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九世川柳

 

 

九世川柳嗣号十年紀念会序

夫紀念の文字はかたみと訓ず、即ち遺物の意にして俗に形見と書くも放て當を得ざるに非ず、かたみさえ今は仇なれなど謡うは皆これ有形の紀念物を示していうなり、近来紀念と云へる事法行の如く成りゆき彼も紀念是も紀念として社会に現わるる物多し、本年の如しは文道の祖神と仰ぐ菅公の一千年忌を初め仏門にては成田山の開基寛朝僧正の九百年、曹洞宗にては開山承陽大師の遷化、又法華の祖師日蓮上人の開宗等共に六百五十年の紀念として法要を覚めり、又武道の亀鑑として永世に名を残せし赤穂浪士の二百年其他千住の開市三百三十年祭に至るまで算へ来たれば数あれど、神祭仏事のみにては無形の紀念とや云わん故に石碑を建て又は絵画摺物其他一切形ある物を作りて後世に止めてこそ紀念なるべし。茲に尤も奇遇なるは吾祖翁宝暦三年に初めて柳門一派を開かれし百五十年に相当す、斯の如く斯道の為には大々的の紀念なるに夫を措きてわが紀念を執行うは実に嗚呼の業くれなれど社友の勧めも黙止難く具感ずる事あれば枉託す事とせり、回顧すれば十年の昔ふ肖の身を以て言の葉に斧あてる任に興りしが其当時障碍する者ありて一時因弊を極めてれども、邪は正に如ずの格言空しからず日を遂うて旭の露におけるが如く彼等は悉く消滅して其跡を断ちたれば夫より後は柳の根固り、来る年毎に枝葉茂りて昔の如く栄うる事になれり、これ然しながら吾徳の為すにあらず一は祖霊の守らせ給うと社中諸君の尽されし厚意によるべし、いささか粗言を述べて此摺巻の紀念に供う事爾り。

      軸

    徒らに年を重ねて老柳

 

課題川柳狂句集序

和歌に題林抄あり俳書にも類題集其他の書尠しとせず、我柳風もこれに倣い川柳五百題の類あれど多くは京阪地方に発行せしものなり、東京にては曩に七世柳翁柳風狂句万題集を撰れしが障る事ありて僅に四重部類を以て中止されしは予が常に遺憾とする処なりさるを這し亜羅城旭のぬし本書を編纂されしを閲るに斯道の眼目とする和漢洋の歴史及立体の人物を題としこれに全国一般古今の名吟を並列したればうい学の階梯となりて弘く世に行われ重宝とならん事期して待べきなり、著者の丹精柳の糸に玉をつらねしと謂うべし。

 

老楽亭九七四還暦寿延狂句合序

高き齢を尚ぶ会は清和の帝の御代貞観十あまり八年の春弥生に南淵の大納言始めて行われしより、安和二年の春弥生中の頃栗田の左大臣未だ大納言にておわしけるとき更に昔の跡にならいて七人の老翁を集えおのもおのもの身の老いたる條を言あげる会をなんせられける、是等は文時三位の序文にて知られ偖遥に年を経て承安二年の春弥生に藤原の清輔朝臣が古き例をおいて其事を行われけるが又幾ほどもなく養和二年の春弥生賀茂重保神主同じ跡を止めて長き短きを云わず歯優れるをあがめ傳くをむねとせられたり、夫より武家の代となり幾久しき年を経て寛文七年の春弥生西山の君東国の風習老を尚ぶことを知らずとて古き例の侭に属々賀莚を開かれ又近き世には景山の君先公の御跡を慕いまして養老会をぞ行われたりける、此会は唐大和のうたを能くし書画の技をも兼たる人を乗へて更に宴の筵を開れたるは彼の七人の尚歯会に似つかわしきわざと云うべきなん、是に倣いて我狂句の道に遊ばるる老業亭のあるじ九七四の翁は其はじめ雑俳いうものの連に列りて世に知られたる人なりければ、去年の春舊の弥生の頃ふるき友どちの打集うて彼の隆達が流れをくめる都々一節の唱歌を作りて六十余り一の年をむかえしを寿きけるが猶この上にも柳の枝に等く齢飾れるを祝いのばして一年を打過けりざるを、孝子一三六のぬし今年春の始めの頃より思いたちて此事を遠近に告げしに人の祝びを我歓喜とする風雅の友より景品を贈り祝いの句を寄せられけるを、今のさつき十余り二日会の席にて巻を開きけるが早くも此摺物の上りたると共に序言せよと請れければ、柳の糸の永き世までも語り伝えて老人を厚く養うべき孝道のはしだてともなりなんと己も嬉さの余り一言を斯記しつくるになん。

      祝賀

    堪忍の袋仕上て賀の祝い

 

水天宮奉額狂句合序

神は人の敬を以て威を増し人は神の加護に因て身を立てるは宜なり、掛幕も畏き水天宮の御社は筑後の国御井郡舊久留米領筑後川の沿岸に鎮座在す縣社を以て御本社と崇む祭神は従二位平時子命にして則ち尼御前と称す、一説には安徳天皇を御相殿と為し奉ると云い或は御剱を以て御神体と為すとも伝うれど倶に神秘にして伺うに詮なし、夫は兎に角此御宮は華族有馬家の守護神と称し旧幕時代には御文霊を三田の本邸に安置し在り毎月五日には衆人に参詣許され一年十二回の経典怠りなかりしが、維新革命の後一回赤坂に転じ夫より幾程もなくして今の蠣売町に遷座ましましたり、其位置は日本橋区の中央にして此土地を俗に人形町通りと云う、四下の便利宜しければ旧例の五日は更なり、近頃は一日五日にも門を開かれど就中五日の群集は夥だしくさしもに広き往還も人を以て埋めたるが如し、されば此辺に住める商人等は神の恵みを蒙りて生計を立る者尠しとせず、清楽堂楽清氏も同じ町に住で米商楽焼の業に従事し神を信ずるの余り今度奉額の企てを起したれども如何にせん覚業道に晦なければ之を芳野氏に託す、氏も亦快く之を諾い此由を遠近に伝えしに優事好める人々は心々に句作りして送り来る事は私田海に満れ浜の真砂比べて限りもなく、其中には海の内外を問ず昔の跡を探ね或は雅たる雲上の御式又はあまさかる鄙の手業浮世の状況、何くれとなく列ね花の匂い月の光り一層添て妙なり、実にや形に花あらざれば野蠻にも等しく心に花あらざれば獣にや比ぶとかや、斯る雅を愛ざらん者は野蠻の如く鳥獣にも近かるべしとわが田面に水引くにあらねど、自ら賞賛しつつ五十余りの狂句を撰て神殿捧げ猶好作を摺巻として拙きを省す(はし)(がき)する事爾り。

      軸

    水や天神の(こころ)に隔てなし

 

寶集亭懸額会狂句合序

講釈師見て来たように虚言を吐きと初代馬谷が口吟は穿ち得て妙なり、茲に講談と狂句の道を兼ねたる老翁あり釈師の名は先師の後を襲うて二代目花雲と呼び狂句にては先考の称号を嗣で二世の化笑と云う、基本業は佐竹が原公園に根拠を構えたる寄席宝集亭の主人にして其席たるや年中大入を占め宝集の亭号空しからず、席亭はいつも福々然たりされば其喜びを倶にせんと社友の人々打集い狂句の額を送らん事を計り翁が得意の太閤記を題とし是を四方へ披露せしに各自謀略を巡らしたる名案は忽ち壱萬余吟とはなりぬ、其内より抜群なるを撰りて既に席上に掲げたり、われ債々愚考するに狂句を撰んで順序を定める事宛も豊公一代の行為に似たり、抑も公は天文五年の正月尾張の国中村に誕生ありてより慶長三年の八月伏見城に薨ぜらるるまでには種々雑多の事跡あり、今試みに之を記さんに浅野氏の女と結婚し友白髪の八千代を契りは取りも直さず巻軸の大尾にして又松丸、三條、加賀、淀君等の関係は即ち大尾脇ならんか。駿海で別れしお菊、鵙屋の寡婦の如きは前後とも末番の内なるべし、公齢二十歳身を松下之綱に寄る後走りて織田氏に仕う信長卓号して猿面冠者と呼ぶ、当時木下藤吉郎と名乗りし頃は滑稽あり笑談ありて大いに興を添ゆ是等の行いこそ中番と謂うべし、天正三年筑前の守に任じ羽柴氏を名乗る時代こそ漸百番の内ならん、夫より累進して遂に姫路の城主となり毛利と和睦してより弥よ十番内に入る先光秀を誅せしは初り続いて美濃越前を取り小牧山に大軍を発して戦い、四国を定め徳川と和し島津を降し九州を治めて後聚楽邸に行幸を仰れしは第二番に位す、同十九年関白職に補し小田原陣に北條を亡ぼして関東諸国を平治し応仁以来の禍乱初めて天下統一す、文禄慶長に朝鮮を征伐して国威を海外に輝かせしは第一番の感吟なるべし、結局に判者の軸は豊国の神号に擬う様と拙きも顧みず本の素読の前座代り机に向つてよしなき事を叩くとなん。

      軸

    藘原を固め根拠を難波潟

    国豊カ今ぞ別格官弊社

 

海内競争相撲狂句合跋

俳諧の相撲は最古くより伝われど之を木に彫て世に行われしは仙化の蛙合をもてもて始めとす、我狂句も之に因み文日堂礫川行司となって興行せし事は文化年代の摺巻に見えたり、其後四世五世の宗師比例をひくと雖も只一番ひの勝負を分つのみにして所謂地取いう者に似たり、適々番付の位置を定むるも第一番を東の大関とし第二番を西の大関とす、以下之に倣うの法なり斯ては東より西の方劣れるが如し、相撲の東西素より甲乙を分たるものに非ず、往古は左右と称せしも勤進相撲世に行われてより何時か変じて東西となる、這ば力士の出所に拠り関東関西を分つとも云い、或は興行場の位置に依って斯号けたりとも云へり、夫は兎も角も狂句の相撲に番付面の公平法を行いたるは安政三年の秋有人和知海の両氏勧進元となり之を興行す時に行司の役は東の方五世川柳西の方腥齋ごまめ大人之を勤む、但し取組の法は二株を一組となし抜句の多数に依て上に位す、若同数なる時は高黙に譲る事とし茲に始めて大相撲の興行ありしも当時は未開の弊ありて位置の争いより紛紜を生じ遂に番付は空くなりて摺本のみ出版せり、然るに這回親友甘屋のぬし奮って勧進元となり絶たるを継ぎ廃れたるを興し三十四年ぶりにて之を再興す、実に同氏の功は高砂の松に等しく千年の色を顕し雅名は雷の轟くが如く四方に鳴響きたり、而して西の行司を予に勤めよと強て託せらるるも予は素より故実も知らず手さばき手碎き等も辧えねば再三之を辞すといえども免じたまわず、されば盲目蛇に怖じずの比喩を借り人の謗りも顧ず嗚呼かましくも土俵へ上がれどハッケよんやも覚束なく足元さえも分明ならねば東西の風士誤りありとて物言つけるはゆるされたまえや。

  干時明治二十二年七月 萬冶楼義母子記

      軸

    目移りで孰れを取らん花相撲

 

句調之沿革

故八世翁の曰く凡そ天地の気運も三十年にして一変すと云う社会の事物も大率皆然り、我柳風狂句の若きも風調の変換する事恰も時勢の遷転するが如し、假に詩を以て之を評せんに文政以前の作の如きは頗る古詩の礼に似たり、天保以降の安政の頃に臻ては盛唐の詩に比す可蔓延より維新の初年に迠んでは殆ど晩唐の作に類せり、爾来風調倍々変し方今の作の如きは綺言漢語を調せざれば句と称せず開明新奇を列せざれば撰に適せず、是を以て宋元の風礼に匹せんに尚剰り有が如し、故に五世時代佳句妙案と称せし吟も今より之を見れば児戯幼作のみ昔日は拙にして今日の功なるには非ず、数年の後より今の作を観る事あらば又復斯の如くならん、要するに句調の変換は概ね撰者の志探に因ると雖も時勢文運の然らしむるもの最も多し云々、先師の言実に予が意中に適せり、予は又之に倣い我国歌を以て比較せんに、文政以前は万葉集の如し四世の晩年より五世の修身までを古今集に比せんが、六世時代は後撰拾遺以下に類せん七世の初めより八世に至るものは風雅新千載以下の如し、今日においては全く改暦後の風調に変遷して専ら開明の現象を見るにあり、夫二十一代集中において人の多く知るものは古今集を以て第一とす、千載新古今となりては知る者又少し故に四世の晩年より五世に至るの風調は特に心学を旨とし教訓人をして善に導くを専らと為したれば今日より顧みるも猶流行におくるる事なし、願わくば今より後も茲に意を用い神社仏事の永代額は素より通常の会と雖も一時の流行に泥まず成るべく萬世不変の名吟を作られん事を希がうなり。

付記す  本会の道具とする居候を以て時代を分けんに

元祖の頃は    居候仕よう事なしの子煩悩

二世の頃     居候三ばい目には(そつ)と出し

三世の頃     居候面当(つらあて)らしく雪を喰い

四世の頃     居候もも引までが(まんま)喰う

五世の頃     居候月見の栗も喰つぶし

六世の頃     米代の言わけ辛し居候

七世の頃     演説も出来る身でナゼ居候

八世の頃     新聞を米価から見る居候

当代は      名誉職ですと無給の居候 又 割を喰い恨みをのんで居候

右大略斯の如し

 

判者の責任も難い哉

文政度より以前の事は暫く措き四世より六世迄の間に行われたる巻中抜萃の割合は百分の五なり、即ち一千句に付五十番又集句一万以上なる時は四分五厘即ち一万句に付四百五十番を以て通例とす、当時の入花は銀一匁より三匁を最高度とし一匁五分二匁を以て通常とす、予が覚えてすら第一番の句賞にお召縮緬の箱入一疋を出だしたるを見請たり、其頃の金位今日とは違うと雖も斯の如く立派なる商品を出だすは全く抜句の少数なるが故なり、されば句作を為す人もおのづから熱心にて譬ば句の種を見認めて初めに荒取りを為し而して中レコ上レコ等の鉋をかけ、猶木賊椋の葉を以て光沢を掛ると云うが如くに鍛錬したるを判者も亦洩れざるよう精々目を配りて抜萃せし句を列記するが故に其撰みは自然整い会員より苦情の出る如きは又稀なり、然るに明治十七年の頃魁連号披露会の際集句九千百吟の内より一千句を抜萃せし事あり即ち一割一分なり、時の判者は七世翁にて其苦心今猶想いやらるるなり、夫より以後は一割抜きを以て通常の如く成行きしが抜萃多ければ従って商品の麁に流るるは覚悟なれども抜萃多き時は句作も亦冷淡なり、投吟者は一句を得べき処二句得れば満足なるべけれど判者はしからず試に思へ鍛錬せし句を五分と冷淡なる句を一割と、これ素より比較すべきものにあらねど人或は六世以上の撰みを賞して七世以後の抜萃を詰る輩あり其多寡を論ぜずして此評を下すは実に酷と云わざるを得ず、予は願う今後課題を設けたると月並稽古会を除くの外は成るべく抜萃を少数になしたらんには前記の如く作撰共に相整うのみならず催主に於いても句商品の粗なるに対してあらぬ誹りを請ける事万々なかるべしと信ずるなり。

 

扇面画題句合并序

敷島の大和歌を合せて判する事はいそのかみ古き例しにして雲の上人よりはじまり中古に至り職人尽しいうもの三十六番七十一番の催しあり這ば戯笑歌にして今いう狂歌にやや近かるべし、文政天保の頃狂歌もて世に名だかき四方歌垣六樹園飯盛など判せるもの今も猶見る事あり、俳諧は彼の仙化なる者判者となり蕉翁の古池の句に我句を番いて判書をなし是を持と定めて巻頭に置き題して蛙合というに始まりしとかや、我狂句には扇面引きと穪へて扇面の画を題とし之に左右番いて勝負なす事は既に例ありて、其判する者博学雅才に長たる者ならでは勤むべくもあらず、僕浅学無識にしてかかる技を擬んとするは嗚呼の限りにはあれど事過りたるも亦興ある事なりとて雅友の勧めに任せ遂に判する事とはなりぬれど、開巻前日僅かに一日を余すのみなれば自然調べも届かず引書するの晦もなく只記憶に従い怪しげなる詞書を添えたるは蛙合の因みを引き酒蛙〱真面目と罷り出で水を漢ぎたる如く面に汗して筆を採り其言訳をなす事斯の如しと云爾。

  明治二十三年九月二十一日  萬冶楼義母子

日の出に群鶴

左勝     子の闇を離れ旭に遊ぶ鶴         こが祢

右      日に群れる鶴は国会衆議院        氷月

左夜の鶴恩愛によもすがら寝もやらぬを旭の昇るに従いやや安堵の思いをなして舞い遊ぶさま最とゆたかなり、右議事堂へ臨幸の節議員の集り来たるを鶴に見立たるものにて此類外にも数多あれば珍しいとも思われぬは作者のふ幸なるべし、左の舞い鶴高く見上げて勝と定むるによも議論はあるまじや。

  富士見西行

左勝     北面を辞し表裏なき山を愛        甘屋

右      露と悟つて蓮す葉の山を愛        雪雁

左佐藤憲清の昔に引換え今や俗塵を避け雪の山を望みて風雅に愛するの情面白く思い侍る、右妻子珍宝をふり捨たる我身を露に比喩たるは良き取合せなり、されど富士山の形を蓮の葉を伏せたる如しとは聊か附会の説ならんか、富士は元佛家にて開きたる御山なれば芙蓉の峯と名ずけたり、芙蓉は蓮葦の一称にして秋に到り花咲く木芙蓉とはおのづから別ものなり混ずべからず、偖この御山を蓮葦に比したるは頂上なる空坎の周囲にある八つの峯を八葉の蓮葦にたとえたるものなれば花の方至当なるべしゆえに「身は露と悟り蓮すの峯を愛」などしたらんには如何か兎に角この峰二つ並べて測量を試みるに左の方何ほどか高く見ゆれば勝ちとこそ申すべけれ。

  大津絵の座頭と犬

左      居残りは按摩の笛に犬の声        旭

右勝     頭字へ瘤を付けると犬に津絵       雪雁

左大びけ過ぎの物おもい能く廓の情を穿ちたる此道の苦労人なるべし、右頭字へ瘤とは云わずして座頭の坊の天窓にある如し、津絵と杖の音ン確にしてトツ先なる丸き金物の假名も漫りならねば左の笛より杖の方長きをもつて勝と定め侍る。

  傾城高尾元禄姿

左勝     文もみじか夜奥書にほととぎす      旭

右      高尾の筆跡わすれねど思い出ず      甘屋

左みちのくに十八郡の太守も君は今の殺し文句に御身を忘れたまうも宜なり、八十八聲の口数より僅十七文字の方感情深きを其侭取りて短夜と作られしは奥書の奥床しく殿の官名さへ籠ての働き時鳥の声と共に一毎高く聞え侍る、右高尾の古筆無名にして思い出ずと這も亦一興を添られたり、左右のふみ比べ見るに左の方筆走りサラ〱として善し勝べくや。

  柘榴の実

左持     柘榴見て悟れ我身の熟不熟        骨皮

右      酢いも甘いも知った後人の味       雪雁

左木の実の熟不熟を見て我身を顧みるは柘榴のみに限らねどここには此題の儲けあれば敢て咎むるにあらず、兎に角この作者熟せし手際表れて見ゆ、右画題を云わずしてすらすらと吟じたるは這も亦酢いも甘いも知られたる作者なるべし、人の味は浮屠氏の説取るに足りねど俗説なる人肉を人の上に取成されたるは味わい深く覚ゆ、斯ては鬼子母神鴬信の千子多子も悪くは思うまじくや此ざくろ二個とも賞翫して能き持と定め勝負を分たず。

  大石良雄目隠しの戯

左持     泣きたさを笑い涙の目を隠し       甘屋

右      目隠しをすると鼻からぬける智恵     兒氷

左笑いに紛らし涙の目を隠す良雄の胸中さこそと手拭いも湿り勝なるべし作者の苦心も亦相同じ、右世の俚言に怜悧なる人を称して目から鼻へぬけるというを取りて作られたるさま狂句の本体を得たりと謂うべし、されど目隠しをすると鼻からぬけるとは聊か事欠たる心地す、若し目隠しをせぬ時は鼻からぬける程の智も出ぬかとの疑いなきにしもあらず、失敬ながら目隠しの「鬼は」と打つけに云いなしたらんには此疑いを解くべし、此句勝べくなれどこの疑いに拠り直して持とこそ定め侍りぬ。

  大石良雄前と同じ

左      炭をのむよりも苦しき廓の酒       こが祢

右勝     杉の囲も目隠しをしたで解け       東雄

左晋の豫譲が故事漢と和にたんだ二人とは加古川本蔵の台詞の通り狂言綺語却つて狂句の本意に近し能こそ斯は申されたり、右上杉家の警衛を解くの遠計至れり尽くせり囲も目隠しも皆杉板の上に云いなされたるは感ずるに猶飾あり此実説天晴名声と謂うべしまたき勝にこそ。

  楠氏桜井の子別れ

左      桜井の遺訓心の花がたみ         柳

右勝     桜井の遺訓若葉のめにも露        こがね

左花がたみは花を挿す籠にして四時何れの花をさす物ながら花とのみ申さば春の都に入る事例あり、茲には桜井と冠辞よりつづけて父が意中を我子に伝えたる作意確にそれと知られたり、右正行を若葉に見立てめにも露とは芽と目の秀句気候と共に能く叶えり、桜井の遺訓は建武二年の五月なれば茲に注目されたる作者の用心感深く思い侍る、此番い何れを優り何れを劣りと勝負見分難く難く持ともすべきなれど、句合に持のみ多きは興尠しと申さるる方もあるべければ強て勝負を定めんに散る花より露もつ若葉の方あわれにも聞けめればいささかまさるべくや。

 

紅梅軒立机披露会狂句集跋

色をも香をも知る人ぞ知る紅梅軒の主個魯山雅士が性行且雅道に熱心なる事は鬼外華村の両者本会の序文に誌されたれば予は何をか言わん、凡そ梅と柳は気候相同じうして其因みも亦深し、我狂句の道も是に等しく遠く溯れば難波津に薫を止めし梅翁が談林風の俳諧を原因とす、家祖川柳柄井氏も始め此道に遊び一個の判者たる事は当時の俳諧觽に見えたり、其後宝暦の頃梅翁の句調一変して柳風の一派を興してより以来代々植つぎし宗師も諸国へ枝葉を殖し代わりて判する者を許す事尠しとせず、茲に去年の春柳も芽ざす頃先師八世の翁より紅梅軒の許へ免状を送られしは決して偶然にはあらざるべし、されば蕉翁の吟にも「梅柳見よ若衆かな娘かな」と此二樹に優美を添られし事あり、世の俚言に梅が香を桜に添えて柳の枝にさかせたしとは美人の上を言なしたる語にして風雅の道も是に相似て主個が上に能く適へり願わくば今より後益々勤めて、梅が枝に花実を備え我柳風の茂らん事を寿ぎ君ならで誰にか見せんと拙き筆にあやしげなる詞を綴りて贈り侍る事とはなしぬ。

 

流祖柄井氏の家名を続ける時

おのれ拙なきわざもて川柳九世の号を嗣きしのみならず社友の勧めに因り去年の六月流祖柄井氏の家名をも続く事となりしを遠近の友人に告まいらすとて。

    培養は人に任せてさし柳

菊丸ぬし名弘の催しを嬉しくおもい侍りて

今年春のはじめ飛騨の人菊丸ぬし風雅の名を四方に弘めんとする催しあるを嬉しくおもい侍りて。

    来る秋の香を待つ菊の若葉時

穣芳園のあるじの嗣号を寿きて

穣芳園のあるじこたび先考の名を嗣ぎたまいしを寿ぎ参らせて。

    一しほの詠め若枝の花に月

龍寶寺に詣でて

川柳忌の当日龍寶寺に詣で祖翁の碑を拝し奉りて。

    凩の遺吟末世に石に判

柳宗忌

柳宗忌創設の日七霊を祭り奉りて。

    跡つぎて後を栄えよ川柳

蘇息齋を送る

蘇息齋ぬしの山形県に帰らるるを送る。

    下りにも無事を祈らん羽黒山

柳宗印譜を華月ぬしへ贈る

柳宗印譜を長岡華月ぬしへ贈り参らせしとき。

    継ぎ〱て世に跡絶へぬ川柳

乙未歳且

    天の戸を明けて祝簇の初日顔

庚子歳且

    堪忍を知る門松の股潜り

長岡華月ぬしの柳門に遊ばるるを祝し参らせて。

    斯道の明りとなれや華に月

壬寅五月初めて山形県の雅友諸君に見えて

    愛て給う程の価値なし老柳

決別 もう君と袂を別つはきぬ〱に等し

    送られてあとを見返る川やなぎ

いぬる秋日光へ詣でけるとき

    葛の葉も生うる裏見が瀧の道

白川にて即興

    汽車にて乗きる阿部氏の城の跡

安達陽花翁古稀寿延を祝して

    七十里越て花あり老の坂

去年の春身まかりし芳州ぬしを悼む

    嗚呼惜しや果敢なく覚た花の夢

護良親王

    六波羅に密事はもれて般若框  

源融公

    塩竈をうつし詠歌はみちのくの

神武祭

    神武祭国旗の先を飛ぶ烏

貞徳翁

    福禄の歎派放れた長頭丸

凱旋兵

    凱旋の兵隊秋の落し水

聖恩

    菊の露下流の民は皆長寿

二季

    戦国でなし春秋の御霊祭

衛生

良夜

    世界なす物とは見えず月と宵

奢侈

    漏刻のいくら運んで金時計

芳原

    鐵門の廓悟れば鬼が城

誡諭

    米にあるうまみにもてよ人心

瓢酒

    一瓢の飲にこころの酌楽し

時鳥

    時鳥幾夜釣られて蚊帳で聞き

長岡華月ぬしの若齢にして若白髪なるをよみ侍りて

    若白髪青葉に交る迭桜

霊芝庵主立机賀す

    春秋に富む芽柳や菊の花

柳水園二橋ぬし立机祝す

    織物の土地に柳の糸が伸び

豊穣

    世はゆたかに百十日をあとでしり

五世川柳翁三十七回忌

    見かえれば遥になりぬ柳陰

紅梅軒魯山君霊前手向

    花も実も名残りに散るや梅紅葉

鶺J自画賛

    能き事の教えはじめぞ和合の祖

狂句混題八十八章

    御遷都は平らにしかず山なき地

    都会で長寿仙人も知らぬ徳

    華族の五位も代つて鷺の芸

    足る事を知って祖翁は八右衛門

    金のなる木のこやしには身のあぶら

    世をバうらむなたらぬのは己が智慧

    読人を記さず無名庵の頃

    一力で乱酒舊水に遊ぶ亀

    出納は平均烏芋の玉子閉

    煙草をつまんで雁首をひねくらせ

    大たわけ昼夜寝て居て待つ果報

    大あれに越前屋でも家根がむけ

    ふんどしかつぎ六尺にたらぬ丈ケ

    漢文へ捨侮名畔に道知るべ

    見かけには人もよらぬぞ生蝋燭

    敷砂利の三日に埋む大都会

    北越の不思議も晴し世の徳化

    金短冊へ腰折は富る愚者

愚の多弁露の保たぬ萩の風

開拓の功に羆も里へ出ず

飢え渇したる昔しを思え美酒佳肴

実意ある醜婦鰻に持旨味

古来稀七十二県和の治平

猛獣の住ぬ斗りも和の果報

五湖の舟国をくつがえさせぬ忠

神楽の面打下女がつら能詠メ

飯豊を須臾即位の継目にし

松も威を震いし頃は十八世

日本画史菊池はおもに勤皇家

木の股を潜り陳蒼道を落ち

飛車で行く時勢に合ぬ将棊好

一休はおとなのくせに関で出し

飯盛は夜ルの御殿の説も書き

東洋の迷夢を覚す金烏章

崩れた内を白壁で塗り直し

大人国の割り箸か二本杉

鵜の真似で罰似せ物の濡烏

近眼の将棊朝霧に物見武者

金無垢に緑青は出ず和気の忠

燕雀に解せぬは鳥と化す御魂

地に乱忘れず改革をする三ツ井

気をつけよたら〱急の老の坂

大門を打馬鹿はなし開けた代

程美なり妻子を持て尽す孝

目笊へ鈴虫裏店で呼芸者

牛若の助命したのも涎ゆえ

きのうの歓も恥かしき今朝の春

論語さへ読ながらなぜ居候

うるさくも嬉しき春の人出入

雅ては混交守武も僧を友

敵へ塩女房廓へ遣い物

花七日硯もせハし躬恒形

良雄の心で遊興をすれば無事

頼まれて霊見売薬程きかず

古風をも笑うな親のゆづり物

馬鹿な後家男芸者を転す気

思案の外朝聖人もお子を持チ

花の吉原大門へ桜痴の書

皮肉など言ぬが骨ぞ雅の正味

楽寝して読も奢りぞ長門本

心根の柳貞婦へ緑緩章

塩原へ湯治は辛き世を知らず

大黒を砕き大国主となり

大たわけ書置をして河豚を喰い

下タを見る為にと二階堂を連レ

朝帰り悋気されぬも拍子ぬけ

から傘枕ハ開けない頃の唄

信用ハ世に諂らわぬ正統親

露置し野も玉敷の庭となり

快楽をせぬも御代の恩知らず

内に福満て溢るる笑い顔

神威の貫目は船で知る象頭山

知った振り談林調は十八字

蓮生の開帳に死へ背は向けず

月琴の表に似たり下女の面

真情が満ると雁は北へ飛び

独立は菊という字に訓はなし

花盛り君子の徳もいやがらず

松の余徳は年経りて公の爵

歌集より聖慮は賢を御勅選

大水で流れて多い村質屋

布団着て寝ても嵐雪句を案じ

斧当る難なし我立杣の和歌

遊べうしに仁寿の域に出た果報

附す気なら世業を欠くな四ツの恩

太秦の祭文産湯にて感じ

順風に世を渡るこそ宝船

 

 

 

 

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