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五世川柳

 

水谷氏通称金蔵。日本橋茅場町に生まれる。父は魚商たりしが、九歳の時親を失い佃島の漁夫水谷太平次に養われ同所東町(今の京橋佃町三十四番地)に住し、御用魚商を営む。初め貧窮なりしが大いに家業を力め資産を興し、身裕かなるにつれ天凛の才を傍ら文学の研究によせ、腥斎佃リと号して二世川柳の門に入る、時に年十九、文化二乙酉年なりき。二世没後四世人見川柳の門下となる。柳亭種彦と親交あり。伝うる所には種彦が偐柴田舎源氏の草稿は必ず五世の検閲を乞しとなり。

 

又当時歌文の大家井上文雄、加藤千浪等と交を結て歌学にも頗る通暁したり。天保八丁酉年八月四世の譲りを受けて五世川柳となる。

 

種彦が五世川柳名弘会(柳多留百四十六編)の序に曰、

「川柳の名を継ぎて五世となるものハ誰ぞ。佃島の佃なり所のさまも須磨に似かよい、明石町へも言いわたる程なれば、香の国の焼印押したる、はんだいとかいう魚桶に源氏物語をとり重ね、せわしき物師走の月に杭さらしを操ふらけど、旦には日本橋の市に立ち、夕には等盤帳面を側におき、活計更におこたらず其暇なきうちに彼書を読み狂句を吟ずる事数年昔、境の薬種屋が宗祇を請ぜし連歌の席にて胡椒三文秤にかけて売りたる類、実に風雅の人にしあれば先生と崇められ宗匠と尊まるるは、原来(もとより)(のぞま)ぬ事なるを、四世の川宗故ありて其名を譲るに(いぶみ)がたく、佃子の諾されたるは、いわゆる以心伝心なり。かく名声にかかわらぬ子が性質なるにより別に大会を催さず、唯月並みの会を評して名を継ぎたるよしを披露す。そのことわりをここに記すは彼香の国に因ある偐柴の作者柳亭のあるじ種彦なり。」

と以って五世の為人と来歴とを想見ずるに足るべきか。

 

又五世嗣号の事に関し九世川柳の説に、

「当時麹町に住む五葉堂麹丸なる者豫て五代目の立机を望み居たる処、鎧図んや四世翁の先見明らかにして、直接佃へ祖先伝来の印章そのたの書類一切を授與すれければ、麹丸の失望比喩るに物なし。ここにおいて当局者は素より常に麹丸の恩を蒙る者共は憤然となり、同人も煽動して別に山の手へ一派をなして緑亭翁に抗し何をか為す事あらんとす。然れども昔の人は正直且恥を知るが故濫に宗家の名義を犯す事なく、依然麹丸の名義を以って立しが、終始敵する事能はず大いに後悔したるを、入船連(日本橋)、唐獅子連((中橋)、和歌堀連(南北八町堀)等の連中協議の上先師人見翁に仲裁を頼みしかば、翁は密かに麹丸を説得するに、遉は江戸っ子の性質諸事に分かりが早く何分宜しくと折れて出でたるゆえ、翁も大いに喜ばれ双方を扱い、当時木挽町にて有名なる割烹店粹月において和議を調え、以後麹丸は加評名義にて通常の楽評にはあたざりしと。夫より後五世翁も同人に対し特に待遇を厚くせしかば、其の厚意に基好き弥よ斯道に画くしけるにぞ、麹丸の名は今日に至るまでも毀傷することなく世にもてはやされしも、一っは己を顧みるの思慮あるがゆえなり。」 

と誠しやかに記しあれど、いまだ其の証跡を認むべき史料に接しず。且九世は五世と姻戚関係あり、五世一代を修飾せんが為したるものにあらずやと疑うべき点なきにしもあらねば、ここに一説として註しおきぬ。

 

緑亭、風叟の別号あり。四世命名の俳風狂句を柳風狂句と改称す。初めて柳風式法を定め地方判者免許の制を設く。

柳風式法の事長ければ後に付記すべし。

或る記に、地方に於いて立机免許を請けたる者は其の地限り、公然と点料を取りて引墨に従事するは無論のことなれど、立机者は冥加の為元祖以来歴代の宗匠を祀る意にて五六世の頃は供物料と称し、新年に到れば凡そ五百疋(当時の通貨金壱両壱分)を宗家へ献納せし由。且其の頃の点料は一句一文なりしと云う。

按ずるに、五世嗣号の天保八丁酉年は、恰も一点人の口を干すいう綽名の出でし所謂天保大飢饉の翌年にて、米価は百文に四合より二合五勺に暴騰し江戸市民が生活難に苦しめられ、春来火災多く人々不安且疫病流行、市中三箇所に救う小屋を立て、貧民をふるわすの凶歳たるのみならず、三月には大塩平八郎大坂に乱を起こし、六月には米艦浦和に来るを砲撃し、十一月には三河島砲台を修築すと云う世の有様にて、人心恟々今に天下の大乱起こらんとするが如き物騒なる時にてありき。幕府に於いても大いに戒心を加え財政を緊縮し風紀を取り締まり、天下に令して勤倹尚武の警告を発するに至る。尋ねて執政水野越前守忠邦諸政を改革すと云える時代となり、風紀の取り締まりは実に峻厳を極め富興業を禁じ、文身を禁じ、劇場の散在を禁じ、岡場所と称する遊所を禁ずるなどの外、出版物に対しても

「自今新書物の儀、儒書、佛書、神書、医書、歌書とて書物類其筋一通の事は格別異教妄説を取交え作り出し時の風俗人の批判等を認候類好色画本等堅可為無用事」

と云う町觸を発し人情本や俳優遊女の図など皆発行禁止し、版木を没収すると共に柳亭種彦、為永春水、寺門静軒など皆取締令に依り処罰せられたりしにぞ。

元来五世川柳は極謹直に真面目なる性格にて、移住地佃島の悪風俗を慨し切に勤善懲悪の道話会などを開き、盛んに風俗の改善を計り終に幕府より褒賞を受けし程の人格者なりしかば、深く此時代の趨勢に鑑み、文芸の余技たる狂句川柳も従来の如き楽観的洒落ならんは、風俗を紊乱し世道人身に弊害を及ぼすの虞れあれば、自今道義の上に立脚せざるべからずとの見識を以て柳方式法なるものを定め、且つ柳門維持の為封建的世襲の制度を設くるに至れり。さらぬだに四世の頃より衰徴の兆しを誘起しつつありし事とて、今此五世が誤れる改革に依り全く川柳(作句)の真面目を変化せしめたる結果は、斯道に大打撃を与え精神的に其の本領を滅亡せしめ、これより以後の川柳(作句)は皆悉く仁義、忠孝的の単語となり、従来滑稽の中に含蓄せる、穿ち可笑味の洒落は遂に得られぬこととなりぬ。

 

天保十己亥年九月元祖川叟五十回忌追善の為、木枯の遺吟を彫刻したる碑石を龍寶寺法堂前左方に建て大会を開催して俳風柳のいとぐち二巻を発行す。

此石碑は当時有名なる書家田畑松軒の筆にして碑面後背に次の通り記あり。

  柄井川叟五十回忌為追善建之

          五代目

             川柳

  干時天保十己亥年

        九月吉祥日   世話惣連

               催主 壽山

                  升丸

 

天保十二辛丑年正月新編柳多留を創刊し、爾後年々続刊して五十有余集に及ぶ。

按ずるに新編柳樽に二種あり。一は五世風叟撰にて錦耕堂山口屋藤兵衛板なり。他の一は当世堂蔵梓に依り表紙裏面に次の如く記あり。

川柳宗匠撰秀吟書抜    

新編家内喜多留 全    

     東都  当世堂蔵

上記の如く記しあるも、表題の貼紙には編数を記入したる角印を捺し、其の題名表紙共錦耕堂板と同一の様式にして、唯新編の二字を横に額書せるの差あるのみ。

当世堂板の新編柳樽は嘉永初年の頃数編を発行せしに止まるものの如し。

弘化年中絵本柳多留数編を版行し、其の他一代の撰集枚挙に遑あらず。

 

安政五戊午年八月十六日没す。享年七十二京橋区築地二丁目十八番地真宗龍谷山西本願寺別院に葬る。法名は釋浄豊信士。辞世の句に曰、

    愛されし雅を思い出にちる柳

 

水谷家に伝うる所の五世風叟の画像を見るに、安政五戊午年立冬日綾岡(清松輝松)の懐影慕写せるものに係り結髪にて、酸漿黄蓮の五紋所ある羽織と袴の礼服を着し短冊と筆を手にし、左側に扇と刀とをおき右側に上和下睦の題字ある墨をのつけし大硯を扣え、其の風貌如何にも庄屋然たる座像の上に、六世川柳が筆もて五世の辞世を首書し次に左の如き調書あり。

「翁は壮年の頃も世業に怠りなく行いたたしき事、聞こえてふたたびまで尊命を蒙り御褒美を給りぬ、また花には入相をうらみ月には更るまで首をかたむかせ句を吟じ余事を忘れし甲斐ありて、ことの葉のしげみをわけ良木を撰り添削の斧当たる身とはなりて、益々此道繁り々々て昔に倍せし栄えこそ徳の至れるなるらん。世の末も流れを汲むもの此五世の教示をしたはざらめや。

    其振りを道の目当てぞ玉柳     」

五世風叟は学博和漢の古典より雑書に渉り、著述の書俳諧問答を始めとし、狂句百味箪笥、狂句新五百題、俳人百家撰、瑞應百歌撰、寿特百人仙、畸人百人一首、贈答百人一首、列女百人一首、秀雅百人一首、義烈百人一首、英雄百人一首、続英雄百人一首、勧善五常の玉、天禄太平記、祥瑞白菊物語、遊仙沓春雨草紙、於竹物語、田舎織糸線狭依、政談国画、誠忠義士略伝等ありて世に行はる。

 

按ずるに、五世の享年七十一歳の説あれども、今衆説に従い七十二歳と記しぬ。

 

五世時代に於ける俳風柳多留は百四十六編より百六十六編までにて終止したりき。

(此檉風記述は誤り。百六十七編まで確認されている。)

按ずるに或る書に柳多留は嘉永三年までに第三百八十三編迄出版とあり。されどこれは何等根拠なき妄説にして信ずるに足らず。

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