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六世川柳

 

五世水谷氏の長男にして、幼名を喜代松と云う。幼名金次郎と記せる書あれど、今六世の遺族及び古老の伝える所は全く喜代松にて、金次郎は恐らく六世の孫に金太郎と云えるものありしを聞き違えて記せしものなるべしとなり。

後父の名の金蔵を襲ぎ隠居して謹と改む。初め「ごまめ」と号し岸姫松連の巨擘たり。父没後順を以って六世川柳を襲名し和風亭と号す。父翁所定の式法に準拠して、其の規矩を越えず引墨最も勉む。

安永七庚申年(蔓延元年)春より文久慶応年間に於いて画入柳多留数巻を上梓して世に行う。

明治三庚午年四月父翁風叟十三回忌追善のため、

    和らかくかたく持たし人心

といえる五世の吟句を刻せる碑石を菩提所築地本願寺に建立し追福大会を催して柳の栄三巻梓行す。

碑面の筆者は古稀加一翁書とあれど、これは有名なる歌文家井上文雄の事なり。此の句俳風狂句百人集には「和らかで」とあり、又五世の自筆には「和らかに」とあれど、今ここに「和らかく」とせしは五世翁没後文雄大人加筆せしものなりといえり。按ずるに井上文雄は明治四辛未年十月十七日歳七十二にて没したれば、其の前年即ち七十一歳の時に斯くは古稀加一翁と書せられしと見えたり。又碑の後背に次の通華厳所依の経文を記しあり。

「化現其身猶如電光善学無畏之網暁了幻化之法壌裂魔網解諸纒伝超越声聞縁覚之地得空無相無頼三昧善立方便顕示三乗於此中下而現滅慶亦無所作亦而現滅慶亦無所作亦無所有不起不滅得平等法具足成就無量総持百千三昧諸根智慧広普寂定深入菩薩法蔵得佛華厳三昧」

後建碑の場所は官用地となりしゆえ、明治十四辛巳年五月向島なる三圍稲蔵神社の境内に之を移転し、転碑会狂句合の挙あり。それと同時に、

    つまらぬというはちいさな智慧袋

の自句を鐫つけたる壽碑を五世の碑の傍に建て、しげり柳を版行す。是より先き明治十二己卯年十一月開化家内喜多留を編輯し、又二代目笠亭仙果(通称篠田久次郎狂名月之戸須本太)と共に明治新調月鼈集を発行せり。

 

明治十五壬午年夏有柄川宮幟仁親王に謁し、

  かわ風の吹きかたよりになびけども

         みだれざりけり青柳のいと

という御染筆の和歌一首を賜り畏み歓びて、

  吹きおろす風にひれ伏す糸柳

の吟句を以って奉答し、こよなき面目を施こしたりしが、幾程もなく其の年六月十五日、日本橋区伊勢町の旗亭(今の中華亭)に於いて会宴中卒かに病で没す。

辞世の句なし。享年六十九歳。

 

水谷家に伝うる所の画像あり。柴田是眞の写生せしものにて、羽織に袴の礼服を着したる座像の上に、括嚢舎柳袋(後の八世任風舎川柳)が有柄川宮の賜歌と六世の奉答句とを首書し、次に左の詞書をしるせり。

「先師六世翁の風韻大内山に聞こえ、かしこくも有柄川一品の宮より王製の和歌一首を賜り、狂句もてそか返し奉りしとて、いと嬉しみ悦れしか、幾程もなく遠き路に旅たたれ思すも冥土のつととなりにしを惜しみ孝子こまめぬし、是真翁の師が生前画かれし肖像の上に掲げて朝暮の拜票として、追慕の情を慰る具とせらるると聞き懐旧の涙を硯にそそぎ事のよしを書き添えるになん。」

按ずるに、六世は急病にて終わりたれば辞世の吟なし。故に一世の栄たる有柄川一品宮幟仁親王より台賜の御歌へ対し奉りて、御返しを申し上げたるが一世の吟み収めなりしかば、宗家にては其の奉答句を辞世に換えれるなりといえり。

築地西本願寺の先塋に葬る。法名を釈祐正信士と云う。

 

吉澤六石が六世川柳翁追薦狂句合(明治十六年六月二十四日開巻)の序中に曰、

「翁資性宥厚句調靄然、又善々部下を遇す。旧幕府其篤志を挙て賞銀を給うこと既に三度に至る人。佃島の渡りに至って宗匠を訪うと言えば、船子其賃を辞すと云う。

維新後東京府廳褒状を賜うて、其善く一島を御するの功労を賞するを数次、以って其徳望あるを知るべきなり事雲上に達し、有柄川一品親王玉歌一章を賜る。翁亦返草あり嗚呼翁の栄誉浅からずと言うべし云々」

按ずるに、九世川柳が記に云。

「予は明治二十五年の五月柄井家再興名跡相続の後、同年十月川柳忌の前日菩提所龍寶寺に於いて告祭の法要を営み、其際元祖より三世までに居士号を贈る。又水谷二氏は真宗の習慣として、平民に院号居士号を許さぬ仕来りなりしが、明治二十七年の六月十五日の十三回及び八月十六日(陽暦に改め九月十二日)は五世の三十七回忌相当なるを以って、之を引上六世の忌日に西本願寺の輪番某氏に懇願して許しを得たれば、予の考案にて五世には眞實院、六世には安楽院の院号及び居士号を贈りし云々」

と、誠に然る事のありけるや、今菩提所の寺牒を徴し見るに、さる形跡のありしとも認められねど、参考の為ここに注しおきぬ。

 

 

 

 

 

 

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