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九世川柳

 

初め前嶋氏。天保六乙未年七月十二日日本橋室町に生まる。同所木屋の一族半兵衛の男にして、母は五世翁の姪なり。幼名乙吉、後に和橋を通称とす。諱は好信、字正秀、焦畫堂、又、風柳閑人の別号あり。曽て狂句は五世の晩年六世の教示を受け、入船連に加わり和橋亭義星と称せしが、日本橋創建の年号に因み萬治楼義母子に改む。幼にして絵画を好み、十三歳の頃鏝の焼画を自得し後是を兼業とす。明治七甲戌年新聞記者となり操觚社会に入る。浅草区新旅籠町四十番地に住す。明治二十六癸巳年四月二十三日全国社中投票の結果、大多数に因り九世川柳を嗣号し、同き年六月一日元祖柄井家の絶家を再興し、其の家名柄井氏を継ぎ旧名に因って居を無名庵と号し緑亭を別号とす。

九世嗣号者公選の際は、麹町区山元町三丁目弐番地に住める臂張亭〆太(中村万吉)なる者、九世の立机を望み萬治楼義母子と候補を争い、投票の結果落選となりしかど、〆太派は之に服せず自ら立って第九世を称し、正風亭川柳と号して対立の姿となり、一方は柳門祖翁正統九世無名庵川柳など標榜するの滑稽劇を演じ、人をして何れが真の川柳なるかに迷わしむるの観ありしが、臂張亭〆太は明治三十一戊戌年十一月二十六日病没し、ここに一人の川柳とはなれるとなり。

 

明治二十七甲午年三月明治天皇皇后両陛下大婚満二十五年の御祝典に際し、社中有志八十一名総代となり柳風俳句祝吟詠進の献納を出願して、聴許せられ詠進柳風狂句集の出版あり。

「柳風詠進の事、当初川柳点狂句と題して宮内省に出願せしが、聞き届けられずとの指令ありしかば、更に之を柳風俳句と改め、且つ六世川柳が有柄川宮幟仁親王より台賜の和歌并六世の奉答句に関する事項を書き添え、再願の手続きを為し遂に聴許せらるるに至りしという。按ずるに、再願の書中に去る明治十五年中故有柄川宮一品幟仁親王殿下隅々御遊漁の際、住吉神社の詞官平岡好国方に入御被為在御休憩の砌り、六代川柳の吟詠を御覧被遊柳風の世に裨益なる事を御賞誉の余り、忝くも川柳に御目通り被仰付御懇の蒙上意を以来、狂は教の文字に換えしとの台名を下し賜り、加之御親筆の御詠御短冊を下賜被為被為在云々」と記しあり。此事前に漏らしたれば茲に付記す。但し台名下賜りとは実事にや覚束なし。

又柳風詠進之記事中に左の説を記しあり。今之を節録して九世が川柳観を知る便に供しぬ。

「夫やまと歌は遠く神代に起こり、素盈鳥尊より三十一文字に定まりしは事能く人の識る所なり。夫より幾とせを経て俳諧体を分かつ事は古今和歌集に見えたり。これに傚い連歌に又俳諧体あり、世下りて武将足利制度の頃、守武宗鑑などいえる者出て単に俳諧の発句と唱うる一種のものを起こす。爾後さまざまの流派おのずから分かる。正保年間西山宗因難波に任し、談林調の一派を起こして大いに世に行わる。遂にこの流れより来山のごとき達吟を出せり。吾祖川柳翁も元同派より分かれて出藍の誉れ高し。その頃連歌の体に傚い前句付いうもの流行し翁もこの道の判者と仰がれたり。然るに当時他の判者中に事故ありし為、翁も一時官廷に召されて其口調の尋問を請けたれども、柳風の一派は元来勤懲を専らとし天理を説き人道を諭し総じて心学に渉る事を務る旨を答え、其句調の他に異なるを証言して一句を差し出す。曰く、

    高枕これも日光細工なり

と、之即ち東照宮の乱れたる世を治めたまいしに因り、其疵蔭を以って人民枕を高く安眠するを喜び謝したるの句意なれば、却って幕吏の褒賞に與り、其れゆえを以って公然判者を許されし由。この事は予が叔祖五世の翁より伝聞する処なり。祖翁是よりしてますます俳道を研究し、従来用いたる下の句の題を捨て初より一句立てとはなしたり。是を柳風狂句の權輿とす。降って文政の末年人見四世翁に至り、俳風狂句と改称されたる事は同翁の筆記するところなり。斯変化して来たれども往時に溯れば一派の俳句なること明瞭なり。されば和歌と云い俳諧と唱へ前句狂句と其の名目こそ換われ、詰まる処は造化の妙用に従い人間に備わる七情の懷を述べ、或る時は花に七日の短きを惜しみ、又或る時は月に狂雲の影妬む事を恨むなど、其言の葉の上にこそ雅俗の差別はあるとも、其おもむく処に換わる事なし。」

 

同年十月機関紙柳之栞を創刊し、又明治三十丁酉年七月柳風狂句栞といえる雑誌を発刊したれど、孰れも三号雑誌にて終わりき。曩きに明治二十八乙未年三月柳宗忌を修し以後之を定例と為す。九世が柳宗忌序言に云う、

「凩しや跡で芽をふけ川柳の一句を残されたる吾曩祖柄井の翁は、予め未来を推測され寛政二年の九月二十三日を以って雲隠れ仕給給いしが斯の遺吟空しからず、其跡を植え継ぎし者先師まで八つの数とは成りぬ。元来祖翁の正忌は前記九月二十三日を用い来し處、去る二十二年の秋正当百年忌の際、予が計らいを以って陰陽暦を対照して十月二十日を用いる事とせり程、一昨年二十六年より従来の祖翁忌を単に川柳忌と改称し、是を秋季の例祭と為す。されば之に準じ二世より先代までを合祀して柳宗忌と名ずけ、中祖四世翁の忌日陰暦二月五日を陽暦に改め三月十二日を以って春季の例祭日と定む。然るに本年は創設に依って百事整はざれば、同年に十四日に延期し浅草公園の五色亭に執行す。当日の模様は豫て予が拙き筆もて一幅の内に写しまいらせたる、七霊の肖像に辞世の句を添えたるを神主と為し、正面床の間に掲げて酒餅香花を備え、又有志諸氏よりも特に献供等ありて賑々しく開巻したれば、代々の御霊も嘸な歓び給いし事ならん程後の栄えを祈ると共に、其景況と当日選けに上りたる佳吟を併せて全国会員諸氏の許に報告する事爾り」

と、按ずるに柳宗忌の例祭は九世の創設に係り、以後宗家に於ける行事の一と定めたるものなれど、九世の死亡と共に自然的廃絶に帰し、今は従来の祖翁忌のみとはなれり。従って七霊肖像の一軸は十一世まで之を伝えたりしかど、他へ転して現存の宗家は所蔵せずとなり。

 

明治三十二己亥年十月開晴舎昇旭(後の十一世川柳)と共に、柳風狂句改正人名録を発行して風交上の便に供せり。又別に明治新調柳樽数巻の梓行あり。

 

明治三十七甲辰年四月十一日没す。享年七十。龍寶寺柄井家の墳塋に葬る。法名は緑影院和橋川柳居士。辞世に曰く、

誘われて行なら今ぞ花の旅

明治三十八乙巳年四月十一日の小祥忌に際し、九世が長子柳之助なる者向島三圍稲荷神社の境内に在る五世六世石碑の側に、

    出来秋もこころゆるむ那鳴子曳

という父翁会心の句を鐫つけたる建碑の挙あり。碑面の筆者は五峯高林寛にして其背に左の伝記を刻せり。

「九世川柳翁名正秀前島氏号萬治楼義母子又号和橋以其生干江戸室街家近干日本橋皆取名焉及嗣柄井氏称川柳別有緑亭無名庵等之号明治三十七季甲辰四月十一日殉享年七十葬干浅草龍寶寺翁之俳詞称柳風寶寺翁之俳詞称柳風狂狂句其社曰柳風連多季之執牛耳名声震干遠邇矣其可伝遺鉢者為昇旭昇旭有昇旭昇旭有故雪雁暫承其の後

明治三十八季乙巳四月

        男  前島柳之助 建」

又同年九月小林昇旭、九世の遺嘱に因り、誘われての遺吟を彫せる碑石を龍寶寺庭前の門内右側に建つ。此碑の筆者は十世川柳なり。

按ずるに、九世川柳は博覧にして雑学に渉り、教育勅語解、大日本大祭祝日解、本朝歴史、本朝名婦伝、終身教育、新家庭教育、釋尊御一代記、興教大師一代記、圓光大師一代記等短編物の著書頗る多しと云う。

 

 

 

 

 

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