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七世川柳

 

初め山縣氏幼名は仙太郎。広島久七と通称し、雪舎と号し庵号を風也坊という。水谷家の姻戚にして浅草区吉野町八十一番地に住し煙草問屋を営む。七世翁は俳諧師にして帷草庵帷草を師とし、遂に帷草の別号風也坊の印可を請け以後柳風に於いても此号を用いる。帷草没して由推実を師とし後、施無畏庵甘海の門に入り一丸と号し、後年得蕪の跡を襲ぎ二世福芝斎蕪壌と名乗る。最も書を能くす。安政年間六世翁立机の際より始めて柳門に入り、遠近普く毎会殆んど欠くことなく多額の出句をなし、自ら会幹の任に関する事大小四十余回に及ぶ。明治十五壬午年六世没後十月、宗家姻戚の縁故により社中の耆宿括嚢舎柳袋、大過堂真中、臂張亭〆太の後援を以って蜿@七世を嗣号す。専ら開化の新調と称して拮屈奇矯の格調を唱う。柳界靡然と七風に化し宛ながら荻生徂徠が古文辭学を唱えし当時の如き観ありき。恁くて明治十八乙酉年四月羽前の風士住吉庵悠哉の勧告に基ずき、柳風交誼人名録を編集して此道の交誼を拡張せり。又明治二十丁亥年晩秋柳風狂句万題集を発行せしが、完成を告げずして止みぬ。同じき年九月十一日退隠して名を柳翁と改む。

伝うる所には七世翁退隠の事其の本意にあらざりしが、三耆宿推挽の当時或期間後退隠すべき誓約ありしに拘わらず、無視して辞譲せざりけるにぞ、眞中より厳しく其の履行を促され、遂に余儀なく退隠することとなりしかど、現地位に恋々たる七世は何思いけん突如として先例なき左の後嗣公選の議を提出したり。

 

一、迂老近頃稍衰弱に及び、机上従事疲労に仍而断念退隠願度就而ば社中一同不日集会御催被成。後任は投票選挙の上御決定可被成候。

一、本日の会に出句不被致欠席の君えは、迂老より此旨通達致し置候間会席及び期日確定の上は為念不漏様御報知可然侯。

一、前書の件は地方社中へ悉皆迂老より広告致候。

一、選挙の上嗣号の任に当たり候君は御一名にて、迂老に御入来可被成候余人御差添の儀は謝絶いたし候也。

      明治二十年九月十一日     七世川柳

   東京柳門社会 御中

此の一種珍妙なる提議は、第五四月次親睦会の抜萃に付記して発表せられけるにぞ、東京社中もこれには痛く面食らいしかど、協議の末東京府及び近県の社中投票を行うこととなれるが、七世の真意蓋し近県の社中の衆望を自身に集注せしめ、其の投票を以って現地位に留まらんことを画策したるものにてあるけんも、開票の結果は予期に反し括嚢舎柳袋の当選となり、ここに満々たる野心を抱きつつ退隠を余儀なくするに至れるなりといえり。

 

爾後加評の位地に在りて、一方の裨将たること四年。

明治二十四辛卯年九月五日没す。享年六十七。東京府葛飾郡吾嬬町大字亀戸二百四十五番地曹洞宗亀命山慈光院に葬る。法号は清風庵涼月柳翁居士。辞世に曰く、

戸締りを頼むぞ吾は先へ寝る

 

按ずるに、元祖以来の柳風は五世の立机後、天保度の改革似合い俄かに挫折してより、再び旧に復せず、哀類其の極に達し平淡俗語を本領とし滑稽軽味を生命とする風刺奇警の風調地を払って其の跡を絶たんとせり。されど維新前までは多少見るべき柳句なきにしもあらねど、七世時代に至り専ら文明開化の新調と称して在来の川柳を破壊し、拮屈なる漢語調の技巧弄作に選を取り、堕落に堕落を重ねて痴人の藝語と擇ぶところなきたる洒落なる語呂合謎々の即興的遊戯文字と化せしめたるは、是時代の思潮の傾向とは申しながら、一は七世翁が誤れる引墨の致す所に外ならず、実に柳会の荒廃七世次代より甚だしきは無く、其の在世前後十年間に於ける選評幾多の摺巻は全然縁語ずくめの俗悪調を以て充たされ、川柳の真生命を伝えるもの殆んど皆無にして、元祖以来の川柳は茲に到って精神的に滅亡しけれりと謂うべきにや。

 

 

 

 

 

 

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