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誹諧の語源  (川柳鯱鉾第九巻第八・九  大正九年九月・十一月発行に掲載分)

 

俳諧の俳を「言」扁に誤って誹に書いたのは、延喜五年古今和歌集編輯の時のことであるが、その後鎌倉時代足利の末期に連化師山崎宗鑑が、俳諧の起原たる狂連歌の一派を起こし、後又徳川時代に先登に立って「誹諧は面白きことある時、興に乗じて言ひ出し、人をして笑はしめ己も楽しむ」いう義を唱道せる松永貞徳となっても、将又それに続いて西山宗因が談林派(遂に此の談林調が直接原因となって前句附の起原をつくるようになった)を創めて一世を風靡するに至れる、是等俳諧の過渡期に在りてもやはり俳諧の俳を誹(一二の例外はあるが)と書いて、之を はいかい と読慣らしたものであった。然るに元禄年中芭蕉松尾桃青出でて所謂「人をして笑はしは己も楽む道」の俳諧を根本から打破し「俳諧に古人なし」と渇破しつつ、禅風を帯んだ幽寂な詩趣を鼓吹するとともに、誹諧の文字をも改めることに定めて了ったのである。しかしその後にも誹諧の字をもちいぬ人が無かったではないのみか、蕉風に反対特に談林派の俳人は芭蕉の定論に服す可く余りに宏量の徳が薄かったものと見え、誤りと知りつつも古来の慣用字を其の侭襲用して、遂には自他共に俳と誹とを混同し、等しく之を「はい」と読みなして二者同一義と了解するの習俗を馴致したので、詰まり俳諧師及び川柳党(前句附)の共通的術語のやうなものと成り、何人も其の混同を怪しままざる程の慣用語と成って了ったもので有ることは予の絮説を俟つまでも無く、俳諧の史的変遷を知るものの之を理解し且首肯するところであらねばならない。ここに断って置くが凡そ典故を考証し古書を勘校するには、其の当時の原板本に拠らねば駄目である。彼の誤脱の多い飜刻の活字本などでは本問題の如き史実を考勘する上に何等の価値もない。況や後日いい加減な改定を加えた活版書などは何の役にも立たぬのみならず、往々にして飛んだ間違いを来すこと無きにしも非ずである。

而して誹諧の語源に就て「一話一言」巻二十九誹諧の條下に

 髄書曰、候曰、字君素、好学有捷才、為儒林郎、通俗不持、威儀、好為誹諧雑説、

 揚素甚狎之、素與牛弘退朝、曰謂素曰、日之夕矣、大笑曰、以我為牛羊下来耶、

 高祖毎将擢之、輸曰、候白不戦官而止。

是は「蒙古読鉊」の記事を抄録したものと見えるが「一話一言」と云う書物は、初代柳翁と其の時代を同うせる蜀山人太田南畝が自己の見聞に係る雑説を輯めた随筆本で比較的憑信するに足る可きものであるから、之を言扁の誹諧いう成語の出典と見ても宜しいだろうと思う。其の他「はいかい」の言辞に対し「一話一言」に総じて誹諧とかいているところより見れば、此時代には俳諧師及び川柳家以外の学者間に於いても、俳諧の俳を誹に書いて少しも怪しまなんだ一証拠と為すに足ることであろうと思う。

 

俳諧の用字例に就て(同十一号登載)

俳諧及び川柳に関する古板本中に、俳諧の俳の字を「誹」と書いてあるのは誤りであると云うて、今更の発見であるかのよううに得意然と其の非を鳴らし、或いは断り書きなどをして殊更に之を書き改め、甚だしきに至っては其の著者に対し無学呼ばわりなどして頻りにえらがっている先生達が、我が柳界に跋扈しつつあるのは洵に苦々しい事である。予は敢えて此等先生達の心理状態を一々忖度す可き限りでは無いけれども、一體古書の用字例を改訂したり其の著者を嘲罵したりすることは、往々古人の周到なる用意を没却するに至るのみか、却て先生達其自身の無学を表す場合が多いのであるから、叨に之を試みむ可きでは無く後進の大いに戒む可き事と思うのである。

成程「はいかい」とは、単に文字上より見れば「俳諧」と書く可きで其の方が全く正しいのに相違ない。されば彼の「ことはの泉、言海辞林」など云う多くの辞書には俳の字を用い、謹字の字書類を案じても誹の字は「唐韻、正韻」に敷尾切「集韻、韻會」に妃尾切竝音非文とありて「ハイ」の音が無く又其の字義よりすれば「説文」に「謗也」、「博雅」に「捏也」とあり、和訓にては「ソシル」と云う穏やならぬ文字であるから、他に「ハイ」の音があり「タワムレ」の訓ある俳の文字を用いる方が如何にも都合がよろしいので「俳諧」という熟語が正当であることは芭蕉翁の定論に俟つ迄も無いけれども、さもあれ古人が「誹諧」と書いてあるものを殊更に改訂したり、又は其の著者を誹謗するのは甚だ僭上なる沙汰で後進の為す可き事では無い。否な「はいかい」を「誹諧」と書くのは古来の用字例でそれには典拠あり、故実あり、此文字を襲用する方が蕉風外に在りては寧ろ適切であったとも云い得らるるのである。

「日本大辞林」は流石に国学の造詣深き文学博士物集高見氏の著文あって此辺の調べも付いているものと見え「はいかい、はいかいし、はいかいうた」等の言辞には総て誹の字を用いて説明してある。切言すれば「はいかい」を「誹諧」と書き始めた根源は、延喜五年古今和歌集編輯の時にあるので以来元禄年代迄八百年と云う永い歳月間之を襲用してあったが、元禄年中に芭蕉翁が「俳諧」の正字に改む可く提唱したので、其の門下及び蕉風系の俳人は「俳諧」と書くことに改めたけれども、蕉風に反対側の俳人特に談林派の人々は依然として之を改めず、寧ろ自派の故実として此の「誹諧」いう慣用字を尊重せる傾向のあったのは、半面より之を見れば蕉風に対する反抗心もあったろうと思われる。此の事は偽らざる史実の証するところで、何人と雖も之を否定することが出来得ない的確な事実である。特に注意す可きは、川柳柄井翁は蕉風に反対側なる談林派の俳人で、所謂前句附の天者であったことである。而して川柳の先駆たる古前句附本の殆ど全部は「誹諧」の慣用字を用いてあるので、其の系統に属する川柳句集の「柳樽」に当時の慣用語たる「誹風」いう文字を表題としたからとて何の不思議もあるまいではないか。若し夫れ「俳風」と書く可きを「誹風」と書いたからと言って呉綾軒可有を責むるのは飛んだ見当違いではあるまいか。否な古今和歌集の編者紀友則等四人の方へ其の苦情を持ち込む可き筋ではあるまいか。寧ろ徹底的に百尺の竿頭一歩を進めて、談林派俳人否認論でも高唱したら人には無学呼ばわりより以上に一興だったろうではあるまいか。

斯の如く古人が「はいかい」を「誹諧」と書き、又「はいふう」を「誹風」と書いたのには大なる意義のあった事であるから、現代人と雖も古書に対しては敬慮の意を払う可きで苟且にも改竄などを加えるべきものでは無い。且亦古俳書には多く「誹諧」と書いて「はいかい」、「誹風」と書いて「はいふう」と読み慣らして来たのであるから、如何な現代人も・・・但し剣花坊氏は別として・・・まさかに之を「ひかい」「ひふう」などと学者振るたわけ者のあるまいではないか。若しこんな事を取り立てて云うならば、他にも字音訓義を誤ったままに襲用しつつある者は沢山ある。早い話は貝原好古の「和爾雅」太宰春臺の「和読要領、倭楷正訛」など云う書物をみれば大変な誤用がある。彼の文学国たる支那に於いてすら古来訛誤のままに襲用し来ったものが多々あるものと見え、明の黄元立は之が為「宗考正誤」と云う一巻の書を著している。繰り返して言って置くが此の事に限った訳ではなく、古事の名著などでは一字単句苟もせびくるものであるから、大いに後進者の注意を要すべきである。遮莫予は今人の俳諧と書くのを否定するの意味では無く、古書の用字例は最も尊重す可きであるから、全くの訛誤(伝写の際に於ける誤りなど)に非ざる限りは改訂す可きで無いと注意する所以である。

 

 

 

 

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