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十一世川柳

 

小林氏。通称は釜三郎と云い中村良蔵(旭海楼昇叟)の長子にして、慶応元乙丑年九月十八日本郷根津八重垣町に生まる。故有りて母方の小林姓を冐す。根津遊郭の移転と同時に深川区洲崎弁天町一丁目六番地に転居し酒商を業とす。曩時根津廓内に在りし頃、遊蕩の萠しあり、父昇叟之を憂い松楽堂寿鶴に嘱し柳風に誘い八世の門に遊ばしむ。以後一転して狂句を恋翫し開晴舎昇旭と称して、上野清水奉額会其の他二三の大会を催し月々摩利子天奉燈会等を施行し、忽ち若手錚々の雅人となり僚友を勧誘して旭連なるものを組織す。八世没後は九世川柳に従遊し柳門唯一の寵児として、愈々柳風に熱中し社中能く之れに比較する者なかりき。明治三十五壬寅年四月九世と共に奥羽に遊び松塩の勝を探る。九世の将に簀を易えんとすや。囑するに遺吟建碑の事を以ってし、且つ宗家の衣鉢を伝う。昇旭弱齢に鑑み辞譲して、平井雪雁に十世を継承せしめたりが、後五年にして平井川柳の譲りを受け十一世となり深翆亭川柳と称す。

やまと新聞(明治四十二年五月五日発行、第七千二百六十五号)登載

「深川洲崎弁天町一番地の酒屋小林釜三郎(四十五)は、今回川柳第十一世を継承する事となり、五六の両日日本橋区常盤木倶楽部に於いて其の披露会を開催する由。甲州、出羽、信州、飛騨及び関東両毛等よりは各総代を上京せしめ、当日寄進の句のみにても二万六千句に達し居れば、両日共午前九時より夜十一時頃に至りても尚読み上げ終わる能わざるべしと云う。釜三郎の家業は世々酒店にて以前洲崎遊郭の根津に在りし時より遊郭を得意の酒屋を営み、釜三郎は幼年より日本橋区小網町の酒問屋高月屋に家業見習いの為奉公をなし居る内、一二歳の時八世川柳児玉括嚢の狂句に感じ、其れより樽拾いの余暇を偸みては作句に趣味を有ち、根津遊郭が引き払いとなり洲崎に移る。当時の吟に曰く、

    流連をさせて置きたい根津の里

と。後父の家業を継ぐに至りて、児玉任風舎に師事して三十三年の間作句に應心し半生を狂句のために尽瘁して今日に至りたるが、之れ迄亀戸、神田明神、湯島天神其の他の神社に奉額したる句のみにても壱萬余句に達したりと。」

同新聞(明治四十二年五月六日発行、第七千二百六十六号)登載

「前号報道の小林釜三郎(四十五)川柳第十一世継承立机披露会は五日午前八時より日本橋区常盤木倶楽部にて催されたり。出席者は山形、米沢、上総、上野、下野、長野、甲州、飛騨、京都、尾道、長崎等の各地代表者にして、寄進及び雑吟の句をかわるがわる読み上げ、二千七百余点の商品を贈りたるが、雑吟に至っては川柳唯一の滑稽俳謔召出し、為に傍聴者は孰も抱腹に供ざる程なりし。因に五日迄に寄進の句は二万四千句に達し、同日より六日夜までに読み上げを為す筈、尚六日には重に京浜間の出席者多かるべしと。」

前二項は十一世立机当時に於ける、やまと新聞の雑扱記事なるが今参考の為に其の全文をここに付記しぬ。因に当時のやまと新聞には新編川端柳いう川柳欄ありて、正統派と稍同型の狂句調を募集し、市村駄六なるもの之が選者なりき。

 

明治四十四辛亥年七月陶廼家香雪(小林佐太郎)と共に新選柳多留を発行し、同き四十四年十一月柳風新報なる機関雑誌を創刊したりしが時利あらず僅々四号にして廃刊せり。

 

大正二癸丑年十月不治の病に罹り、辞退して元の平井川柳に復机せしめ其の名を木聖と改め、永く閑静の意ありしも天之に年を假さず、大正六丁巳年五月十六日没す。享年五十三。下谷区谷中坂町三十三番地日蓮宗榮源山本壽寺に葬る。法名は智月院通達日淳信士と云う。

辞世の句に曰く。

    虫の居所定まると人も秋

 

十一代目深翆亭川柳追善狂句合序に云う。

「十一世小林川柳は、はじめ 開晴舎昇旭と云い、斯道に遊ぶこと久しく、おのれ十世退隠の後を請け深翆亭と号し、以って川柳を継承し暫く柳風界に力を尽くされたるも、爾後不治の病に罹り身体の自由を欠き隋て宗家を経営為すに堪えずとて、九七四、昇ル、龜堂の三氏を使いとして強いて自分に再起を需め、退机後名を木聖と改め永く閑静の意ありしも果さず、惜しむべし大正六年五月十六日遂に黄泉の客となる。茲に於いて黙翁、茂道、柳露楼、九七四の四氏起きて本会を企て、居士が巻嗣子江東居昇旭を額面持ちとし、おなじく七年五月東京市下谷区川端の里日蓮宗本来分寺に本会を開廷し、翌八年三周忌に於いて此額面を此寺の堂上に掲げ故人が終世を飾る事を永く後の世に遺しとどめんとす。この道に遊ぶの人々よ遠近を問わず此地を通過せらるるあらば、訪ねて一遍の秀句を賜らんことをと狂句堂老爺川柳しるして序とす。」

按ずるに、伝統的川柳は祖翁以来十一世百二十四年にして遂に滅びぬ。曩に十一世が病に罹り宗家を退くや社中十二世たるべき適当な後嗣なきに苦しみ、窮余の策として元平井十世川柳翁を再起せしめ逆転して十世川柳を復称せしむるの奇観を演ずるに至る。現に元十世は川柳正系の宗家として其の名跡を維持し居れど、積年の頽勢は如何ともするに由なく狐城落莫唯廃残の柳門に盤踞して、辛くも其の覚興を擁するの惰性を存するに過ぎず、想うに此正系派たる川柳の精神的衰亡の端は遠く五世時代に於ける柳風式法に胚胎し、近くは七世風也坊が全然在来の川柳を破壊し拮屈贅牙なる漢語調を唱道せし当時に於いて、業己に滅亡したるものと謂うべく。若し七世にして其の如き無識なる開化の新調を推奨せざらんには、然許の荒廃を見ずして止むけんものを惜しい哉、七世に前途明察するの識見なく遂に祖翁の衣鉢を没却して、一時の人心を左道に帰向せしめ荼毒を今日にまで流せるのみならず、斯の如く柳宗の祭祀を絶たんとする悲運の禍根を遺したる一半は、まったく七世風也坊の罪にして実に柳門を賊する元凶たるなり。爾飾の柳家に至りれは斗肖の人狂瀾を既に倒れたるに廻すの器あるなく、特に斯道の萎靡振いざる原由は単に卑猥淫廉の句作に帰し此風調をだに去れば以って足れりとなし、他に滑稽洒脱風刺奇警いう真精神を滅却せることに想倒せず、唯形式的句調の高尚のみ着用し徒に無意義なる掛言葉を使用し、縁語づくめの駄洒落なる陳番共漢語の技巧を以って其の真生命の如く思惟し、九世和橋の如きは滑稽にも狂句を教句と改めなんかなどと、實語教童子教もどき心学的勤懲文字を以って川柳の能事と誤解せる結果、益々堕落の深淵に陥り愈々祖翁の衣鉢に遠ざかることとなり、彊弩の末勢魯縞を穿つ能わずして今日の悲運を齋らすに至る。是れ五世以来の弊習特に七世風也坊が野心の為に誤られたる柳門の禍亂にして孺子の品を以ってすれば、天のなせる薛子は猶違くべし、自らなせる薛子はのがるべからず、と謂つべき運命にや噫。されど百年後を達観せる祖翁の遺吟空しからず、九世の晩年より十世立机の交に於いて、新川柳勃興の気運に乗し坂井久良岐・井上剣花坊等相前後して起こり、剣花坊は日本新聞紙上に、久良岐は電報新聞紙上に各門戸を構え盛んに真川柳趣味を鼓舞し尋いて、明治三十八年五月五日をトして久良岐社の機関誌五月鯉を発刊し、俗悪なる川柳を捨てよ、十七字は短詩たれ、新文学たれと絶吽し、叉剣花坊は柳樽寺の機関紙川柳を刊行し、川柳の詩たらざるべからざる事を疾呼したりしかば、天下合羽然として之に共鳴する者雲の如く輩出し、その間一弛一張幾多の曲折ありたれども、按ずるに川柳復古狂句撲滅を標榜する所謂新派なるものを生じ、伝統的柳宗社中が今尚桃源の夢を貪りつつあるに、新川柳は実に凄まじき擬勢もて邁進しつつありて、主客其の位置を顛倒するの観あるに至りぬ。

 

(坂井久良岐・井上剣花坊の懐紙・短冊)

 

 

トタンふき春雨をきく屋根でなし

 

 

緋撫子お七を焼いた原に咲く

 

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