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十世川柳

 

江戸の人。菅久三郎の三男にして、弘化三丙午年五月二十六日元山谷町田中(今の浅草区元吉町)に生る。平井家の養子となり、平井省三を通称とし北窓雪雁と号す。手師西村藐庵(吉原江戸町二丁目の名主)の外孫にて小山柳麓(徳川幕府の神仏御用達)の甥なり。夙に黒川眞頼の門に遊び、語学歌学を修め忠道と称し俳諧を施無畏庵甘海に学んで月鴎の名あり。又高斎単山の門に入りて書を能くし栩堂と号す。資性豪放不覊にして物に拘泥せず頗る奇人の風あり。弱年の頃より柳麓の誘掖に因り、柳風に遊び達吟の誉れ高く佳句妙案を吐露して錚々の雅伯たり。浅草区千束町三丁目五十八番地に住す。浅草区に市吏員たること多年。九世没後社中の歓奨に因り十世川柳を襲ぎ狂句堂と号す。

 

白念坊大槻如電が十世川柳翁嗣号立机披露会柳風狂句合に序して曰く。

「川柳狂句の世に興りしより百五十年、第九世和橋つねに来り点竄句中の難義難題を質されたりき。十世雪雁は手師藐庵の外孫にて夙に黒川博士の門に遊び、語学歌学を修む。余と交わるも三十年、その間漢籍のたしなみ亦少なからず、其他俳句にも狂歌にも趣味を解し、書は家業特に達筆なり。現に市吏の員にあれば世務俗事に通じ居るは言を待たず伊吹舎大人の言と覚ゆ。

川柳は現時の出来事を即時よみ出すものなれば、風俗史の好材料なり。俳諧は題に泥み古意古語をよそい、徒らに高雅めかす弊害ありて遂に史料とならずと、是れ真に確説と云うべし。おのれ近来の狂句を見るに往々この俳句の轍を踏むの観あり、世に新派とか云えるもの起こるも亦むえなりと思う。雪雁子よめいなる方針とりて今より川柳海の柁柄にぎらんとすや、此巻に一言するは利目して其盛擧を見ん事を望むなり」と、按ずるに、白念坊は元来川柳の真髄を解せず、曾て高潮と云う俳諧雑誌に、

    雲間に雁の出たり引込だり

といえる自賛の川柳を掲げ、連歌俳諧と川柳との別目(ケジメ)を論つらい、梅本秋の屋に青柳誌上にて冷評されし事ありしやに覚ゆるが、幵は兎に角として今伝統的に川柳系を襲ぐ五世以下歴代の宗匠なるもの、皆実語格調の形式に因われ、既に精神的に滅亡したる川柳の残骸を擁し来たるに過ぎざるものなれば、同社中に出でし十世雪雁に至って起死回生の秘術を施すべうもあらず。唯々川柳の空位を維持するに止まるの現状は素より当然の帰趨なるべけれど、如上局外の言にも亦一顧の価値あるに拘わらず、遂に何等復活の挙に出でんともせずとは、其の盛擧を見ん事を望める白念坊の期待に背くや大なりと謂つべし。

 

其の宗家を管理すること五年、明治四十二己酉年五月五日退隠して小林昇旭に川柳を譲り先人に倣い柳翁と称したりしが、大正二癸丑年十月小林川柳は不治の病に罹り身体の自由を失い、宗家を経営するに堪えずとて十世の復机を震めたるに因り、再起して十世川柳を復称す。その間奥羽磐城地方に吟笵を曳くこと数次、大正四乙卯年十一月今上天皇陛下御即位大典に際し、先例に倣い社中有志の総代となり柳風俳句祝吟詠進の出願を為し、聴許せられ御即位式大典奉祝詠進柳風献句集を出版す。今茲大正十一壬戌年七十七歳の高齢に達したれど、尚矍鑠として引墨に従事しつつありと云う。

復机披露柳風狂句合序詞に云う。

「去年神無月の頃十一世深翆亭川柳宗家の机を辞す。其の事実たる則ち左に掲ぐる汎報書の如し。

今年大正二年十月相あり、現代深翆亭十一世川柳宗家の机を辞せり。然るに斯道の衰世今日の如き未だ益てこれあらず。為に其継承者をも選ぶに由なく、我々一日前宗柳翁を浅草の狂句堂に訪ね、旨を告げ翁に於いて暫く復机挽回の策に出られんことを勧むれども快諾せず、啻に相倶に努力せんと誓うのみ。夫れ我々之を聞きて多くを云わず同庵を去って、深川なる十一世を尋ね、熟議数刻の上柳宗代々の圓章および元祖川柳の画像一幅を申し受け、是を掲げて亦狂句堂の門を叩く時に夜更けて二時なり。翁驚き出て一行を一室に迎え、掲え来たる画像并に図章を示し強いて復机を需むるにあたり、柳翁熟慮すること暫時の末泣いて謂らく。執烈なる貴下等が厚意を盛謝し、適任者を得るまでの内仮りに復机の決意をなせりとの確言を聞く。如斯にして時局は終に定まれり。希う川柳狂句に遊ぶの諸君よ、旧派新派の別なく本会の企てを協賛せられ、多数の御投吟の栄を賜り地下に眠れる祖翁が霊を慰められんことを切望すと述べるものは川柳界の古る弱者友の三名なりと謹んで白す。

  大正二年冬霜月   東京正派川柳会

             幹事 九七四

                龜堂

                昇

如斯にして甲寅歳旦柳風狂句合の散紙を添え此復机会を開催す。然れども悲しい哉甚敷衰頽せる柳界はこれを一時に挽回するの道なく、各位に促すこと数回いかに催主が焦心千慮するも、思い央にも及ばず集吟僅々三千章に満たず、頓て又向後雪耻の期もあらんを忍び、茲に本会を締め切り今年大正三年四月三日神武天皇際の日を選び、以って東京浅草大慈閣の後畔千束の里字浅間下なる狂句堂にほん開館を挙ぐ。干時喜び哉会する人堂に満ちて寸席をも余さず、元祖柄井川柳翁が肖像の前に賑々しく本会を終了せしは、是れ真事に祖川が功と、雅友諸彦が現代柳宗に援助を与えられたる賜ものに拠るなりと、独酌亭一盃謹述序に換う。」

按ずるに、序詞に云う柳宗代々の圓章とは、元祖歴代川柳の雅印の事をいえるなり。又元祖川柳の画像は、八代病没の際紛失し今は他に秘められて、宗家にては伝世唯一の什宝を欠くに至りたれば、九世川柳和橋が新に自筆もて想像的に元祖の画像を慕写して調製し、以後之を後嗣へ伝うる事と定めたる其の新画像なりと知るべし。

 

 

 

 

 

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