来ぬと名のない桜なり

桜より娘あぶない年に詠み

井戸ばたの子は寸にして其気有り

五月十九日 新井白石没年六十九 浅草報恩時中高徳寺に葬る(今墓は郡部に移せり)江戸時代有名の碩学なり

白石は言ふほどの事先手なり

白石は五百手程も先が見へ

六月二十二日 六代古筆了音没年五十二

七月二十日 初代一寸見河東没年四十二 築地西本願寺中成勝寺に葬る、初代河東は江戸日本橋品川町の豪家にして天満屋藤左衛門の男なり、本姓は伊藤、十寸見堂と号す故に以て氏とす、俗俗河部屋藤左衛門と称する故に河東と言う、稟性跌宕不覇にして酒色度なし、遂に産を破りて半太夫梁雲の門に入り浄瑠璃を学びて其の蘰奥を究め後ち半太夫節を和げ式部手品の両節を交えて一風を為す、即ち今の河東節是なり、当時江戸知名の人々は競いて此流儀を賞翫し蜀山人の如きは河東一曲天下無比と讃え、抱一上人の如きも自ら数段を述作なし又常に好みて発声せしと言う、又所謂蔵前の札差連中及び十八大通の人々は最もこれを勤迎したるなり、此頃浅草竹門に住みし俳諧師岩本乾什河東と親しく交わり河東節の文をあまた作れり、竹婦人作とあるは皆乾什が文也(宝暦九年の條下参照)

九月三日 奈良屋茂左衛門没年三十一(或言六十三)新吉原に遊びて豪華を極め紀伊国屋文左衛門と富を競いし人なり

家名からしてなまくらな茂左衛門

婬酒にふけて朝起はせぬ奈良茂

奈良物も五丁町では切れる也

九月十三日 吉田慎齋没年四十九水戸の儒医なり

九月十五日 河曲一峰没年八十五 田泉居萬仙翁と号す、江戸の人

十月十日 一色時棟没年七十六

十二月五日 中村傳八没年四十

 

二月五日 本所割下水 北わり下水、南わり下水と両所にあり、これはむかし此の辺田地の時の用水なりと言う

割下水通り夜中逃げる音

(義士討ち入りの夜を詠みたるなり)

わり下水通りをぞろり〱にげ

三月十四日 青山失火下谷金杉迄延焼す

七月十八日 水野隼人正乱心して大廊下にて毛利主水と格闘し信州松本七万石を没収せらる

十月六日 金判を改造し慶長判に復す、元禄大判通用止む

大判は財布にはいるものでなし

大判を一分に崩す餅むしろ

大判は狭い浮世と思ツて居

大判も禿が見てはにくらしい

大判悪所かよひをせぬたから

これ小判たつた一ト晩居てくれろ

子ぼんのふ小判もたせてこまるなり

大名は小判の中によく寝いり

盃と小判けつしていただかず

内裏造営四分板と小判なり

夢にだに小判は見ぬとたいこいひ

どうするか見ろと小判を子にもたせ

さあ小判ほしかやろうに下女は逃げ

新そばに小判を崩す一さかり

妙薬をあければ中は小判也

田楽で崩す小判はあてがあり

ほうばると何もいはれぬのは小判

小判は口のふたにするかたち也

小判にてのめば居酒も物すごし

切れ小判たいこの智慧で遣いすて

世の中に持つべき物は小判なり

かたみとて見れば小判もあわれ也

逆桐の開帳をするえひすこう

さか桐を下女はほつても取かへず

頭の無いしやうこおふくろさかさ桐

燈籠に生えては苔も小判也

金銀の重さ力で持ぬなり

金の番とろ〱としてうなされる

金ぎんはかわらのごとくいいくらし

金の番伊勢屋の息子よしにする

つかつても溜つても金は面白し

叱ったり笑ったりして金をため

金をためるのがかんつく土手也

女郎買う金をおやじはためてしに

金でさへはたらくもあり寝るも有り

金の有る所をぬきみの下でいひ

金ざいふひろふとつつきおこされる

金持に成ると請合ふ八掛おき

金飛脚状をよむ内どさら出し

いつまでもあると思うな親と金

女房をこわがる奴は金が出来

あの熱で金をかくした人の欲

江戸っ子のうまれぞこなひ金をため

二代目ものろまで金の番をする

またもあるやうに金入仕廻也

親は子のためにかくしてためるなり

金は無いはずひんなりとした男

色白ではなすぢ通り金がなし

母何ンにせうとて古金一歩もち

金をいかして遣ふ客身にならず

庄屋からせんじて呑と一歩かし

文字金なりと回らぬ筆で書キ

子を捨てるやぶへ息子は全エこすて

よし金ゆへにふられんなちからなし

金うなりそうなめらじは角のくら

金がつづかぬと若後家地を稼ぎ

うなるのは啌だが金は物をいい

ふんとしの金とも知らず歯にあてる

美しい顔で銭金づくを云い

百人並みのきりやうだに金をつけ

御たいくついくらか金をきしへすて

あまりぶし上と金持の格子から

槍持と金持使ふものでなし

したく金取ツて行のはふくろ持

子ぶくろをさがしてこいの金を出し

金だけにさわぎあてがふたいこもち

金箱にはひふきのつくとんだとこ

かり金も穴のかかアにほり出され

金かりに白水またぎ〱行

借金をいさぎよくする祭まへ

時借にとよつと五両は大き過ぎ

貸さぬ奴種々物入りを云ひたてる

山吹はどの道貸さぬ色と見へ

蓑よりも山吹のないつらい事

得がたきは金去難きよめを取

金を袂に身を投る恋のふち

書置に金といふ字が十斗リ

象先和尚五百羅漢堂を再建す、 本寺は本所緑町四丁目に在り天恩山羅漢じといい山城宇治の黄蘗山蒐福寺の末派なりなり、元禄年間沙門雲(元京都の仏工九兵衛と云う)の創立に係る後ち中興象先和尚江戸市中の勤化に努むること二十余年享保十年中に本堂の再建なり入仏供養を行う

五ツ目と言へど千ある羅漢の目

五ツ目ははした仏が嫌なり

どうよくに仏を五ツ目でこさえ

五百たいとう〱江戸で御たん生

羅漢寺にもふかるといふ仏なし

羅漢寺萌黄のかやのやうによび

羅漢寺の鶴は夢にも鷹を見ず

羅漢寺は四郎其満の場へ髭を置キ

羅漢寺で如徽に似たと禿泣

羅漢たちに百五十は出合ふなし

恋人に似た顔はなし遣

銭箱のあるが羅漢の組頭

五百から一体ぬけて人にされ

十三日五石のあたまはりまわし

釈尊は施主斗りでも五百人

馬喰町五百の羽音が四十七

天人を一ト組呼べと羅漢洒落

日蓮はかうばしさふな母にあひ

あいらこえであなんと外道先ちやくし

此比より捩りと云うこと流行、字捩り本捻りの二種あり、段々附と略同一なり、其の他五文字等の雑俳流行せり

 

おか玉の木(露露月)・鄙鶴(露月)・上京染(露月)・俳諧清書帳(三以撰)・四時観(石想)四時観は蔵前の札差連中等が稻津祇空を奉じて起りたる一派なり、この派の俳人には祇徳、祇明、心祇、空翠、暁雨等あり・俳諧古紙子(虎角)

 

 

一七二六年      

享保十一年丙午 九歳

 

平秩東作生

僧未角生

勝川春章生

松露庵(三世)鳥明生

 

二月七日 生玉琴風(一世)没年八十八、絮羅架・白鵠堂と号す、大坂の人江戸に住す、辞世「一いきに其味ひぞ春の水」(名人忌辰録に二月五日没す歳五十九とあり)

二月二十三日 宮川松竪没年九十六、名は正行、松亭軒、松亭子子、道阿居士、柹園初め正由と号す、京都の人和歌を能くす、辞世「かり置し地水火風はかへすなり 何も持たねば残念もなし」

三月二十九日 玉菊没年二十五 浅草新堀永見寺に葬る、新吉原角町中萬字屋勘兵衛の遊女諸芸に通ず、この年仲立町俵屋虎文揚屋町松屋八兵衛等議して玉菊追善七月新盆を祭る為仲立町茶屋の軒端に毎戸だんだらすじの提灯をとばし其の闇を照らす、玉菊は日ごろ大酒を好み遂に酒に破られ夭死せるなりと云う(享保十三年の條下参照)

玉菊へ手向煩悩菩提なり

玉菊はあかるくさとへ名をのこし

玉菊の菩提女房の修羅となり

玉菊とたそやあかるく名が残り

玉菊は死んだ跡までとぼされる

玉菊の魂軒へぶらさがり

年年歳歳玉菊は客を呼び

南無玉菊信女さんと初手灯し

信女菩提と燈したが始めなり

去るものはうとく燈籠の細工通

なき魂の祭と見えぬ中の町

追善にとぼすも流石遊女なり

仲の丁精霊も気の張る所

吉原の背中へともす人だかり

狐火を一ト月とほす賑やかさ

一ト曲輪秋来ぬと目にさやかなり

風の前へ日に灯火は消えるなり

面白や燈籠化して雪と成

孝行なつらで燈籠を母にみせ

にくい物見たし燈籠へ女房行き

尤な事と燈籠の女房づれ

おもしろさ燈籠きのふ切て済ミ

廻り燈籠はおいらだと素見物

船頭を待たせ燈籠へ油虫

飲むとこがあると燈籠へ見えをいひ

軒の燈籠二度の月に金が入り

燈籠のあしたまばゆき中の町

燈籠見にぐちな女がぞうろぞろ

燈籠は頭のまつりもにきやかさ

燈籠見物精霊は棚にあげ

燈籠の人を禿はむぐつて出

燈籠に甚だ暗い言訳し

燈籠に娑婆の女の顔はなし

燈籠を恋の部に入る別世界

燈籠の名残りだがのとお針見ず

燈籠の内はしらうとうりもする

燈籠がなくなつてから八ツ着る

燈籠が消えて俄かにさわぐ也

燈籠の伊達も仏の道から出

燈籠見に夫婦と親じ来りたり

燈籠にめつかツたらと見えをいひ

燈籠見る人は戻りに減て出る

燈籠の客は一別以来なり

燈籠で病みついたのは消えやすし

燈籠見に行って女房はうつたまげ

燈籠も茶屋へ行くのはのしをつけ

燈籠と紅葉のあひへ月が出る

燈籠の火に飛で入若盛り

燈籠を出して火に入る虫を待ち

燈籠はきのふけふ又面白し

とうろうの頭は傾城八九なり

とうろうの年から日本をせまくする

いせ嶋で見る燈籠は二の替り

燈籠を買って息子は損をする

とぼる迄西瓜を喰って待っている

燈籠に仏もしらぬ手を尽し

燈籠に後編の出る中の町

今頃は灰になつたと燈籠を見

燈籠が消えて幽霊が現はるる

燈籠のころから君子近付かず

齋日に燈籠へ廻る気のどくさ

蔵の火をとうろうの灯へうつす也

四月十八日 服部半左衛門杜芳没

四月二十日 渡会園女没年七十四 深川霊巌寺塔中雄松院(念仏堂)にその墓あり、岡西惟中の妻初美津女伊勢伊勢の人、夫没後江戸に来り、深川に住し医を業とし禅に参し薙髪して智鏡と号す、辞世「秋の月春の曙見し空は夢か現か南無阿弥陀仏」又発句「曙の空にうつしか阿弥陀仏」

四月二十九日 土肥黙翁没年六十七

六月十二日 山岸半残没年七十三 名は棟重、通称重左衛門、藤堂家の家臣芭蕉の姉聟なり

六月十二日 中江眼山没年七十二

六月三十日 水間沾徳没年六十二 本所柳島法恩寺塔中陽運院に墓あり(一説に浅草田島町請願寺に葬ると)名は友康、通称次郎左衛門、堂、初め友堂、初め友堂、初め友合歓齋後露葉又沾葉と号す、初露言後露沾門、江戸沾門、江戸の人沾徳は江戸座の開祝にして所謂江戸座俳諧なるものは其角沾徳より起る、又書を能くし點印に代るに書を以てし朱墨両點を加うる茲に始まる

八月二十八日 千宗安泰叟没年三十三

十月二十日 栗崎道有没年六十三

十一月七日 柳川晋風没年不詳

十二月十二日 市川子団次花薫没年五十一

穂積以貫伊助没 播磨の人、東涯門大坂に住し医を業とす、放覊不拘の人なり

里村昌億没年六十七

 

三月二十七日 吉宗小金原に狩す

和蘭人ケイヅル馭法を伝う、後物を賜うて賞せらる

俗にわからぬ馬の寸針の寸

後足を団扇に遣う夏の馬

小針から大金になる馬が出る

名乗うち馬はしばらく息をつぎ

あと乗りの馬は尾ばかりふつている

中井秋尾庵大坂に懐徳書院を建つ

本年より十七年迄深川十万坪にて銭を鋳る

銭のある顔をして居る松の内

銭なしの癖にいつでもざいをふり

銭なしの長寿の相は困る也

銭もあるまいにとむごい礼をいひ

銭がなくなつていひんへこころざし

銭うりとさしうりきつい逢ひ也

銭の無い非番はまどへ顔を出し

銭買ふと禿はかりをなしに行き

銭ツきりあそびなと竹光をとり

銭だけにつきやしらげをいとふ也

銭ついて残り一文碁の手つき

銭てさへ丸くいかぬははね出され

市過は銭の入る事とろつぴやう

草市につるべた銭はとらぬ也

おがんだら直に帰れと銭をやり

百の銭むこつかひ道いひたてる

義につよいやつにかぎつて銭がなし

うららかさしきりに銭がほしくなり

ごうはらさ銭を払うと天気なり

子母銭をさい布で日々に取りに来る

品定めとは銭いくら米いくら

さむらいをまねても春は銭に成り

からおやの前へぜにばこもつて来る

かねを木にしたらは銭をぐつと下げ

一ね入りしてもやつぱり銭の音

ぬれた銭握ってちやア〱よしかな

しやうりやうもこつさに銭の懸るもの

みす紙に国府銭ぎりくんなんし

御真筆つまる所は銭の事

五六町銭屋をたたく戻り駕

清水は費えな銭にたとへられ

急ぐのは渡しの銭を握りつめ

下げ銭で梅や柳の下を行き

まどへ手を出してつばなの銭を取

陶朱公見切つて銭をつなぐ也

青銅拾疋めしも喰い酒ものみ

四文づつついては女房おして見る

一文だこはかけて居る内ばかり

風鈴の下に一文世を遁れ

銭車相場きかれてあせをふき

銭車をんなを見てもしずかなり

銭車若衆が一ト人まじるなり

銭車あとを押すのが首へかけ

銭車出見世の餅を引いて行き

めつそうにおすまいぞやと銭車

なまぬるい鉢巻をする銭車

お願のん申しますと銭車

よく廻る人が押させる銭車

加賀千代夫に袂る、時に年二十五「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」(安永四年の條下参照)

椎本麻呂江戸に下る

芭蕉翁三三十三回忌、洛東東双林寺にて萬句興行支考之を管す

名の高ひはせをはつたの中を出る

替りもの蔦の中から芭蕉出る

藤をすて芭蕉で広く名を残し

句達者な辞世枯野をかけめぐり

こけむして碑銘のひかるばせを塚

日ノ本に根分の多きはせを塚

ご主人の床に冥加な芭蕉の画

床の間の古池ほめる身もかはづ

干店へ飛込んで買う芭蕉の句

翁の句経師が皺をのして居る

古池のそばでばせをはびくりする

蛙とぶ池はふかみの打句なり

ばせを翁ぽちやんといふと立留り

音のした池へ翁のかげうつり

古池のぽちやんが末世まで響き

古池は世界へ響く水の音

古池へ礫打込む水の音

聞捨にせぬ古池の水の音

一ツづつ蛙をしまふ池のをと

ぬかるみへすけん飛込む水のおと

はな紙へ蛙だきつくうばが池

もんもうな蛙はまじり〱出る

芭蕉はとび込み道風は飛あがり

飛付は悟り飛込は世にひびき

いざさらば居酒屋のある所まで

いざさらば花見にのめる所まで

子は炬燵親仁はころぶところまで

居酒屋の柱は馬に喰はれけり

煮うり屋の柱は馬に喰はれけり

川端の小ぞうあたまをはられけり

見はぐつて名句となりしほとときす

闇の夜は何か鳴たかほとときす

一ト声は唯有明の月ばかり

一ト声は星が啼いたか晦日の夜

一ト声でわれも〱と顔を出し

杜鵑さやうならばと啼いたやう

いい月を置去にする杜鵑

迎向て冴た顔だと月を誉め

ほととぎす弓張月に矢の如し

ほととぎす有明炭○残つてる

はせを庵やふれかふれの人は来ず

 

鳥山彦(沾涼)・おくの近道(一鼠)・八鳥(野坡)・花花拾遣(信安)・六の花(以人)

 

 

一七二七年      

享保十二年丁未 十歳

 

韓天壽生

高桑闌更生

飯島吐月生

小菅寶鳥生

河合来々生

野菊女生

岸文調(一筆齋)生、末摘花第二編の挿絵を描く

 

正月二十七日 松永土齋没年六十六、名は勝春、字は文館、俳諧舎堂、雷堂、初茅風と堂、初茅風と号す、江戸小田原町の漁商なり、辞世「死んでおいて涼しき月を見るぞかし」

六月十日 中嶋弧山没年七十

七月二十三日 元祖市野川彦四郎没年四十九

九月十八日 後藤艮山没年七十五

九月三十日 伊藤儀好義齋没年五十九

十二月十四日 桂風没年四十九(或云八十三、五十二)豊島氏、又志村氏、通称平次右衛門、有紀堂初才尾と号す、初才麿後嵐雷門、江戸初才麿後嵐雷門、江戸の人、儒を以て業とす

釜師定林没月日不詳

 

本年正月芝居町三笠附を為せしを為せしとて冬より春に至るまでいっ丁戸〆に仰付らる

菊岡沾涼 万句をっ湯島社に興行す

隅田川梅若塚七百五十年忌開帳

梅若は二月のすえに京をたち

梅若は戸塚で喰ったままといふ

梅若は旅陰間にはいやといふ

千住から馬にしやうと惣たいひ

三囲のあたりからもう撲ちのぬし

惨らしい所もあづまの名所なり

人買の無駄骨江戸の名所なり

迷い子の塚で名所が一つ殖え

梅若の四十九日は柏餅

二十一日梅若へ塚を建て

見れば見渡すで梅若やめになり

あまい酢で梅若をまたは母くひ

梅若へ行くとは啌もしゆしやうなり

梅若へ行くのはうそでよしにする

梅若の地代は宵にさだまらず

梅若は向ひも柳ばしへよび

梅若は爰でおがめと堀へ付け

梅若で口のすくなる程すすめ

梅若は死んだ頭でもよく売られ

梅若で今日のきやうけん大あたり

むめ若をよしにしたので大不是尾

やほな事まあ梅若へつけろなり

梅若は手のこつぷうをもつてしに

梅若やいい売りものと女房読

一家中ウ梅若どこでないといひ

口をすくさせて梅若から別れ

おととひの梅若今朝のつかみ合い

ぶちころされに命日を買て出ル

ぶちころされた命日に息子行き

吉田小僧の命日に息子行き

あわれさは塚になつても度々売ラれ

あさ帰り梅わか丸を親仁ぶち

梅若の戻りに聞イたみけん疵

よし原を大念仏ですすめこみ

梅柳山はざつとして渡るなり

山号は息子寺号は母を入れ

当意即妙は木母寺の山号

木母寺の十六日は愚に返り

父が迷へば木父寺といふ所

何かすすめて木母寺の門を出ル

十五日梅若の方かき曇り

一年と渡し掛け合ふ十五日

二た樽の酒屋も見える十五日

気のはれた仏事三月十五日

梅若丸と仮の名で内を出る

かね太鼓打ツて吉田の辺朝ね

飛ぶ蛙鏡の池を曇らせる

「付記」墨田の渡、墨堤の花、其の他隅田川の両岸所見

角田川所の人はかもめなり

水鳥に二ツ名のあるすみた川

鳥の名を二つに分る渡し守

渡し守今はさくらの物語

気はありやなしやとす引く角田川

二分ありやなしやと地下の角田川

常の日は渡し守さへありやなし

都鳥どらの伝授をうける所

船頭は無雅に教へる都鳥

鳥の名もかはり息子の気もかはり

猪牙の足元からにげる都鳥

とにかくも先づ渡しには乗り給へ

お前がたいい相読と渡し守

引ずつて来るとにこ〱渡し守

どつと笑はれ渡し場で聟別れ

渡し場の意趣だとす引ぐ花の暮

花の暮身に付いて皆かう参れ

なんにせへ向ふへ越せと角田川

おおいてへ行くよ〱と角田川

泣き出すは放してやれと角田川

女房から先きへかどわす角田川

みなおれが悪だはええと角田川

あんおんにかへしはせぬと角田川

回向する気の人は来ぬ隅田川

めんだうなひつたてろへと角田川

帰りには人買になる隅田川

けちな音を出すなとそびく角田川

帰りやるかきついやつだと角田川

いい年で然らばといふ隅田川

一度いつたらいいはなと角田川

今以て行コかもどろか角田川

今以て気ちがいのくる隅田川

われ獨りさめてさまよふすみた川

気ちがいのそれから絶えぬ角田川

御目出たうござると誘ふ角田川

一つ着てもうよからうと角田川

梅から梅へわたる角田川

落着はいかん〱と隅田川

白魚の子に迷ふ頃角田川

内の事アぐつと流せと角田川

深川へ漕げとは飛んだ角田川

あくる年雨具の届く角田川

舟中で遥拝をする角田川

有りやなしやと振て見る角田川

かかあ持一人住めりと角田川

柳売りどこだと聞けば角田川

宿引きのやうに遣手の角田川

女房がよめば手紙もつの田川

白川の水の流れは隅田川

鯉と恋仲をへだてる隅田川

すみた川妻イが〱とけちなやつ

すみた川もふ菅笠の事をいふ

角田川連が悪いとかどはかし

角田川煙菅をはたきサアどうだ

角田川よき泊り家の候なり

角田川向ふに思ふ人があり

角田川二十二三の子を尋ね

角田川帰は梯子のぼるなり

角田川品によつたらおそいとこ

角田川今でも母に苦をかける

隅田川母に苦労をかける所

すみた川今もあゆめといふところ

角田川とかくに親の迷うとこ

角田川我思う子は向ふなり

角田川聟ないはせぞ引き立てろ

角田川口ツぱたきだ逃すなよ

角田川娑婆は歌だといふ所

角田川までにあれこれやつとまき

角田川二度とはうれぬ名所なり

角田川情がこわいと捨てられる

角田川筆やも一首詠みたがり

角田川向ふの人は聟斗

角田川一ツ着て出て大あたり

角田川あゆめ〱と酔い倒れ

角田川迄はよさうと二三人

角田川母かたつねるからと逃げ

角田川向ふで喰ふとひだるがり

隅田川からくりやしれし御事さ

角田川これから聟の道はなし

なんといい角田川かと土手でいひ

詫び言が角田川じゃともう洒落る

さアきめろ〱と隅田の七ツ過

誘ふ水有て角田を渡る也

内の雪隠へ隅田から聟帰り

其気では来ぬといひ〱引きずられ

聟一人向ふの土手を帰るなり

じねんじやうけちな花見をあてに焼き

花の枝持つが男の物狂ひ

隅田の景でんがく串であいさつし

梅見頃墨田の出茶屋も有やなし

花に背をむけて団扇を食って居る

遠景の供はだんごを持ってかけ

そろばんをひかへたやうな団子茶屋

花よりも団子のいやな所なり

花よりはだんごのどらが大きすぎ

花なら花遊びなら遊びとさ

花でつき合せ居だとそびき出し

花を見捨てるとうたひで聟帰り

一口に五六人うる花の暮

下戸ならぬ男に困る花の暮

大きなだだつ子を引ツ張る花のくれ

花の暮身について皆から乗れ

生酔を家土産にする花の暮

花のくれやれどけいこうこけいこう

隅田川ありやと問はん安酒屋

滕や手をはたいて翁かへるなり

弟子は夏師匠は冬の向島

ころばすは翁の雪見はてがなし

川の名を銚子へ入れる雪見船

雪見船いらざる下戸のまじり事

雪見とは下戸の宗旨に無い図なり

雪見とはあまり利口の沙汰でなし

どつこいといい〱芭蕉弐三丁

下駄をうつちやつてばせをハ帰る也

雪見にはうつてつけたが芸者なり

雪見とは馬鹿〱しいと信濃者

雪を見に行かば女房の無い所

雪を見に鼻ツたらしが二三人

鼻緒の切レた所から翁帰り

雪見には馬鹿と気のつく所まで

雪見の供はもつともなこごとなり

雪の供こいつがなんのしやれだろう

ああら面白からずの雪の供

此雪に内に居るかとそやすなり

けふはいい寝日だと雪をむごくする

こりはてて男へもどす雪こかし

馬鹿めらと雪見のあとに飲んでいる

初雪や出たがるやつと女房よみ

さあ雪だ出たくなつたと女房いひ

さあ面モが白くなつたと蓑で出る

此雪に馬鹿者ともの足の痕

加賀蓑で息子は飛んで散乱し

さてわるいものがとそびき出しに出る

おらが方降らぬと雪の不約束

雪の中三本半でそびき出し

雪の朝角田川からいひ立てる

雪こがし遣手の叱るところまで

下駄の雪田町の家根へけとばされ

多田のやすし迄はいせや連れに成り

只で無いやくしと女房見ぬいたり

下戸向の神さま牛の御前なり

牛の御前様だとかけぬける也

牛の御前でのろついて息子行き

初午に丑の御前はいいついで

牛の御前はきらづかと大たわけ

牛の御前をきらずの事とおもひ

夕立と雪見の間に紅葉道

紅葉道木の葉天狗は団子なり

狐から上り天狗で日を暮らし

いろは程あるのをこすと秋葉なり

船頭へ飲めと秋葉へ上りしな

あがられやせんと秋葉で芸者いひ

秋葉から川へ三味線取りにやり

秋葉から天狗がついて川をこし

大一座後陣未だ秋葉に居

秋葉からあるいて帰るわるい風

秋葉からかへりに太郎坊へ寄り

三尺坊の入口に太郎坊

むかふ島牛のしつぽにしろい髭

年寄りは皆白髭でまくつもり

まくことがならぬで息子行きはぐれ

聟をおさへて白髭で一分かり

白髭の辺から持病再発し

白髭で年をかへり見別れたり

白髭は年寄をまく社なり

白髭へ駈つこんだのも八九人

白髭だから隣りには長命寺

長命をこしたしたんめいなつかへ行き

桜から桜へこけるおもしろさ

道をかへ帰るものだと引きずられ

太郎からべら棒になり川を越し

太郎から大回りするわるい風

鯉のあつものを喰って聟わかれ

遣桜とはもう〱いやと引きたてる

鯉の看板書いて出す向島

入聟のつらさ花なら花つきり

花を見すてると謠で聟かへり

せめて向ふの嶋迄と聟あはれ

枯野見に一分あまして持てあまし

もふ嘘も息子枯野に及ぶなり

団子をくったは爰らだと枯野見る

世を捨た目には彼のも一景色

隅田川両岸の歌枕は在平業平の伊勢物語に始まるの因みにより業平に関する柳句を次に掲出する

まめ男衣冠正しく不埒をし

性わるは阿保親王の五男なり

かわいい子阿保親王旅をさせ

金を使わぬどら者は業平なり

色事にかけてはまめな男なり

齋宮の神代も聞かぬ不埒者

業平は金を使ったどらでなし

業平の惜しい事には地色なり

業平の時分金には惚人なし

業平の昼寝は大分あてがあり

業平のかさをかかぬも不思議なり

業平に恋さいそくが五六人

業平にされたははぢにならぬ也

業平はとある木かげの元祖なり

業平はよからしもない婆アと寝

業平の二十五の年ばばあほれ

業平は天の與ふるものを取り

業平はつひに口説た事はなし

業平はどらでもしなと度々いはれ

業平は高位高官下女小あま

業平と喜撰秤と枡でうり

業平も親の前では矢大臣

業平に年寄の朝臣意見する

歌とするここにおはれると在五云イ

おくら子迄もゆるさぬは在五也

業平のどうらくはなし本に出来

京をくらつて業平歌枕

神託がすむと業平まかり出で

小町業平四歌仙の目をしのび

萬歳や才蔵業平を感じ

芥川能登鯖といふ御すがた

芥川鍋取りめがと追つかける

芥川草をわけての詮議なり

芥川どつちへも逃げる形リでなし

芥川越しても先きに当てはなし

あくた川麦ばたけ迄しよつて行き

芥川ほんのあははの三太郎

芥川神代もきかぬふらちなり

いしきをなでちやあいやよと芥川

神代にも聞かぬ密夫芥川

やわ〱と重みのかかる芥川

下げ髪へ芒のからむ芥川

折ったのは三河しょったのは芥川

二条通りを白丁の追人かけ

烏帽子着た川越しを見る芥川

行き当りばつたりと出る芥川

恋の重荷を背負てゆく芥川

あれさつめらせたまひそと芥川

二条通りを真直にしよつて逃

地下は引ツかつき公家衆はおふひ出し

何しきをなでちやあいやよと芥川

関白が追手に走る芥川

二ア人に足跡一人芥川

追人をも二条通りへおもに出し

屏の破ブレから来なよと后いひ

心中であらうと芥川でいひ

あてもなく二条通リをおぶひ出し

どこへ行く気だか二条を逃げは逃げ

連れて逃げなよと二条の后いひ

かし元トのずるいきさきは二条也

二条どの御用とをつて下るなり

出は出たが二条の后立ちのまま

御后を芥の中でさがし出し

足弱をまめな男が連れて逃げ

ぶらつきを棹で招いた渡し守

見かけより二条の后気がふとし

笏はわたしに持たせなとおぶつさり

先ず笏はおぶふ邪魔だと腰へさし

すそつぱりめがと有常息を切り

春日の里の狩人はいいおとこ

すそはりの女春日の里に住み

ありつねはあぶない遊所といふ

いい男井戸のむこふにいい女

有常もあぶなく思ふ遊ひ処

有常が娘きれいな悋気なり

取膳の時も業平筒井筒

莟ミ朝顔おつ付る筒井筒

とちぎりとうたつて井筒しかられる

つつ井筒ひやした瓜をのぞいてる

井戸端に茶碗のいはれくらべこし

在る井戸を置いて河内の水を汲み

高安へ通ふたんびに井戸の水

井戸端の子は寸にして其気あり

井戸の向ふが有常卿の内

三ツ子のたましい百までつつ井筒

井戸端の茶碗有常油断なり

昔男ありぼろを買ったとさ

河内まですきには夜半に身をやつし

夜半にやと許す所に意味があり

夜半に君ひとり行くらん盗くひ

夜半には君がそつと着る河内縞

きげんよく河内通の頭巾ぬひ

風吹けばとて又一つ着せてやり

まめやかな足白波とよみてとめ

風吹けば以後内々で昼間行き

白波の歌からやんだ盗ぐひ

歌垣に河内通を結ひきらせ

立聞きをせぬと一首はすたるとこ

わる井戸を置て河内の水を汲み

在る井戸を置て河内の水をくみ

さし込んだ癪をおさへて風吹けば

らんどめも知らず河内の疂算

手盛の飯に河内女はあきられる

昼行けばかまはぬ歌は立田川

顔にもみじもてらさずに立田川

色男歌仙と百で花もみじ

御夫婦の名歌立田の山と川

紅は夫白波妻がよみ

道草に二十一文字たして折り

吾妻下りの絵旅装束でなし

かきつばたけ高いざいごものが折り

中将の道草に折るかきつばた

敷しまの道草に折るかきつばた

横に五たひうなつくと杜若

吾妻下りで名の高い花になり

たての歌横にして見りやかきつばた

かきつばた四字と六字の上に置き

折らずにおくと名所にはならぬ也

かきつばた成程かきつばた

指ビ折の歌を業平一首よみ

杜若さつそく知レぬように折り

心なくよめばかきつばたではなし

旅がけにしては折目正しい歌

旅だけに邪魔にならないやうに折り

かきつばた二十六字に骨を折り

旅をおしんだふりをして杜若

指ビおりの歌といふのは杜若

かきつばたいたづら者がおつぺしより

地下人が五つに折るとごみになり

地下人はうでぶしで折るかきつばた

かきつばたどこか思ひの外はまり

かきつばた歌人はちぎり〱よみ

狩人の細工とみへぬかきつばた

かきつばたいたまぬように公家は折り

かきつばた橋も折句のやうにかけ

河数に五つよけいな橋をかけ

かきつばたとつたらあとはうしろ厄

杜若ちやらくら者が折ておき

しろうとが折とふくれるかきつばた

二人とは仕立手のないかきつばた

旅日記八日目に付くかきつばた

鎌よりは草に折られるかきつばた

花の名を折句にたたむから衣

狩衣をこまいの竹で度々破り

八ツ橋をしてうにかけるかきつばた

二人とはした事のないから衣

業平もこし弁当でから衣

在五にはちとみやびたるから衣

在五中将の晴着はから衣

名高さは五色にもれた唐衣

ちつとおひろひ遊ハせと在五いい

姫は蓮公家はかきつををつて見せ

から衣縫ひ目〱に骨を折り

手で折ると打のめされるかきつばた

手もつけずに折るはけ高いかきつばた

手で折ると末世残らぬかきつばた

姫は蓮公家は杜若を折て見せ

今のあづま下りはわつこりと金

公家二人舟と旅とをおしむなり

切る指と折る指梅とかきつばた

指は八ツ折れば五ツの杜若

色男あつまに貝の名を残し

萬歳の子に道をきくかきつばた

喜撰は秤業平は神で買

弟は江戸へ逃げたと須磨でいひ

兄は腰蓑弟は緋の袴

見た事もなく業平のやうと誉め

うるささに吾妻へくれば又ほれる

どらな子を阿保親王は二人持ち

口説とは無理な事じやと在五いい

業平の兄中納言在原行平が須磨に流謫中の徒然に松風村雨という姉妹を寵して艶名を伝えたる情史川柳を爰に付載す

須磨の浦配所にしては意気なとこ

配所でもいきな所は須磨の浦

配所でも須磨はいきまな所也

両方へわけて寝るから中納言

姉妹の中へ寝るから中納言

腰蓑のあたりを抓る中納言

面白く汐をふんたは中納言

面白く雨風にあふ中納言

雨風とほれわけてねる中納言

両方へ尻目を遣ふ中納言

赤穂じゃの行徳じゃのと中納言

気ほうじに須磨寺にくる中納言

関守に見知られて居る中納言

中納言別れの時は立ちのまま

中納言ひよどり越をふだん見る

中納言五風十雨としやれてよび

中納言名ある女性を二人占め

行平は五風十雨に痩せがつき

五日目と十日目須磨で御寵愛

月の名所で雨風を御寵愛

五日目に一度片側は嬉がり

夜来雨風で行平御つかれ

只居やうよりはと行平思い付き

村雨を相談づくで先へ寝せ

波の花ふきぶりて汲むおもしろさ

雨風で行平須磨をたちかねる

物言をきけば汐くむをんな也

松風に鈴の音かよふ御中よし

行平を十五日づついとしがり

松風へはかり一首の立わかれ

村雨がぬれりや松風外を吹

姉たけに十 の方にふだん成

行平は五風十雨ときめたろう

行平のミとせハ爰に磯せせり

行平斗面白く塩をふみ

浪の花ふきぶりて汲むおもしろさ

松風かふくと村雨一トしさく

行平は潮仕立の口も吸ひ

あへにくと両方へ出る須磨の月

よく腰骨がつづくぞと須磨の蜑

汐汲はころんだばかり損はなし

雨風にるれ明したる須磨の浦

雨風で須磨の出船は手間がとれ

帰洛した夜も雨風が耳につき

勅免のあとに女と千鳥啼く

御帰洛は勅免がなくて雲の上

雨ふり風間おもひ出す御帰洛後

行平の噂はたつた二タ人なり

行平も松ヶ丘ほと居て帰り

行さんよ業さんよふと二人リ泣

舎弟めはやたらだと松風へいい

あら心なの村雨やなはだしなり

素天窓で行平帰洛したとみへ

焼イたのは大臣汲んだは中納言

中納言もそつと居るとこしがぬけ

行平は塩物迄も喰ちらし

行平とおんなじやうに嫁帰り

行平も松ヶ丘ほど居て帰り

松風村の雨とよみわらはれる

古ひ中納言ゆふれいにはならず

十二月七日日本橋新材木町白子屋正三郎聟養子又四郎妻くま(二十三)手代忠八(三十七)と密通して聟養子又四郎を殺害せんとせし事現われ、町中引き回し浅草に於いて獄門行われる、後四十九年目の安永四年九月二十五日江戸浄瑠璃作者松貫四、吉田角丸の作恋娘昔八丈出でしよりお駒才三の名は天下に高まりたるなり、この院本を記述せるもの蜀山人の阿姑麻伝なり

夕菜師などとお熊はぬつて出る

お熊が親父腹帯をせず生れ

反物にお熊一反けちをつけ

くら闇でお駒とお駒突当り

軽くいつても八丈がものはあり

お熊以後とび八丈が売レ出し

下女が晴れ何ぞと言へば黄八丈

客も小袖を着る事なら八丈

もり久のかくにはいかぬ黄八丈

江戸中の質の流れる黄八丈

本年春黄鸝園里紅加賀能登越中を行脚

小笠原貞頼の孫某官に請いて小笠原島を探らんと出立遂に帰らず

木挽町委ケ原に馬場を設く

乗り習い一人で馬場をおつふさぎ

乗るものでないと馬場からびつこ出る

苅豆の中から馬は顔を出し

放れる苅豆屋にて押へたり

(苅豆屋は馬喰町の有名なる旅籠屋なり

はなれ馬ふくろ町からひいてでる

 

落穂集成る、知足軒友山編時に年八十九なりと言う

 

和漢文藻(支考)・桃の首途(支考)・種瓢集(首途(支考)・種考)・種瓢集(来川)・宮遷集(露月)・闇の梅(露月)・しか聞(雲鼓)

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