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四世川柳

 

人見氏、通称は周助初め眠亭銭丸と云い風楓庵と号す。八丁堀(今の日本橋北島町)に住し江戸町奉行付同心を勤む。文政七甲申年二月三世より点式の譲を受け四世川柳となる。

元祖以来の前句附に対し初めて俳風狂句なる名称を付し、狂句社会に於いて斯道中興祖と尊称せられき。

按ずるに川柳(作句)の称呼に就きては、元祖以来之を前句附と云い又川柳風の前句、或いは川柳点など区々の称ありて一定せざりしが、四世に至り初めて俳風狂句なる名称を付し、且つ其の風調に変革を行い盛んに之を鼓舞して時流に投したりしかば、其徒より中興の祖と称せらるるは然もあるべき事ながら、之が為元祖以来の本領を精神的に衰滅せしむるの兆を誘起したる事実は否定すべきもあらず。されど此事は川柳の変遷史として別に論ずるべければここに漏らしぬ。

 

文政九丙戌年八月向島木母寺境内梅若堂の庭前に元祖川叟報恩謝徳の俳風碑を建設し、末広大会を開きて俳風芽出し柳を発行す。

此俳風碑の事に関し万治楼義母子(後の九世川柳)が四世川柳自身の壽碑なりとの異説を提唱せしより、以来世皆斯く伝えせし、筆にも記しこととなれるが、言わば全く義母子の誤解に出でたる僻事にて、真個に元祖川叟の俳風頌徳なる事実は別に俳風狂句元祖碑石考に詳記しおきぬ就て見るべし。

 

天保八丁酉年八月勤務の都合に依り、自ら退隠して点式を腥斎佃リに譲り柳翁となる。天保十五甲辰年(弘化改元)二月五日没す。享年六十七赤坂区臺町四十七番地浄土宗川勝法安寺(川勝丹波守建立の寺)に葬る法名は崇徳院仁誉普仙居士。

辞世に曰、

   香のあるを思出にして飜れ梅

菩提所法安寺は教導団兵営地となれるを以って、四世の孫女(実は嫁)人見春子の計らいにて、明治二十三庚寅年四月中人見累代の墳墓を東京府荏原郡大崎町上大崎七百六十五番地浄土宗極善寺に移したりしが、其の後明治三十五六年の頃又々他の寺院へ改葬したる由なれども、今其の改葬先及び遺族の所在とも不明となりぬれば尋ねるべき方なし。能く知れる人を待て明らむべきものなり。

 

按ずるに、九世川柳が記に云、「八世川柳の言に、礫川は四世嗣号の際大いに競争したり。」とあれど予は未だ其証跡を見認めず。或いは八世翁の思い違いなるべし。如何んとなれば礫川翁在世追善会の後十年を経て、眠亭銭丸川柳第四世を嗣号せし際、其摺巻本に翁の跋文あり、次に掲ぐるを読みて其の思想を覚うるべし。

「柄井川柳叟世を辞してよりこのかた、二代目三代目その名を継ぎりといへども句々を判するにいたりては一流の滑稽幽妙を失うに似たり。

たとえば、盲人の象を探りて足を撫でては桶なりと云い、尾を曳いては箒ならんと云いて、いかでか其の真を見ることあたわず。今さちに四代目川柳なむ出でて、全象始めて見え、ただちに真面目を得たり豈よろこばしからずや。はた古柳翁嘗ていえる事あり、もし百年の後ふたたび我が奥旨を知る人出んと、まさに此川柳雅士のために云えるなるべし。嗚呼川柳なる哉干時。文政八年酉の孟春七十八歳文日堂礫川題ス。

   春風にうちまかせたる柳哉  礫川」

右の序言を見ても競争などの卑劣を行いし人とは思われず、是より以後川柳の加評として相撲会ある時は必ず西の立評を為す云々と、いかさま礫川の跋文に穏やかならぬ言辞もて四世の為に、二世三世を斯くばかり抑え一方の四世を掲げ居る所より見れば、其の人と競争などせしとは思いも寄らぬ事にや。

 

四世時代に於ける誹風柳多留は七十九編より百四十五編まで六十七冊の大部に上りき。

 

 

俳風狂句元祖碑石考

 

碑は東京向嶋木母寺境内梅若堂の庭前に在り、石質は自然物の野面ラ平滑な青石で、地平線の直立面縦七尺二寸・横四尺五寸のものを、別に台石をもちいず、地中根深く据え付けてある。

表面には、其の筆者不明であるが中央に「川柳翁之碑」という六寸大の五文字を、其の肩書に「東都俳風狂句元祖」という略三寸大の八文字を隷題し、裏面には上部扁額に総評末廣會と楷題してあって、其の下方に凡そ三十句ばかり鐫りつけたように見えるが、彫刻の鏨浅かりし故にか文字壊滅してさだかならず。結尾の左側僅かに「文政九」という年号を判読し得る、他二三の残缺文字がわかるばかりである。案ずるに末廣大會の評者は、其の当時の三輔が句に「句の評も風雅に和歌の三十一人リ」とあるが如く、四世人見川柳を始め都合三十一人であったから、此人々の咏句を鐫りつけて記念としたものかと思われるが、他の面より考察すれば、或いは本碑建設の来歴を叙記したものではなかったかと思われぬでもない。また裏面の現態が、上部略一尺位より下方は悉皆平滑で、殆ど文字彫刻の痕跡だも認め得られぬ程になっている所より推究すれば、碑石創建以来僅々百年足らずの短期間に於ける、風雨酸蝕の自然的壊滅としては、天工の余りに巧妙過ぎる観があるので、或いは何か特殊の事情突発の為、後日人為的に其の前面を磨潰したものではあるまいかと想像されぬでもない。否その方が、寧ろ真に近いという暗示を与えているものとおもわれるが、今日では碑石以外に憑信すべき材料無く、確かめるに由ないのを甚だ遺憾とする。而して此の柳碑は、末広大会が風松なる者の催主で、文政九丙戌年八月二十八日の開巻であったのと、如上「文政九」の彫刻文字とに徴し、大会開催と同時に建設したものであるという事実が確認できるのである。

此の柳碑の事に関しては、萬治楼義母子(後の九世川柳)が、明治二十二年十月開催の柄井川柳墓参法延会の摺巻に登載せる「元祖川柳翁石碑」の項中に、

「碑面に元祖川柳翁とあるゆえ、誰しも柄井翁則ち初祖の事と思えどさにあらず、是ぞ四世川柳の壽碑に相違なし。四世は元祖伝来の前句付を始めて俳風狂句と改称せしゆえ、茲をいて狂句元祖と自称する由(この事は別項沿革考の中に記す)古老より聞き伝えたれど、猶疑はしければ、一日人見家(四世の孫)に到り古き書物等を取り調べしに、全く四世の壽碑なる事を確に発見したり。依って此疑を解ん為故らに記し置くものなり。」

と明記して、ここに一異説を提唱し、後亦中根香亭が「文芸界」に連載せる「前句源流」中に、此柳碑の事を記述して、

「先年吾が友桃廼舎鶴彦ぬし、此の碑におきて論じたることあり、今其の大略を挙げぐ。ぬしの曰くは、此の碑、初めは吾が初代川柳の碑とのみ思いいたるに、さわなくて、こは四世川柳の建てたるものなりというものあり。されど猶疑いいたるに、先頃九世川柳萬治楼義母子、四世嫡孫人見為助氏の許へ至りて、古書を調べ、慥に四世の建碑なること明らかになれり。尚又人見家に蔵する四世が肖像の自賛中に、「今は下の句ありて上の句をいえるは少なく、初めより一句に作りたるが多ければ、俳風狂句とよべるぞ、おのがわざくれなりける云々、天保三年壬辰春睦月某日東都俳風狂句元祖五十五叟四世川柳」とあれば、四世が元祖と自称したるは疑いべくもあらずや。されど初代川柳出でて、此の道始めてより、是より二世三世を経て、四世におよびたるに、此に至りて四世の元祖と自称するは、如何なる理由あっての事なるか。もし俳風狂句と改称せしをもて、然よべりとならば、五世も亦俳風を柳風と改称したれば、柳風狂句元祖と称すべきか。猶其の狂句元祖と記したる筆の続きに、四世川柳としたるは、頗る自家撞着の観なき能わず。また元祖ということ、初祖に対しても、少し憚るべきことならずや。吾は敢えて古人を傷つけんとはあらねど、後人をして惑わらしめんが為、斯くはいうなり。凡そ著名の地に建つる碑石などに刻する文字は、しかる紛らわしきことなからんように、よくよく注意なしたきことなりといえり。寂思えらく、元祖という文字、当面より論ずるときは、実に鶴彦ぬしの言の如くなれど、四世が元祖といえるは、猶本家又は家元といえると同じ義に用いたるなるべし。売薬屋などには、どうもすれば此の誤りあり云々。」

斯く論及してあったが、世の川柳家は皆此の異説に付和雷同して、四世人見川柳の行為を攻撃し、従って木母寺境内にある「川柳翁の碑」は、四世川柳自身の壽碑なりと断定して、其の不遜の罪を鳴らすもの、此々皆然らざるはなしの有り様となったが、今予が専攻の俳諧、主に川柳史実眼から見ると、上記義母子、鶴彦両説とも単なる当面皮相の見解で、全く考証錯誤の僻論にほかならないという事実を発見し得られるのである。

何となれば如上の「東都俳風狂句元祖」とは、四世川柳自身を自称したるものではないという反証があり、木母寺の「川柳翁之碑」は、四世川柳自己の壽碑にあらずして、初祖柄井川柳翁の頌徳碑たる確証があるからである。其の正否の一切は、建碑の動機及び末広大会の実質並四世が肖像の自賛を究明する事によって、はじめてその真に触れ得るのであるから、斯道の為是等偽らざる史実に憑徴し其の僻説を論破することにする。

但し誤解を避ける為くれぐれも断っておくが、四世川柳の選者たりし時代は、風俗日に惰弱揺麛に流れて、既に安永天明時代の撥刺奇警な観察眼がなくなった上に、風俗上の取り締まりが厳重であって、前句付の上にも厳格な道徳律を当てはめようとした為に、益が川柳を堕落せしめた事実は、予も之を確認するものであるから、此の点におきては、四世川柳の非を匡さらんとこそすれ、敢えて庇護せんとするが如き意思は微塵もないが、いわば全然別問題に属し、本案の場合と混同すべきものでないと思うから、上記の如き川柳史上の重要事たる考証錯誤の僻論に対しては、飽くまで其の紙繆を糺をして、事実の真相を闡明するの手段に出でざるを得ないのである。

前記「前句源流」の鶴彦説は、義母子説に基ける批判にとまり、新たなる史料に立脚しての論評でないから、義母子の謬的考証に出でた僻見であるという事実だに判明すれば、自ら雲散霧消に帰すべく、別に之を反駁するの要がなかろう。

そこで、義母子説に「人見家(四世子孫)に到り古き書物等を取り調べ云々」とは、果たして如何なる書類を指したるものであるかというのに、彼が所謂別項の「川柳嗣号沿革考」中に擧示しているところを見ると、単に四世川柳肖像の自賛を唯一引証としただけで、他に古き書物などがあったわけではなく、唯々義母子一流の誇張説を文飾したのに過ぎない。

而も其の自賛を軽々に読み下して誤解に陥り、他の最も緊切なる建碑の動機及び末広会の実質等に関しては、何等究明する所がなっかたので、遂に斯の如きあられもない疑惑を醸すに至ったものである。

然からば其の動機及び実質というに、此は末広大会の摺巻を閲見すれば、明白に其の内容を知悉し得るのである。則ち此の大会の選巻は、当時に於いて一部の単行本として板行せられた上に、猶ほ「俳風柳多留」九十七編乃至百編の四巻に収載せられ、且つ菅子が序文に其の顛末を叙述して余蘊なしであるから、左に之を抄録して、木母寺の柳碑が四世川柳の寿碑でなく、初祖川柳翁の頌徳碑なる事実の立証とする。

爰に狂句の元祖川柳翁は寛政二のとし故人となり、二代三代の間に俳風を催すといえども事ならず、今四代川柳叟の時に至りて此道の連中打寄り向嶋なる木母寺の境庭に創立せり、鳴呼川柳翁の末々広々なる事奇々妙々也、故にこたび諸連の惣評を乞大会を催し、其集吟の勝番を桜木にものし、柳たる九十七編と題し余れる句々を八九百と、四ツにわけたるとじ文も末広会もあさほしというべし。

             文政十辛とし冬の日     菅子述」

右建碑に関する事実の真相を究明するには、当時に於ける建碑の報條、広告の散紙等に拠るのは、最も的確にして且捷徑であろうと思うが、未だこれらの史料に接せざるを遺憾とする。乍然前掲「俳風柳多留」九十七編の序文の起首に「狂句の元祖川柳翁は寛政二のとし故人となり」といえる定言的宣示に徴して、其の碑面に所謂「東都俳風狂句元祖」とは、四世川柳自身の称に非ずして、初祖川柳翁を指したものである事が、争いべからざる証拠たるとともに、此建碑を企てるに至った経路も、炳乎火を観るより明瞭に分かるではないか。義母子何偽るぞ、建碑に関係もない四世肖像の自賛を援引し、途方もない異説を立てて、人を惑わすとはする、一体此義母子は万事物知り顔に言う癖のある男であったから、木母寺の柳碑においても、彼の四世が肖像の自賛を鬼の首でも取ったかのように、「四世川柳寿碑」の「発見」のと得意がり、忽ち例の衝気を出して其の実、義母子自身は大の四世崇拝者であった所から、柳碑と自賛とを結びつけて、大いに四世の遺徳を顕証せんと企図した事が、却て四世を殃ひし贔屓の引き倒しとなり了るに到ったのは、笑止千万な滑稽談である。

ここに附記しておきたい事は、予が所蔵する末広大会選巻収載の「俳風柳多留」中菅子が序ある九十七編の二巻は、義母子の旧蔵本で其の雅印が押捺してあるのみか、九十七編の表紙に「四世川柳建碑(木母寺境内)末広会ト号ス」と彼自身が朱書きしてあるので、無論此の編を閲覧したものと思うが、さあれ東碓、風也坊の雅印も捺してあり、又義母子が雅印は其の晩年新たに「緑亭」と篆刻した竹材(実は予が贈る所の仙台松島産の簣竹材)の雅印である所から考察すると、此の三人中彼は最後の所有者たらしものに相違なく、さすれば明治二十二年彼が「元祖川柳翁石碑」なる一文を作った際は、この柳多留を所有せなんだばかりでなく、他に末広大会摺巻の単行本だも閲覧して居らなかった当時の事とて、迂闊にも四世が肖像の自賛だけを見ての早合点は、遂に大間違いの基となったものであろう。

斯の如く柳碑創建の時期は、四世川柳時代に於いて風松なる者が催主となり、総連中協賛の下に建設したものには違いはないが、柳碑其の物は、初祖川柳の徳を頌せんが為であった事は毫も疑いを容るる余地がない。則ち此の建碑の挙は、四世川柳嗣号の文政七甲申年九月より三年目の文政九丙戌年八月で、時恰も初祖川柳翁没年の寛政二庚戌年より三十七年目に該当する所から、釈氏所定の追善回忌ではないが、三十三年の清浄本然忌は、四世が嗣号前既に経過し去り、来るべき五十年の半百回満忌は、前途猶遼遠で自己が時世中、祖先に対する本回忌追善供養の未必たることを察知し、七周の休広忌、十七年の慈明忌の回忌に準へ、三十七周の当年に於いて、宗家の祖先に対する追孝の意を表し、且つは二世依頼の惣案であった建碑事業の解決を告げん為に篤志を以て、末広大会なる前途祝福の好名莪下に、此の企てを為すに至ったものである事は、四世の意中を忖度するまでもなく、如実に菅子の序文が之を説明して余すところなしであるのみならず、更に更に同会の選句を以て之を推想するに難しからずである。

  短冊の紫雲へ置て手向の句     三輔

  碑の銘はアア執心の諸連名     古鳥

  是も亦アアと書たき柳子の碑    礫川

  雷イハ晴レ石碑へ孝の袖のあと   古京

  碑の建も回忌に丁度むかふじま   要宣

  埋れぬ名は寶井と柄井なり     三輔

  つかもねへ碑は親国いい手向ケ   春駒

  碑の会も三十七とせの忌に当たり  要宣

  風流の梁となる川柳        山笑

  新ン木が出来て芽をふく枯柳      

是等の追善句及び建碑の当句などが、末広大会の摺巻(柳多留九十七編乃至百編)中に点々抜粋されているところを見れば、其の建碑の目的が、果たして野辺にあった乎ということが愈明白に了解し得られるので、義母子説の如き曲解は断じて許さないのである。

もし夫れ此の柳碑にして、四世川柳が自己の為に建てたものとすれば、必ずや「四世川柳之碑」と題したであろうと信ずべき理由あるのみならず、どうしても四世自身が川柳翁と自称して、翁の字を書き添える筈がないと思うのは、人見川柳は、八丁堀の町方同心で朱総の十手をふり回したとはいひ、相当の学問(無論学者という程ではないが)もあり、井上剣花坊君が其の著「川柳を作る人へ」といえる書中に罵詈饞謗を極めているような、そんな悪人でもなく、金石義例、否な宗家祖先に対する礼儀を紊すような、悖徳漢ではなかったと信じ得らるる形跡に見て判断されるのである。

上来絮説する所に依り、木母寺の柳碑に関する建碑の動機及び末広会の実質を十分に究明し、こに異説の僻見を打破し得たと信ずるから、これより少しく、四世が肖像の自賛において、前句付命名の来歴及び狂句元祖の真義如何を研敷してみる。

由来我川柳には、一定の称呼なく初祖在世の時はもとより後になっても、其の本の名を以て前句付といって居り、或いは川柳点若しくは川柳風などと称しておったが、それを四世川柳が、和歌に対する狂歌より案出して、俳句に対する狂句と命名したのは、全く四世の創意に出でたものであるが、其の名称の当否は姑らく措き、四世川柳の意中では、此の狂句という名は、単に四世嗣号後の前句に付したばかりで甘んじたものでなく、三世、二世のは無論初祖の創作に迄遡り、猶其の範囲を川柳風の句調全体に及ぼして、悉く狂句と称せんことを試みたものであった。特に前句付と言えば初祖在世の頃は、「俳風柳多留」十八編の巻首を見ても、其の一班が知り得られる如く、実に多数の判者が門戸を張っておって、中には全然川柳同様の風調を選評した判者も居ったのである。

詳言すれば初祖時代に於ける判者中、苔翁、蝶々子(五代目)、竹丈、菊丈、黛山等の風調こそ川柳点と其の好嬌を異にする所もあったが、露丸、東月、机鳥、白亀、錦江、幸々等の選評は、殆ど川柳と其の帰趨を同じくし、就中錦江点、幸々点の如きは、もし其の評者名を欠きたらんには、如何に秀でた鑑賞眼有る人にも、容易に真評者の誰たるかを判別することが、出来得ぬ程相酷似しているのである。

則ち斯いった風なすがたで、前句付は全く川柳家の専有物でないばかりでは無く、自然、下の句の無い一句立てとなったのであるから、特定の名称を付することとしたが、之を前句付と称したのでは、どうもすると其の句風に適せない名であるという所から、川柳風前句の本家本元たる旗幟を鮮明にし、一に狂句命名の徹底をきせんとて、「狂句元祖」と銘を打ったものであることは疑うべくもあらずである。

世に多くは、四世が前句付を俳風狂句と命名したことを以て、在来の名称を改称したもののように思うのは大間違いで、是は改称ではなく、甫めて其の名を命じたのである。

此の前句付とは、其の句の名称ではなかったと言うことは、先ず牢記しておかなければならぬ。もし此の概念が確かでなければ、種々の誤解が之より生じるものであるということを、ここに反復しておく必要があると信ずる。

言を変えて言えば、狂句とは川柳風の前句に対し、四世が甫めて命名したものであるから、之を改称したなどというのは語弊あるばかりでなく、毫数里の差千里の諺を致すこととなるのである。

さればこそ、四世川柳は、其の宗家直系の祖先に対し「東都俳風狂句元祖」と称し奉ったつもりなので、自ら元祖と名乗った意味ではないのである。

予は此の見地よりして、四世川柳の提灯持ちをするわけではないが、公平なる史的観察から、木母寺の柳碑に対しては、「川柳翁之碑」といえる頭上に、「柄井」若しくは「初代」か「初世」などという、いずれかの言定的な文字を冠せなかった瑕疵あることをみとめては居るが、さもあれ、剣花坊君の如く「この前句付へ狂句という名を付し、自ら元祖と称しておる。固より役目が役目だけに、官僚根性から矢っ張り川柳界の大将株になりたかったのだろう、大将株ばかりでは無い、自ら元祖と名乗りたかったのだろう。いつの世にも斯うしたべら棒は存在するならいだ」などと悪罵を浴びせるには当たらないと思う。況や四世川柳の真意未だ必ずしも、自ら元祖と僣称したるものに非ざるをやである。斯く四世川柳の受ける過酷な運命を馴到したのには、種々の原因があるが其の主因は肖像の自賛である。

此の肖像の自賛の詞書は義母子の「川柳嗣号沿革考」に登載して有り、梅本柳花(秋の屋)君の「川柳難句評釈」採用されてあるから、既に同好の諸氏の知悉せらるるところであろうが、是は亦真に重要なる川柳史料の一部をなすもので、もと人見家(四世の子孫)に伝えてあったのを、後子細あって現に予が手許に所蔵して有るから、何より確かな証拠として之を提供しうるのである。

今此の四世の真跡の本書に依って見ると「東都俳風狂句元祖云々」の署名は、之を一行に書き続けたものではなく、次の如く三行に分記して、こらに四世川柳と署名して有るところから見れば、元祖と自称したものではなくして、其の肩書の元祖なるものは、蓋し宗家の直系たることを意味する積もりであったろう。

 

「    東都俳風狂句元祖

         五十五翁

      四世  川柳 印 印  」

此の点に対する「前句源流」の中根説に「四世が元祖といいるは、猶本家又は家元といえると同じ義に用いたるなるべし」との批判は、真個卓見にして妥当なる確論と言うべしである。

実を言えば、「前句源流」中には往々首肯し難い僻説なきにしもあらずであるが、この狂句元祖論は直截簡明我が心を獲たりであるばかりではなく、全くその真に触れている卓説なりと信ずる。

又天保六年寶玉庵三箱の編輯に依る「俳風狂句百人集」にも、四世川柳と署名した肩書きに「狂句元祖」の四字を記してあるが、是も前同様の理由から、川柳宗家の義に用いたものとするのは、妥当な見解であろう。

義母子等の説は、唯々文字の末に拘泥して対局を通観するの明を欠く弊に陥っておる。如何にも四世が書法を単に当面より論ずるときは、決して当を得たものと言へないには違いはない。本来なれば、宗家の祖風を宣揚する代名詞の如き、特に用語の選択を厳重にし曖昧な点のない様にしなければならぬこと無論である。ことに金石文字などになると、百世不朽の業であるから、明瞭透徹、毫も誤解の惧なきは無論、曲解の余地だにない様にする必要があるとともに、又適当な儀例を守らなければならぬ。一班に斯くありたいものではあるが、さらばといって、実際は必ずしも之に伴うものではない。のみならず市井の出来事などになると、寧ろ之に遠ざかった現象を呈するのが普通である。況んや四世川柳はもともと学者文章家という程でもなかったから、如上碑石に対する形式上の瑕疵が縦しあるとしても、之を追求して其の実質を没却するというのは見当違いの極であるから、否ナ々春秋の筆法を以て、川柳の如き国民の通有性に基づくところの、所謂平民的軽文学を律せんと擬するのは、事情に迂闊な僻論家の陋態と言わざるを得ないのである。之を按ずるに、義母子、鶴彦両説は、一知半解の僻見に出でたもので、毫も史実の真に触れていないから之に惑わざらんことを同好諸氏に警告すると同時に、木母寺の川柳碑は事実全く初代川柳頌徳の俳風碑なることを宣明する所以である。

 

 

 

 

 

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