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「川柳書籍の様式」

「やない筥」「川傍柳」「玉柳」「藐姑柳」「柳籠裏」

 

 

「誹風柳樽」以外の柳書に対し、岩本君は「やない筥」「川傍柳」「桜鯛」等に収められた句は柳樽に収められなかった句を集めたものか、それとも万句合以外に亦別会を開いて特殊の万句合を作り、それを土台にして書物を作り上げたものか、其辺は何うしても材料不足で研める事ができぬと云って居られるが、此の事は今日では明白に分かっているのである。

即ち「柳筥」「川傍柳」等に収めた句は、万句合(暦摺)以外に或る特定の一団連が、万句合興行の無い期間に於いて月次会を開き川柳翁に撰評を乞うて入選したものを、別に特殊の万句合を作らずに其の選句全部を以て編成し且板行したものである。

而して「是等柳書の句と柳樽の句とを対照して価値を衡ると、何うも柳樽の方が良い」と言う岩本君の説は、如何にも其の通り予も同感であって、柳樽の方が少しどころか大いに勝って居る。他の一方は柳樽より劣って居るのみか玉石混淆の嫌がある。併し夫れには斯うした必至的事情があったろうと思われる。

一方柳樽は万句合いう大寄せ会の選句中より、仮令其の選者が呉綾軒可有輩なりと再び絹篩に掛けて精選した佳句を以て満たされて居るのに反し、他の一方柳書は単に一団連丈の主催に成る小寄せの月次回選句に止まるのであるから、比較的見劣りのするのは寧ろ当然ではあるまいか。故に岩本君の所謂別働体の柳書なるものは、価値の上から見ればそれ程尊重すべき内容を具したものでは無く唯柳界稀有の珍本と見るべきのみである。

又岩本君は未見の書と自由しているに拘わらず、「櫻鯛」を天明柳壇の別働体に挙げ「やない筥」「川傍柳」と同一視して居らるるは,如何した譯か甚だ不審の至りである。予の寡聞にして、且短見なる未だ嘗初代川柳評に成る「桜鯛」いう柳書あることをしらぬのである。岩本君は何か拠るところが有っての説と思われるが、詮索多年寧日無しと雖も未だ此の珍客に邂逅せざるを予は遺憾とするものである。若夫或は柳樽後摺本の表紙裏に附載してある「俳風桜鯛」の出版広告を見て、岩本君が之を初代川柳選の柳書なりと速断せられた誤解ではあるまいか。万一此処に胚胎した憶測で有るとすればそれは大いなる謬見で、此の「俳風桜鯛」という本は水魚洞(名古屋の藩医柴田承慶の雅名、又龍の屋海城という狂歌號あり)選評にて名古屋伏見町七丁目一間堂を会林とし当地の呉竹連が出版したもので、文政六年十一月其の初編を同七年春二編を発行せる川柳点と没交渉な柳書であって、大した価値のあるのでもなく亦別に珍本でも何でも無いのである。

 

作者の分布観

天明柳壇の作者の分布観及び天明柳壇にありては、決して同党伐異とか排他主義とか云った風な傾向は無かったといへる岩本君の説は大体予も同感であるが、併しながら此の時代には露丸、黛山、机鳥、東月、収月なんどいへる前句付判者が各一方に割拠して門戸を張り、川柳と同じく万句合を興行しつつあった結果、それぞれ所属の会林及定連あり自然的勢力範囲が劃立された形跡も有ったが、選評の一隻眼を具えて居た川柳は、遂に争覇戦の優勝者と成ったものであるという史実を閉却してはならないのである。尤も中には各判者共通の会林もあり同時に数名の判者へ同一句を持ち込むのも勝手次第と云った風であったから、柳樽に収められた句が他の判者の万句合(暦摺)中に散見するのは珍しからぬ事である。さあれ井上剣花坊君が偶ま露丸評や幸々評の万句合(歴史)中に柳樽と同一句の有るのを見て、「俳風柳樽」に呉綾軒可有の拾った句は川柳点ばかりで無く露丸点からも幸々点からも拾っている、その他の万句合からも無論拾ったに相違ないなどと其の著「川柳を作る人に」中に公言されたのは謬見誤解の甚だしきもので、流石剣花坊君の言弁として余りに不謹慎と言わざるを得ないのである。

何となれば露丸評幸々評にある柳樽と同一句は、其の柳樽の原本たる川柳評万句合(暦摺)中に収められた句であるが故である。

兎に角川柳と各判者との関係は上記の如く相錯綜せる所もあり各選評の優劣を比較する上に於いても、川柳の同時代に於ける前句附判者の選句を研究せるは最も興味あり且有益なる事と思う故に、予は目下柳書研究の側ら、先づ誹風柳樽十八編の巻首に列記しある万句合各判者の選句を、比較研究の資材たらしむべく「川柳時代前句附選、一名俳風外方(トサマ)柳」なるものを編纂中であるが、他日機会を得て之を公表するつもりである。

 

天明柳書編輯の様式

別働体たる処の「やない筥」でも「川傍柳」でも、皆八月の秋期を以て毎編を公刊している。是は何故に然るかを知ることは出来ぬと岩本君は疑いを存して居らるるが、これは前項に記述せる如く万句合公刊の無い期間に於いて、或る特定の一団連が開催した月次会の句選たるが故に外ならぬのである。

川柳の前句附万句合の興行は、毎年八月(陰暦)から十一月まで四ケ月間毎月三回宛て開巻興行するを常例としたものだが、月次会は常例の大会興行の無い期間即ち正月から七月までの時期を利用して毎月開会し、其の月次入選の句は納会の七月中に取り纏め直に出版したのであるから、其の興行は恰も八九月の秋期に一定せるものの如くに成ったのである。そして其の編輯の点に於いて別働体たる柳書に一々作者名を記して居るのは、会員本位の月次集で作句者の表徳が出句の当初より判明して居り、且其の表徳を摺巻に明記するのは月次小寄せ会の唯一の目的なるが故である。之に反し柳樽が作者名を毎句に記入せぬのは、柳樽は万句合(暦摺)より佳句を書き抜いたもので、其の万句合には連名のみあって作句者の表徳が記入して無いのだから、如何に其の作者名を記入しようとしても之を記入することが到底出来得ないのである。是両者の形式の異なる所以で、素より当然の帰結何等怪しむに足らぬのである。

其の編輯上の比較に於いて、別働体の方が余程丁寧緻密な編輯をして居るに反し、柳樽の方が万事手軽な観があるのは、一方の柳書は会員本位で作句者へ配本するのが主なる目的なのに反し、他の柳樽の方は販売せんが為に編輯し版行したもので当初より営利の目的が含まれてあったからである。岩本君は其の理由として二つを挙げられたが、出版費を省くためと云うは肯綮に中つて居ろうが、他の編輯者の私見と云うはあたらない。全く岩本君の憶測と言うべきである。

因みに川柳評万句合のの興行は、前記の如く毎年八月(陰暦)から十一月まで四ケ月間毎月三回宛て(五の日)開巻するを常例としたが、他に神社仏閣等の奉額万句合が随時興行されたもので、これ等奉納句会の秀句高点は「誹風柳樽」三十一編に収められ、又同書三十編の選句は初代川柳評に係るもので、其の内容の価値は別働体たる柳書以上に優秀なるものであるのだが、世の川柳家の多くは「誹風柳樽」初編から二十四編の尊重すべきを知って、同一価値ある三十編及び三十一編の両書を閉却して居るのは甚だ謂われ無いことと思うから一言注意を喚起して置くのである。

 

川傍柳其の他の書

天明柳壇の別働体として岩本君は「やない筥」「川傍柳」「桜鯛」の三書を挙げられたことは上来記述せる如くであるが、予は岩本君説に反し其の三書中より「桜鯛」の一書を除却し、之に「玉柳」「藐姑柳」及び「柳籠裏」の三書を加えて之を天明柳壇の五珍書と称せんと欲するものである。

他に「末摘花」いう奇抜な柳書もあるが、そは同日に談ずべき限りにあらずと思うから之を取除くこととした。

「川傍柳」の内容に就いては、花岡百樹君が「青柳」第四巻五号に詳記せられ、岩本君も「川柳文学」第一輯に記す所があった故之を省略して、予は其の遺漏の点を補足するつもりである。

本書の編数は四編の奥付等に依って見れば天明三卯年に五編を出版されたものと信ずべき理由があるから、其の五編は予の未見に属するのだが五編物として研究の歩を進めて居るのである。

而して初篇二編四編の事は花岡、岩本両君が其の要項を抜記している故、爰には三編に就いて記してみよう。

三編の首めには四方赤良が假名交の序文と朱樂菅江が漢文の序とがあり、他の各編同様蘭香の戯墨に成る柳と川の画題もある。即ち

   川傍柳三編序

前句の由て来る事、久しかりけり〱と、題にもたれし句作りハ、さらりと柳に流せしより、その川傍の柳陰、しばしかほどにしげりあひて、一木ふた木とちりばめし、四季のながめに赤澤山、しいの木三編こだてに取て、多くの人のあいた口に、ぴんとおろせし定連の句々、見るもの腮のかきがねをはづし、きくものおちつく臍村を、高がへしたるためし多し、詩は平反の四反のと、尿に行よりむづかしく、和歌ハ手爾於葉うちからし、なんでもよしにせいのことは、連歌ハ毒立さり嫌ひ、俳諧ハ猶気なし発句、侍る〱の前書もうるさし、今の世にあたりて、天神を動かし紀文を感じ、相模女の中をやハらけ、たけきもののふ浅黄うら、心おやハらぎやつといふ、うぶ子はふ子にいたるまで、いづれか前句をめてさらめやハ

あめあきらけき初のとし葉月の此四方赤良のミかけ山のふもとにしるす

 

  序          

以余観於川柳氏俳歌、始庶詩之風乎、此以風化彼、彼以風化此、盖其情動於中、而其意形於外、或奸夫以五両贖罪、或歌妓過三十画眉、二十軒茶店、風生両腋、百銭勾欄、「汗濕全身、狡兒獣交相女、浮屠魚服軒岐、是皆淫行語、而類鄭衛聲、雖然、言之者自樂、聞之者絶倒、苟揮其薀奥、足以為戒哉

 天明改元仲秋    朱樂菅江

注(檉風原文には、一二点、レ点あり)

とある。  其の他会心の句を抜粋して見ようかと思ったが今回は之を省略することとした。

 

朱樂菅江の訓ミの事に就いて、岩本君は「注意して置くが朱樂菅江は「アツケラカンノカンコ」と訓むので、これは時の流行言葉から出たものである」と御丁寧な示教を添えてあったが、之れ恐らくは誤訓であろう。

今三編の序文を見るに、朱樂菅江とある署名の左傍に二個の欵印があって、一は白字印に片仮名にて「アケラ氏」の四字を刻し、他の一の朱字印には同じく仮名文字にて「カンコウノイシ」の七字を彫ったのを捺してあるのだから、其の名の訓ミは「アケラカンコウ」というのが本当で、朱樂館は「アケラクワン」と訓むべきであると思う。之は何より確かに本人の印章が証明しているから毫も容れる余地が無いのである。

朱樂菅江は、市谷二十騎町にすめる御先手与力山崎景貫の狂名なり。按ずるに蜀山人の「奴凧」に、「菅江といふ名は、はじめ俳名を貫立といひし故、皆貫公〱とよびしを、菅江と書しなり、中ころ菅江の名憚りあるべき歟とて、漢江と改めしが、日光の宮(公遵親王)の聞せ給ひて、菅江にても苦しかるまじと仰せられしより、又もとの菅江と書したり。朱樂の字を加ふる事は、安永の頃我やどにてもろ人酒のみし時、戯れに行灯の紙に、我のみひとりあけら菅江と書きしを始とす」

といへり。  以て其の名の来由及び正訓の「アケラカンコウ」なるを知るべし。

 

此の「川傍柳」三編は、天明元年八月板行で同年五月十五日開から始まって同二十七日、閏五月五日、同十五日、同二十五日、六月五日、同十五日、同二十五日、七月五日、同十五日、同二十五日の会迄のを収載してある。

「やない筥」は天明七年未年に其の五編が出版されたと信ずべき理由が有るから、予は未見だが是亦全部五編物として研究して居る。本書二編に就いての研究は坂井久良岐君が「獅子頭」第一巻四号に又岩本君も「川柳文学」に其の考証解題共詳記しているから省略し、三編と五編は未見の書故止むなし。依って初編及び四編の内容を次に紹介して見よう。

初編の序は即ち

美吉野のよしとくめる桜木の樽こかねの糸もてよれる蓬莱の柳百千鳥とんで面白し万葉古今ハ敷島の道のあふぐべきしれし御事樽と柳ハさればみたる詞の花ことのあなおやどうしいしやう彼家持貫之などつがの木のつがもなき人々にもをさ〱おとらざめるかはやなぎの翁こそおそ桜おそろ人なれ上ハやごつなき殿様奥様中はまめしくむくつけき国家老御留守居こかねさわにまく大通を初め下ハあしからぬ吉原のうかれめころびが岡なる藝子まで此翁をしらざらめや我友どちのやすざかなえらみ出されし句をも土用干あつさにちりばめんとつめられた麻布の柳木にはかりてかくしいでたるはむかふよぶ人笑ひならんかし 

     あんまはりのりや氏柳筥のはしめにしるす

初篇は天明三年八月の出版で麻布柳水連の月次会正月五日開より七月二十日納会迄の選句を収めてある。  

巻末に

李牛子は予か判する所の句情厚年〱秀吟多し就中当春より柳水組連諧に手柄少ナからすをおしひかな当七月七日初秋の風とともに彼の国へ身まからせ給ふと聞に驚き残りし秀吟を机上にひろけ殊に連会結ひの頃病床に臥シなから句を加入せられしに妙なるかなその句書抜となりし事誠に此道の發才成ル事おしみ感嘆して

   世におしむ雲かくれにし七日月   川柳

斯く川柳翁が雨譚の亡兒李牛を悼みて序詩さへ添へた吊句を収めてあるが実に珍しい。

川柳翁作句の今日に遺れるものの尠ないのみか、其の遺文の如き全く絶無であるから、今此の詞章(巧拙ハ兎に角)真に空谷蛩音を聞くの感じがするのである。四編には麻黄庵素見が書いた次の序文がある。

 隠れのない新堀端の先生の秀評を待兼山の花の春よりもてあそふ好士の言の葉の数々を選ひ載たる柳筥此年既に四筥に及へり寔に尽せぬ柳ハみとり花はくれないの色々を争ふ麻布定連の中にも拙き明キ盲蛇にもおぢずなんにもしら川能因の歌を学ひて面の皮暑き頃より晩秋まてそつ首をひねりきまくれて毫を執ました。

      天明六丙午歳秋九月  麻黄庵主人

これは、天明六年九月の出版で正月五日、同二十日、二月五日、同二十日、三月五日、同二十日、四月五日、同二十日、五月五日、同二十日、六月五日、同二十日、七月五日、同二十日休、八月五日納会、同日角力会迄の柳水連月次会選句を収めてある。

「玉柳」の事は、久良岐君が「獅子頭」第二巻三号に解説してあるし「藐姑柳」は岩崎半魔君が「川柳文学」第二輯に記する處があった故贅筆を省いて、爰に「柳籠裏」を紹介して此稿の完結とする。

 

「柳籠裏」初編二編は未見に属する故、何年頃に創刊されたものやらはた又幾編まで続刊したものか、其の辺の處は未だ不明であるが、三編が天明六年七月に板行され其の奥付にある「此柳籠裏三編私方にて売弘め申候御求被成可被下候以上」と、板本なる麹町平河天神前近江屋治助の口上書等より推測して本書の創刊は天明三四年の交なるべく、この三編は終辺で其の以下は出版しなかったものの様に思われる。本書の体裁は「川傍柳」「やない筥」等と同様の物で高砂連月次会選句集である。即ち三編は天明午正月十五日に始まり二月三日、同十八日、三月三日、同十八日、四月三日、同十八日、五月三日、同二十八日角力会迄の秀句高点を収載して次の馬糞街人五樂の序文がある。

 

   柳籠裏序

 花に嵐は姑メのにくまれ口月に村雲は女房のはしたなきにたとへて流交の盗いと面白き中になを高砂の松にも柳を植こみて風流の戯言東都に鳴る其ことの葉艸の広くすさましきは武蔵野の名題〱評判の柳の風枝なびきて三万丈にも及ぶべしおほよそ玉たれの内の事よりして浅妻の閨の底迄はたひていいもてゆく此道の自由浅黄とばか李に野暮をきかせ桜と言柳と斗りにて青楼とさとる其餘あげてかぞへがたし相模下女のさがなき句も有りてそのさまいやしげなる言種と笑ふ人は笑へたのしみのすてんぺん向ふが岡の二階よりも高くふかき事は三ツ股の底よりもきつひ事と柳ぼり三編のいいたてのおかしさは馬鹿な笑ひ給ふべし

天明六丙午年秋七月 場糞共街人題

 

本篇には序文にも見える如く、いいたてのおかしき句殊に末番句が多く収められ、又珍しくも木綿即ち呉綾軒可有の句が見えるのである。今同書中の木綿の句を抄出する。

 壱本ン立のもみぢへはつれがなし

 紙代六文やたら出す暮の文

ちんぼこの出たを高位に交せて置キ

具足師のはつめい子供ねきへ出し

薬湯に人おどかしの刀掛ケ

紋がいくつあまつたと手の大きさ

すミつこで將基国元忌中也

三芝居からも賎別船へつみ

 

他に雨譚の句が最も多く主なる作句者は門柳、狐聲、五樂、花菱、高砂、芹丈、石斧、如雀、丸水等である。桃井庵和笛のも次の二句が抜かれてある。

 正札は二分諸入用しれず

 女房は鼻くそ亭主さし身也

 

これ等の柳書は、岩本君が所謂天明柳壇の別働体たる「川傍柳」以下各種の単行柳書は総て「誹風柳樽」「同拾遺」の如き書肆が営利を目的として出版したる売品とは異かわり牛込の蓬葉、麻布の柳水、牛込の築土、麹町の梅、高砂などいへる特定の一団連が川柳評万句合大会興行の無い時季を利用して開催した月次集会の選句を摺巻の冊子に出版し、其の連中出句者へ配本するの目的より編成せられ、其の出版の依頼を受けたる板本は依頼者の了解を得て、注文の配本印刷の刷毛序でに余分の冊子を板行して売り出したと云うに過ぎなかったから、其の発行部数も至って尠なかったものである。

斯様な訳で板元は既に団連の依頼者より出版費を受領して居るから、刷毛序でに増刷して製本した余分の冊子などはそれこそ本当の余得であるから、売れようが売れまいがそんなことには余り痛痒を感じなかったと見える。或いは当時柳多留という名称の勢力に壓せられ其の書名の関係から売れなかったものとの説もあるが、決してそんな訳のものでは無い。もともと出版当時の目的が全然違って居るのである。

是等の柳書が編輯の様式に於いて柳多留より比較的上乗で、何となく贅沢染ているのは特別出版の配本であった為である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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