トップへ

 

 

 

八世川柳

 

上毛の人。富田永世の男にして、文政三庚辰年八月二十五日富田町に生まる。幼年の頃江戸に出、旧幕旗下の臣大久保家を継続す。諱は忠龍、左金吾と称し御廣敷御用番より清水家付けとなる。嘗て佐藤一斎に随い漢学を修む。雑学亦宏博なり。維新の際主家の叛状を忌避し旧領武州児玉郡の地名に因み、官準を経て児玉環と改め以後之を通称とす。柳風は天保十三壬寅年冬より五世風叟に従遊して括嚢舎柳袋と号し別号を任風舎と云う。五世没後六世の着遇を受ける事最も厚く、我が没後は足下管領すべしと時々戯言せられき。明治七甲戌年一月官に仕えて岩鼻県十三等出仕に補せられ、同九丙子年四月秋田県に転し同年五月中屬に補し、同十一戊寅年一月権大屬に任ぜられしが、同年十一月二十五日辞職して帰京の後は、閑散風月を友とし再び柳の道に遊ぶ。下谷区谷中清水町一番地に住す。明治十三庚辰年四月大過堂眞中と共に生前に追善会を催し、以後化外を以って別号とす。六世遠逝の際継嗣を慫慂する者ありしも辞して応ぜず。明治二十亥年秋七世翁柳壇を辞するに及び、同年十一月二十七日東京府外神奈川、千葉、山梨三県の社中投票を以って後嗣に当選し八世川柳を襲名せり。

 

八世立机の際主幹たりし大過堂眞中、錦太楼鉞青陽舎柳が八世川柳立机披露会柳風狂句合跋文中に云。

「我安永の際、柄井川柳風流洒落狂句の一派を開いてより二世三世に相伝し、三世は其任に協はずして退職し、四世川柳は社中の推選に依って暫らく牛耳を執り、五世水谷川柳は四世の選抜に係るも能く其任に適し、博学多識頗る此道の隆盛を致せり六世は其男なり。七世は其親族にして亦社中二三老輩の推挙に依って就職せり。然に七世は客歳秋退隠せられたるを以って、八世川柳其人を挙げるの議起これり。是に於いてか之れか委員を設け相評議せしに、広く社員の投票を以って選挙することとなれり。則同年十一月二十七日神田区相模亭に集会せしに、府下は無論南総甲府八王子等よりは代理人出席せられ、公選の結果児玉柳袋氏投票の最多数を占められたり。而て同氏齢既に六旬に超えたるを以って固辞せられたるも、社中多数の苦勤に依り遂に八世川柳の冠冕を載かれたり。依って其交壇披露の挙あるに及び、同氏及び委員各位より迂生等に本会の擔任者たらんことを嘱託せられ、迂生等亦此道の為に奔走することを厭わず、案内各位に広告せしに、八世翁の人望ある各位の祝評甲乙百十余名集吟積て二万有余章となるに至れり。依って曩日広告せし斯日を誤らず、五月五日六日の昼夜を徹し浅草区鴎遊館に於いて開巻せしに、地方各位を併せて一百余の出席あり、秀逸の披口に際しては喝采の声墨田の中流に響き浮遊鴎児をして殆んど警飛せしめたり。実に未曾有の盛会と言うべし云々。」

と、以って八世嗣号の顛末及び其の性格の如何を想見ずるに足るべきか。

按ずるに、八世翁は謙遜辞譲の徳に富み曩に六世病没の際、七世を嗣号せよと慫慂する者あれど、予は固辞し後ち七世風也坊退隠に際し、社中の多数の投票を以って八世たらんことを請いたるも、亦辞して容易に応ずるの気色なかりしが、説者あり、柳袋氏は既に逝けりとするも化外氏いまだ存命なり何ぞ辞するの理あらんやと、翁も今はた詮方なきに之を諾せしなり。

明治二十三庚寅年十月宗家継承記念として柳風肖像狂句百家仙の編輯あり。翌明治二十四辛卯年三月改正増補柳風狂句交誼人名録を編集して社中頗る交際上の便宜に適せり。

 

明治二十五壬辰年十月一日没す。享年七十三。

八世の没年、俳諧年表には明治二十四辛卯年の條下に記しあれど、これ大いなる誤り。又七世の没日に関し、或云七月と割註しあるもこれは恐らく太陰暦の月を誤り伝えしものなるべければ、ここに付記しぬ。

小石川区茗荷谷町二十六番地曹洞宗青龍山林泉寺に葬る。法号は川柳院徳法環翁居士。

辞世に曰、

    散るもよし柳の風に任せた身

 

 

 

 

 

inserted by FC2 system