トップへ

 

三世川柳

 

元祖川叟の五男二世の末弟幼名八蔵、兄の後を継ぎて家督となり孝達を以って通称とす。二世没後無名庵川柳を襲名して三世となりしが、事故有りて社中より点者を拒絶せられ眠亭銭丸挙げられて仮判者となる。

 

世に伝うるは三世襲名後幾程もなく破倫の非行ありて、物議を醸し遂に社中の排斥を受くるに至りしと云う也、誠に斯かる事の有りけるにや今其の詳なることを知るべからず。一説に三世の失脚に就て眠亭銭丸が宗家を簒奪せんの野心を抱擁して画策する所ありし結果ならんとあれど、当時の銭丸には斯かる事実の証跡なきのみならず、排斎などの卑劣を行いし人とは思われず、是或いは後日四世川柳たる銭丸が元祖川柳の衣鉢を没却し、俳風狂句なるものを起こして川柳を堕落せしめたり、と云へる所より感情的憎悪の憶測に出でたるものにはあらずや。想うに点者拒絶の理由は何等かの非行ありて、三世自ら招きたる所謂自業自得の運命に帰すべきにや。

 

文日堂礫川を始め、五葉堂麹丸、春始亭春駒、春風舎扇朝、武隈楼松歌等、亦其の班に列し臨時立評を勤む後文政七甲申年二月三世より川柳の点式を銭丸に伝う。

 

文政十丁亥年六月二日没す。享年いまだ詳ならず。

ある説に五十六歳といえり如何にや覚束なし。龍寶寺の先塋に合葬す。法名はm受院浄刹快楽信士。辞世に曰く、

   蓮葉の露と消えゆくわが身かな

 

三世川柳は二世没後嗣号して忽ち社中の忌避するところとなり、川柳の名義は有れど無きが如く、文政七甲申年正月まで唯々其の空位を擁せしに過ぎず。然れども柳風の道は益々隆盛にして以前に変することなかりき。伝うる所には曩に三世嗣号の際二世の門下たる燕亭木卯(柳亭種彦)の最も尽力する処なりと。云えば、其の退隠の事に関しても亦、木卯の斡旋に俟つところ多かりしと信ずべき理由あるのみならず、当時社中の一部に於いて木卯を四世に推さんという者ありしが、衆望皆銭丸に傾かんとする情勢に鑑み断乎として之を辭じ、衆倶に勧めて遂に銭丸を推して四世を嗣しむるとなり。

 

按ずるに此の時代の誹風柳多留の版行は、七十一編より七十八編に及べるも三世の選評とては七十一編中に文政佃島月次会の文政二己卯年正月十八日開初会、同三月二十二日開三会目、同四月二十日開四会目、同閏四月二十二日開五会目と、都合四会分の抜きが収載せられし外は、七十六編に文政六癸未年五月二十日開三友追善の評第一番ミ部僅々三句丈見えるのみに止まり、他は悉皆仮判者銭丸等の選句を以て満たされたり。其の他の摺巻類中三世評の選句なるものあるにや、いまだ管見の及ばざる所なれど恐らくは絶無なるべきか。

 

 

 

 

 

inserted by FC2 system