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末摘花の版木は まだ昔のまま残っている

 

 

 

「末摘花」初篇から四篇の写真ですが下段開いた方の写真を見ると、なんとなく色や紙質だけでなく左右で違った雰囲気が感じ取れるはずです。此れは、左の方はあるところから木枯庵檉風が入手したもので、右の方は、それらに不足している部分を檉風が原本を謄写し補ったものです。

なぜこのような原紙らしいものと謄写紙がまじった「末摘花本」が手元に存在するかの説明は、末摘花研究で有名な岡田甫氏が一九五二年六月発行「奇書第二号」に、「末摘花の版木は残っている」との題で記しているので全文を以下に紹介します。

 

珍書「末摘花」の版木は、まだ昔のまま残っていると聞いたら、駭く人もあるにちがいない。戦後それがどうなったかまでは調べてみないが、戦前まではたしかにあったのである。

 

明治二十三年の出版で「屋なき樽」という粗悪な本が四冊、名古屋から出版されている。其体裁をもう少しくわしく述べれば、大体菊半截判(文庫本ぐらいの型)で、表紙は白の模造紙、薄紅色で桜花と紅葉をちらし、それに黒色で柳と樽の画を配して「屋なぎ樽」及び松平製の文字、表紙はくるみではなくうす青の絹糸。

表紙をめくれば、本文用紙は粗悪なザラ紙、ところが本文は活字ではなく写真凸版のような昔のままの木版、しかもその内容は全部「末摘花」なんだから、ちょっと驚かされる。試みに「末摘花」原本を対照してみると、すっかり原本そのままの木版なのだ。しかし四冊あっても、原本四冊そのままではなく、まるで無茶苦茶に、前後不同で載っている。その四冊の内容を記せば、

@    初篇 三・四・十一・十二・十三・十四・二十六・二十七・三十・三十三・三十四

弐篇 三・十七・三十三・三十四(三十三丁は二丁あり) 合計十六丁

A    初篇 九・十

弐篇 五・八・九・十・十一・十二・十五・十八・二十・二十一・二十二・二十三・二十四・三十五・三十六・三十七・三十八・三十九  合計二十丁

B    弐篇 二・四・十四

参篇 一・二・五・六・十九・二十・二十三・二十四・二十七・二十八・二十九・三十・三十一・三十二・三十三・三十八・三十九・四十  合計二十一枚

C    弐篇 二十五・二十六・二十七・二十九・三十一・三十二

四篇 一・二・三・五・八・九・十四・十九・二十三・二十四・二十九・三十・三十一・三十二 ・三十三  合計二十一枚

即ちこれを、各篇にわけると、

初篇 十三丁  弐篇 三十二丁  参篇 十八丁  四篇 十五丁

ということになる。奥附は本文でなく表紙の三、すなわち裏表紙の内側に木版で、四冊とも全部同じに、

    明治二十三年九月二十日出版

               愛知県平民

校正印刷兼発行者 矢野平兵衛

西春日井郡六郷村大字

大曽根千百四十六番地

となっている。無論これは、原本からすれば大分足りないが、とにかく原本のままの木版刷りという点から、これは一体どういうことかと、疑問をもたずにはいられない。

だが、僕が疑問を抱いたよりもずっと前、すでに大正末年にこれが話題となり、名古屋で往年出た川柳雑誌「鯱鉾」誌上で論議されているのを、同誌を入手し知り得た。

@末摘花版木の行衛(大正十四年第十四巻第六号)          花岡百樹

A末摘花版木の行衛に就き(大正十五年第十五巻第八号)       木枯庵檉風

B末摘花版木は存在している(大正十五年第十五巻第八号)      野田千朶樓

故花岡百樹氏の一文は、名古屋で「柳多留」の版木が初編から十七編まで発見されたと聞いて、前述の名古屋版「末摘花」を、曾て見たことがあるとの思い出話。故木枯庵檉風氏のは、その本をもっているとの紹介。さて野田千朶樓氏(これも恐らく故人であろう)の一文は、其出版の経緯を説明して次の通り。

「末摘花の版木は矢野平兵衛方に存在している。当代の松平(矢野氏の店名にてマツヘイと訓む)は病身であるのと、出版に趣味を持たないので、仏書の覆刻と雑誌を商って先代の遺業を細々と継承して居るが、先代の松平は永東と並び称されたほど出版好きで、名古屋於妃、黄表紙もの其の他多くの書物を出版している。檉風兄が玉潤堂で求められた「やなぎ樽」も先代が出版したもので、「やなぎ樽」全篇、末摘花の版木は当主が所蔵している。松平方には江戸時代の軟派もので珍しい書物があったが、柳友佐々木桂両兄の依属で自分がその衝に当たり、目ぼしいものは全部選択してこれを譲り受け、佐々木兄からその全部を名古屋図書館へ寄贈したから今では珍しい書物は無くなったが、江戸時代の軟派ものの版木は沢山残り、蔵一ぱい積み込んである。末摘花の原稿刷りも書物買受の際発見し、版木の存在も確かめたので出版を勧めたが、何分版木が整頓していないので、蔵一ぱいの版木の内から拾い出さねばならず、当分実現は困難であろう。」

以上でおわかりのように「末摘花」の版木は、江戸からはるか遠い名古屋郊外の土蔵のなかに、「柳多留」の版木と共に現代でも泰平の夢を見ながら眠っているわけだが、さてこの戦乱のドサクサでどうなったであろうか。無論名古屋は戦禍を受けても郊外だから被害はないと思うが、戦時中の焚物不足でポカリ〱と割られはしまいか、あるいは財産税その他で蔵などはどうなったであろうか、近い方に一度そこを訪ねて見ていただきたいものだ。

名古屋本「末摘花」は、見つかった版木だけを拾い集めての編輯だから、恐らくもっとあるに違いない。すでに江戸時代に版木の失くなったと思われるものは、無論ないのはわかっているが・・・・。

「柳多留」や「末摘花」の版元星運堂の没落は天保四年と思われる。それからその版木は外の書肆の手に渡って、前者は菊屋版の「柳多留」となり、後者は柳笑堂、艶花堂の「末摘花」として出版されたが、それらの版木が一括して存在するとすれば、そこにまたいろいろ面白い問題も出てこよう。

馬琴の「八犬伝」の版木は、江戸で相当版を重ねてから、大阪の本屋が大金を出して買っていった。恐らく陸路でなく船で運んだことと思うが、「柳多留」や「末摘花」の版木も同様だろう。おびただしい版木のなかににまじって、われらの愛好する「末摘花」の版木もまた千石船に積み込まれ、順風を孕んで江戸湾を颯爽と出ていった姿を想像すると、一種の感慨と微笑も感じられるのではないか。

 

以上岡田甫氏が記している内容の「末摘花名古屋版」が、手元にある珍本(写真)だが、 それよりも蔵一ぱいの版木が、その後どのようになったのかの方が大変興味があり気がかりである。

記述時(昭和二十七年)以降、岡田氏が此版木の存在確認をなんらかの方法で行っていることと思がもし万が一未確認であれば、旧愛知県西春日井郡六郷村矢野平兵衛氏と明確に保存していた場所・所有者が解っているのだから調べれば面白いことが数多く出てきそうである。

 

 

 

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