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元祖川柳

 

元祖川叟は柄井氏八右衛門の男にして、享保三戊戌年十月を以て江戸に生る。幼名を勇之助と云う。年三十八にして父の名跡を襲ぎ八右衛門と改む。名は正通、緑亭、無名庵と号す。浅草新堀端龍寶寺門前地の名主役たり。

 

柄井家の祖先は京都より出づ。元祖川叟の曽祖柄井将曹なる者、寛文十庚戌年の頃後西院天皇第五の皇子一品入道天眞親王管領宮天台座主に任じ、東叡山寛永寺へ東下せられ日光輪王寺へ御入室の際、御用掛として随身し江戸に来り住す。其の子図書の代となり、公辡准三宮に仕えしが、故ありて退院し浅草新堀端なる龍寶寺に寄る。図書初め桑門に入らんとするの志なりしが、当時住職の請託により初志を変んして、遂に其の貸地なる門前町の名主役とはなれり。図書没して其の子八右衛門父の後役を命ぜらる、是ぞ川叟の実父にして後年隠居し名を宗圓と改む。川叟は父退隠の後を襲て名主役たりしが、其の頃付近に於ける寺院の請託を受け、松源寺門前町、善照寺門前町、其の他壽松院門前、桃林寺門前、金龍寺門前等の各町をも支配せしと云う。

世に柄井家は阿部川町に住して、同所に名主役の如く思いいれど、云わば大いなる誤りなり。惟うに柄井家は川叟の孫即ち三世川柳の子の代に至り継なくして断絶せしやに、今寺牒を徴するに無量院長遠妙壽信女、孝達妻逆修としるせる次に教受院雪山源理信士天保十四年十月十九日とあるを以て終焉とす是前に云える三世の子にありけんか。されば母に先たって死し、母も逆修のままにて其の没年すら記しあらぬ所より見れば、他に縁者もなくて全く後絶えけると推して知るべきか。

而して名主役は文政十丁亥年三世没後以来天保度の江戸町鑑を按ずるに、従来柄井家にて支配せし龍寶寺門前外五ケ町は阿部川町の名主高松喜兵衛の管轄とはなれり。今推測するに此事より誤りて川叟を阿部川町の里正と思い違へるべし。

又按ずるに素行堂松鱸が秀句妙詠誹風新柳樽の序に曰「柳多留の巻に菅公の句をおおく撰むことハ、初代川柳文日堂といいしむかしより尊信あつき相なり、今浪華の新柳樽に天満まつりの月をはじめとせしも柳風の習いに依るということを初編に序す」と、此序文に依って見るとき元祖川叟に文日堂の別号ありしものの如くなるが、文日堂は礫川の号にて明和の末年より前句附に指を染め、元祖川叟の没後和笛見利に次いで斯道を裨補し、二世三世の時代には宛も其の後見の如くなりしかば、此礫川の事跡を混合して松鱸が斯く思い違いしものにあらずや。されど惟うに松鱸が柳門に入りしは文化年中にて、文日堂礫川の存命中江戸に在り礫川とも風交ありしならんに、其の堂号を知らぬ筈もなかるべければ、初代川柳文日堂の号といえる事、據所あるべきや不審なり。

 

初め西山宗因の風調を慕い俳諧壇林を再興せん志ありしが、後変じて自己の川柳風前句附なる一派を起こし宗匠たること三十有余年に及びぬ。

 

或説に曰く。

「元祖川叟は初め雷門三世の俊傑雷中庵蓼太の門に入り、淡味温健の俳風を学びしが、中頃雷門の宗派に飽き足らず慶紀逸の武玉川調に私淑し、頻りに奇抜なる独特の句風を行い宗則を無視して雷門の調子を全然脱失するに至りしかば、さらぬだに門人等は平素より川叟の才量に警嘆し敬服し且猜視しつつありし折とて、川叟の云為を以て淡味温健の宗風を紊るものとなし種々の物議を醸すに至り、師の蓼太は川叟の非凡なる才気を惜しみけるも、遂に一門には代え難く之を宗門より趁うことに決意して、或る日観月運座の席に於いて門人一同に向かって、今日改めて川叟を破門する旨の宣告を与えしに、川叟は寧ろ有難く破門の宣告を甘受し

目かちの蛙桂馬に飛んで行く

と云う一句を残し飄然として雷門を去れり。それより一意専心前句附に傾倒して名誉ある一派を成立するに至れるなりと云々。」と

此事は雷中庵雀志が家に伝えける雷門の或記にしるせる由聞き及びしかど、其の本書を見ねば遽に信とし難し。されども参考の為一説として茲に註しぬ。

 

其の間、寶暦七丁亥年の頃より、初めて川叟万句合の催あり。幾多の前句附判者中嶄然として頭角をあらわし、其の円満なる人格と卓越せる選評とは大いに世の歓迎するところとなり、遂に斯界を挙げて川柳の独壇場たらしめてけり。

 

誹風柳多留十八編の巻首に、呉陵軒可有が元祖川叟時代に於ける前句附判者の事に関して、

「蝶々子    苔翁(当時三代か)    竹丈     雲皷

白翁     菊丈          収月(一流選者享保年中壱万八千句集当時三四代目か)如露(二代読) 嶺松          南花坊    黛山

一翁     千          圭女     東

白亀     露丸          机鳥     錦江

川柳 宝暦七丑年初當卯年迄二十七年に至年々一万句或は二万安永亥年二万五千余句柳樽十八篇末摘花初編後編出」

と云える如く、是等著名の判者が各一方に割拠して門戸を張り、川叟と同じく万句合を興行しけるが、就中無名庵川柳の名声は隆々として他の判者を圧倒するの観ありき。

又誹風柳多留拾遺の前身たる古今前句集の序中に

「人はまえ句にのみ心をなぐさめけるむかしより、かくつたわるうちにもしんぼりのときより、そひろまりけるかのほりのはたに川柳いう人なん。前句のひじりなりけるこれは、てんじゃもとりつきも力をあわせたりというなるべし(中略)。又山の手に露まろという人ありけり。これもあやしゅうたえなりけり。されどかわやなぎは露まろがしもにたたんことかたく、露まろは川やなぎがかみにたたんことかたくなんありける云々」

と山東京伝己もやありけん古今和歌集の序文に擬して証せるを見ても、川叟が勢力の盛んなりし事を知るべし。

喜多於信節が嬉遊笑覧には

「前句附判者多き中に、宝暦の末明和の初頃、机鳥・露丸・川柳等大に行われ、月次万句合として集まる句数凡一万六七千、勝句四百四五十、半紙五六枚に暦の如く細字に印刻して摺る云々」

とありて机鳥・露丸と川柳とは稍互角の如き観あれども、安永天明の頃には川叟の勢力凘次加わりて遂に独舞台とはなりけり。按ずるに川叟の万句合は年々八月(陰暦)より十二月上旬まで五ヶ月間毎月三回宛て五の日を定会として開巻興行したるものにて、これは即ち今日の川柳大会と見るべく一会の寄高二万五千余員に及べることありしは、実に希代の判者と謂うべし。其選の秀句は惣句数に対し約三分乃至四分位の割合を以て抜莘し、之を当勝句と称して上木し二枚乃至八枚位の半紙へ、天満宮梅桜松鶴亀柳袖仁義禮智信など云う縁起文字中より一字を執って相印を付し、当時の伊勢暦風に版行したりしかば世に之を暦摺とは称しけると見えたり。此暦摺は創刊以来寛政元己酉年迄毎期間断なく版行せられし故、其の数量頗る大部のものとはなりぬ。彼の誹風柳多留、誹風柳多留拾遺、誹風末摘花は川叟万句合中より更に名吟桂什を選抜して編輯せるものなり。又万句合の興行は定会の外、時に或いは正月より七月まで月々五々の会を興行して版行されし異例あるのみならず、特定の一団連に於ける月次会は定会興行のなかりし期間に在りて所々に開催せられ、其の選句は暦摺の版行に俟たずして他に一部の冊子に上梓せらる。即ち彼の川傍柳、やない筥、藐姑柳、玉柳等の柳書は皆月次会の川柳評を版行したるものなり。

 

寛政二庚戌年九月二十三日没す

太田蜀山人の一話一言には川柳死日の條に

「寛政二庚戌八月二十三日川柳死、川柳は近頃前句附の点に名高き者也。浅草新堀端名主柄井八右衛門といえる者也。」

とありて川叟の死日に一ヶ月の違いあれど、菩提所龍寶寺の廻向帳及び墓碣には本文の如く九月と記しあれば一話一言の八月は誤りならん。

 

浅草区栄久町四十番地天台宗金剛山龍寶寺の塋域に葬る。享年七十三釈謚して契壽院川柳勇緑信士と云う。

辞世の句に曰く

   こがらしや跡で芽をふけ川柳

龍寶寺川叟墓碣には法号の柳緑を勇縁と鐫つけあれど、寺牒及び現存せる為菩提寄進の青銅製燭台に勇緑と彫刻しあるのみにあらず、柳は緑といえる成語に因みて勇緑を是とすべく。墓碣は誤りて鐫つけたるものや。又此墓碣は元祖川叟没時の碑石にはあらで、後年三世孝達没して其の妻女が逆修に元祖及び三世夫婦の法号を合刻したるものなるが、其の考証の事長ければここには大略を註し詳細は川柳墓碣及び碑石考に記しおきぬ。

 

元祖川叟の事跡に関しては古来大成せる伝記等のなかりしを以て今其の詳かなるを知らず。近年川柳家の著書又は雑誌等に散見するものは唯二三世に伝わる所の断片的記事に過ぎず。

明治三十丁酉年発刊の柳風狂句栞一二号に登載せる元祖柄井川柳翁之伝は、稍詳細なるものなれども九世川柳和橋の修飾筆に成れるものゆえ、いまだ慿信すべき史伝とは為すに足らぬものにてありけり。

 

嘉永二己酉年柳下亭種員が撰集せる新編歌俳百人撰に川叟の逸事を記しあれば次に其の全文を抄録しぬ。

「元祖は川柳ハ柄井氏の人浅草新堀端に住す。其先西山宗因が句調を慕い俳諧談林を再興せん志ありしが、中頃一変して自己の風を立て狂句を吟じ世に行るる事大方ならず。

諸方より評を乞に来る内或る時持ち来たりし詠草に

   天人ハ小田原町をのぞいて居

といえる句あり。川柳此句の意を解すことあたわず思いにくれけり。其婦も共に心を悩ましけるが、或る日辺ちかき浅草寺の観世音へ参詣せしに本堂の合天井に画し天人有、それが下に小田原町より奉納せし灯燈を覗くがごとく見えたりしかば、彼妻句の意を解して夫に斯と告げるにぞ、川柳横手を打て此句を高点に備えぬ。

 

按ずるに川柳宗家には従来伝玉の璽にも比すべき重宝として世々嗣号者に伝来二個の汁物ありけり。一は元祖の印章にして一は祖翁の画像なりき。

此の画像の原図は川叟在世の時其の全体を現し、前に文台を扣て左向に写生したるものなりしが、四世人見川柳の代文政十二己丑年三月二十一日神田佐久間町より出火して焦土となりたる大火の際焼失したるに、幸い当時の呉服橋連なる二代目武隈庵松歌(信州松本松平丹羽守の藩中 まつうた)なる者その写しを所持したれば、其れを以て画工長谷川等雪に画かしめたり画像の上に左の吟を掲ぐ。

行水やおもかげうつす夏柳    四世川柳

    写し絵や幾秋経てもその姿    八十五 文日堂礫川

    凩やあとで芽をふけ川柳     柄井川柳

其の筆者は四世川柳とも云い或いは松歌なりとも云へど今詳なるを知らず。

複写の年代は俳風狂句百人集(天保六乙未年孟春板行)に出てたる礫川の年齢を以て推算すれば、天保四癸巳年の製作なる事明瞭なり。斯くて祖翁の画像は四世川柳の手に再び成りしかば、之を嗣号者へ譲り物の一つに加えられ五世六世七世を経て八世児玉川柳に伝えたりしが、明治二十五年壬辰年十月一日八世病没の際何れかへ紛失して宗家の伝寶ここに滅しぬ。或る説に画像紛失の事軈て来るべき後嗣問題に関し社中に暗闘ありて、某野心家の姦謀に出でたりと云えり。斯る裏面の消息は必要もあらぬ事にて、事長ければ詳に記すに及ばず。されど一旦紛失せる画像は後九世の候補を争い、萬治楼義母子の為に失脚したる臂張亭〆太なる者の手中に秘め置かれたるものと見え、〆太は遂にこの宗家伝来の画像を擁して自立し九代目正風亭川柳と替称したりしが、明治二十九丙申年五月山形県西置賜郡長井市大字成田なる遊泳史魚心別号蘇息斎と云える者(佐々木宇右衛門)へ画像を譲りければ、今は佐々木家に於いて之を秘蔵しぬと云う。

 

又元祖印章の事は明治二十七年十二月発行柳の栞第二号中に九世川柳が記すところによれば、

「祖翁の印は石材にして白字を以て無名庵と刻したる甚だ粗刻なる物なれども、斯道にありては玉璽にも比すべき重宝なり。

柄井氏三世より人見氏四世に渡り、夫れより水谷氏(五世)に譲らる。五世の受取証、今猶人見の子孫に存せり。其の後六世翁是を引き継ぎしが明治十五年の夏を以て俄然卒せられしかば、其の息磯太郎氏より広島氏(七世)に渡す。七世翁此の印章に合わせ朱字を以て七世川柳と刻し、揮毫又は撰巻に押捺されし物今も各地に散在せり。

明治十九年七世翁退隠は快よからざる事情在ありて、此の印を児玉氏(八世)へ秘して渡さず、只元祖の画像のみを譲れりけり。予昨年九世嗣号せし祭七世翁の未亡人は素より近親従姉なるを以て、其の手より請取り再び宗家に立ち戻りしかば以後嗣号者へ譲り物の最大一を得たり。万一他において嗣号なさば、斯る由緒ある物の空しく其跡を止めざりしに、斯世に出現せしは影ながら祖翁の守らせたもう処なるべしあなかしこ」

と以て此の印章の末歴を知るべし。斯くて明治三十七年九世没後十世平井川柳に之を伝え、明治四十二年十世退隠して一旦十一世小林川柳に渡したりきが、大正二年十一世退隠十世平井柳翁再び宗家を襲て復机せし際、その手に之を伝承しけれども、大正十年四月六日浅草大火にて平井家類焼の際、由緒ある元祖の印章は他の歴代の印章と共に烏有に帰し、伝来の重宝ここに至りて全く滅絶しけるとなり。

 

又按ずるに宗家伝来ものにはあらねども、元祖川叟の真蹟として鑑賞に値する次の錦木塚の回文和歌の懐紙なるものあり。

 

「錦木塚回文和歌」

 

錦木塚

 

   錦木と

    とさして

  たにの塚の間の

かつ野に 

 たてし

  里ときき

     しに

 

錦木と

   つたへも

 おきし

    長の夜の

  かなしき

     おもえ

  たつと

    ききしに

 

   二首

         回文

 

            江都

             無名庵

              せん里う

 

「九世川柳の記」

柳門の開祖柄井川柳翁の真跡は、世に伝わる物実に稀なり。

茲に八世の翁いまだ柳袋たりし頃、明治のはじめ官の命によって

秋田の県に奉職中、同じ里なる二階堂某の秘蔵する元祖

自筆の懐紙を見て、懐旧の情に堪さるより強てこれを懇望し、、

任果て帰京の折其家に秘め置かれしが、同じ十七年の頃故ありて

昇旭ぬしに譲る事とはなりぬ。而してより以来年毎の祖翁忌に

必らず肖像の傍らに掲げ縦覧に備ふる事とせり、是ぞ斯道の

重宝にして、今日祖の遺物とするは吾が無名庵の印章と此

懐紙あるのみなり。翁の筆跡は素より作詠の卓越なる、一見

その人の非凡なるを知ること足れり。本年百六回の川柳忌に

昇旭ぬし志しありて、是を石版にうつし同好の雅友へ分布

す。之に依て聊その理由を記し保証すると倶に祖印を

模刻して茲に押捺す。

 明治二十八年十月      九世 柄井川柳謹識

此懐紙は前記の如く小林昇旭(十一世深翠亭川柳)が括嚢舎柳袋(八世任風舎川柳)より譲り受けて秘蔵したりしが、大正○年○月又故ありて十世平井川柳に譲与する事となりぬれど宗家の譲り物にはあらずとなり。

 

明和二乙酉年呉陵軒可有が川叟万句合中より抜莘して創刊せし誹風柳多留は、天明八戊申年に至り二十二編迄編輯したりたるが同八年五月二十九日死亡の後如猩なるもの出で、二十三編を編成し寛政元己酉年初秋に版行したれども、寛政二庚戌年には柳多留の発行なかりしかば、元祖川叟在世中に於ける柳多留の出版は二十三篇迄なりとするを当たれりとすべけんに、世には多く二十四編迄出版したりと云い伝えもし筆にもしるしあるが、言わば大いなる僻事なり。柳多留二十四編は花浴庵一口の編輯に成り寛政三辛亥年九月に於いて版行せしものなれば、之を川叟在世中の編数に加算するは心得ぬ事と謂うべし。若し之を其の内容の川叟評なる点より云いたらんには、二十四編迄には止まらず三十編、三十一編、三十四編及び七十編も元祖川柳の選評に係る秀句を編輯したりものにぞありける。詳しくは初代川柳評柳樽考に考証すべければここに大略を記し置きぬ。

 

元祖川叟没後其の子弥惣右衛門尚若齢にして父翁の衣鉢を襲ぐべき威望に乏し。社中のち桃井庵和笛を立てて仮判者となす。見利礫川又これに興る。和笛判者たること十五年、見利と交互に万句合及び相評句合を興行し、誹風柳多留拾遺を編輯す。和笛没して文化二乙丑年秋、弥惣右衛門二世川柳を襲名するに及び礫川専ら斯道の裨補に任じたり。

 

或る記に和笛は神田明神下に見利は本郷七丁目に礫川は小石川諏訪町に住める由をしるせり。此人々は柳門の元老株にして斯道に共鳴為実賛せられたる功績は実に多大なると知らる。

誹風柳多留二十五編の市中庵扇朝が序に

「年々歳々華相似たり。画せぬ水の葉に柳の老木枯果て此道既絶なん時に笛先生なるもの川叟の俳風を慕い是絶たるを継拾れたるをきす聖教に叶い翁の選評にひとし。神中誠に闇夜に往て燈に逢えるが如歓喜の美風々々と耳にみてり。予進で家名喜多留二十五編とハなりぬ」

と、亦以て和笛と社中との関係如何を見るに足りぬべし。

又文化十二乙亥年五月礫川六十八歳の時開催せし在世追善会の摺巻なる檉葉集(此摺巻は柳多留六十七編に収めらる)の自序に

「柄井川柳叟雪に古枝の折れしより、このうたの翁其糸にたよりたより、今また松の思ハんほども耻しく、年老いぬるまで此楽にふけり句を吐く事四十余年、句を判するも亦二十余年、されバ古き名をおのずから爰かしこにきこえつれど、實や俳の道も時の流行におくれてハ駑馬にむちうつがごく、今はただ句の語路だにたどりかねつつ、まして他の句に斧を加んことのいとかたければ、こたび諸君子の佳句高評を乞需て在東の追善会とハなりし侍りぬ云々」

と云へり。見利の事に就きては、其の選評に係る暦摺及び摺巻などの二三現存するものあるのみにて、いまだ他に事跡の徴すべき史料を見ねば詳なることを知らず。

 

或る説に曰く。和笛の後に門柳なる者出て、門柳の門の字を草書に認め川柳の川の字と紛らわしうして一口と共に仮点者となり、柳多留四十六編(或いは四十編までとも云う)まで出版せり云々と。されど此説は全然跡方もなき事なるに拘わらず、近時刊行の川柳作法指南、川柳難句評釈、独習自在川柳入門、大正柳たる、川柳を作る人に、などいへる諸書にも此門柳仮点者の事を記しあれども、是皆柄井川柳墓参法莚会狂句合いう摺巻登載の万治楼義母子が川柳嗣号沿革考捏造説に誤られたる結果にして、俚諺に所謂一犬虚を吠ゆれば萬犬實を伝うの類にもやあらん。

按ずるに此仮判者時代に於ける誹風柳多留の版行は二十四編より三十三編までの都合十冊にして其の内二十五編乃至二十九編は和笛の評せしなり。

 

 

川柳墓碣碑石考

 

初代川柳柄井八右衛門翁并同家累代の菩提所が、浅草新堀端龍寶寺に或る事はあらゆる川柳関係の著書・摺巻・雑誌類にも記載せられ、皆人の知るところであるが、未だ墓碣及び碑石に関して事実の真に触れた研究を発表したものは無い。

予は常に此の種の欠陥を、斯道の為甚だ遺憾に感じつつあったのであるから、これ等の実地調査を遂げて其の事実を明らかにならしむ可く、今夏来、翁が墳墓の所在地たる今の東京市浅草区栄久町四十番地天台宗金剛山龍寶寺に臻り展墓すること前後三回、墳墓其の物に就き詳細なる調査もし、諸方面から及ぶ限りの研究もして、得たところの結果は下記の事実即ち是也である。

龍寶寺は薬王院とも号し、上野寛永寺に属す。開基は比叡山正覚院の探題大僧正豪海法眼なり。本尊は天竺の仏工毘首羯摩作赤栴壇の如意輪観世音菩薩にして、西国三十三處写を安置し、江戸三十三處二十七番、浅草三十三處五番の札所なり。現住職は十八世釈氏亮榮といへる人、同釈氏の言によれば龍寶寺は明治維新前後(明治十年頃まで)殆ど無住職同様にして、その際森下町金蔵寺の住職が当寺を兼務したりしも、大いに荒廃を極め且其の寺域の如き昔時三千八百坪を有したりしが、凘時縮小して遂に現境の如く成れりという。

 

 

柄井家の墓所は本堂の巽位に在り、塋域略方六尺南靣して二台の墓石立つ。前に五枚の石畳を敷く。向かって左方の奥に前掲の墓碑あり。其の後ろには一本柳しげれりるありて、そぞろ川叟の遺徳を偲ぶに足る。又其の右に二世川柳夫婦の墓石並立し、域内の左右及び後ろの三方は高さ三尺許丸竹の疎垣を廻せり。

 

 

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これの記念標は明治二十二年十月二十日初代川柳翁一百回忌墓参法莚会開催の際、萬冶楼義母子(後九代目川柳を継承す)が同志者と謀りて建てる処なり。その位置は二台墓石の間にあり、小松石をもって造る高林五峯の隷書にして、左右には前記の如く同志者の雅号を記せり。

前掲二台の墓碣は龍寶寺境内柄井家累代の墓所に立てられてあるものであるが、此れを仔細に討究して見ると、初代川柳翁の墓石は翁の没後継続者たる二世川柳若しくは其の当時に於ける社中連などが建設したのではなく、後年に至り(其の年代不明なるも初代川柳没時より少なくとも三十八年後)三代目川柳孝達の死亡後、即ち文政十丁亥年六月以降に於いて、孝達が妻女の年に建設されたものであるという事実を発見し得られるのである。

この事は墓碣及び龍寶寺の廻向帖(以下過去帳以下同じ)が雄弁に物語っているので断じて其の当時の墓石では無いのである。

前図の如く初代川柳翁の墓石面には、初代川柳夫婦并三代目川柳夫婦の法名が四行に併記しあって、初代夫婦及び三代目孝達三名の分は法名下に其の死亡の年月日を記し、最後の三代目孝達妻の分に限り法名下に全然其の死亡時を欠いているところから見れば、孝達妻がこの墓石建設の際逆修に、所謂赤い信女を併記して置いたものであったという事実が解るばかりでは無く、廻向帖には明らかに「無量院長遠妙壽信女孝達妻逆修」と記載してあるし、又四名の法名の筆跡書風等に徴しても同一筆者が同時に書いたものである事が歴然と認め得られるのである。若し然らずして当初初代川柳の為に特設したもので其の余白は他日追記の予備であったとすれば、初代夫妻の次に二代目夫妻の法名が追刻しあってこそ有意義であり、如何にもそうと首肯されぬでもないが、二代目の墓は別に建設してあり、初代川柳のに三代目夫妻の法名を併記してあるとこから見れば、二代目川柳夫妻の墓石建設当時はどうしても初代等の墓石が、現存の墓碣外他に有ったものであろうと思われる。

のみならず現存の初代等の墓碣は、一見して二代目川柳墓碣よりは、ずっとずっと新しいものである事を何人の目にも確認し得られるのである。

然るに二代目川柳の墓石は、二代目妻死亡時の文政七甲申年を去ること、余り遠からぬ時期に於いて建設したものと見え、其の石質が初代川柳の墓石と同一質の普通切石たるに拘わらず、年所経過の痕跡上一段古色を帯びて居るに引替へ、初代の方は斯様の痕跡も無く文字鏨刻の點より見ても、二基の比較上二代目のほうが古く初代のほうが新物である事を推定されるのである。

そして初代当初の墓石は其の後どうなったものであるかは、今之を知り得るべき何等材料も無いが、兎に角現存の初代川柳墓碣は、三代目孝達の未亡人が後年に亡夫の墓石建設の際同時に初代川柳夫婦の法名をも合刻したものに相違ないのである。

更に注意すべきは、柄井家の墓所には前掲二基の墓石あるだけで他石塔が皆無なる事である。予はこの点より推究して当時における柄井家の内情は、前句点者の盛名程に幸運で無かったという事実を発見し得ると共に、如上の墓石も幾分社中の補助に成ったものではあるまいかと、想像すればされ得ぬでもないのである。

又初代墓石の裏面にある「教受院雪山源理信士」とは何人であるか、多分三代目孝達の相続人か或いは他遺族の者であろうと思われるが未だ不詳である。

此の「源理信士」が天保十四卯年十月十九日に死亡したことを明記してあるのに、三代目孝達妻の法名下に其の命日の追記無くして逆修の儘に現存してあるところから見れば、孝達の未亡人は天保十四年後一人ぽっちに存命して居ったが、何時頃にやありけん同女の死亡と共に相続すべき遺族もなく、逆修の法名下に命日追刻等の仏事供養を為すべき縁者とても無かったものと見え、遂に川柳前句の元祖として名声籍甚たる柄井家も、絶家の運命を齋らすに至ったものであろう。

特に初代川柳の法名において、墓石面には「勇縁信士」と刻してあるが、是は「花は紅、柳は緑」という成語もあり、龍寶寺の廻向帖には「勇緑」と記載しあるばかりでなく、同寺にある供養寄進の青銅製燭台に彫刻せる文字は、「縁」にあらずして「緑」とあるから全く「勇緑」と書くべきを「勇縁」と誤記の儘心付かずに墓石へ刻したものであったと思うのである。同寺住職の話にも其の法名は「勇緑」の方が本当であると言っていた。

其の他同寺には廻向帖の外柄井家に関する何等の記録遺物等も無い。唯上記の青銅燭台と花瓶との仏具一対が本堂須彌壇に現存するのみである。

此の仏具は和泉屋伊兵衛なるものの寄進に依るものであって、燭台(高略二尺)の下部台縁へ横行に「為勇緑信士法性信女菩提也」の十二文字を、又花瓶(高略一尺二寸)には「施主和泉屋伊兵衛」の八字も彫刻してある。

此和泉屋伊兵衛とは柄井家に有縁の者ならんと思われるが、何等慿徴も可きものも無く、従って其の寄進の時代及び関係とも全然不明である。茲に付言して置くべきは、前掲初代川柳墓碣の右側面に九代目川柳(元前島和橋、萬治楼義母子の事)其の他の法名を合刻してある事である。九代目川柳は在世中明治二十五年五月柄井家再興名跡継承の手続きを為して許可を受け、其の妻つねと両人が前島家より入りて柄井氏を称してあったのであるから、此功徳を以て九代目夫婦の法名を合刻するのは先ず無難としても、其の他に「紫岳妙雲童女大正六年四月二十七日、翠影姟女大正六年六月十八日清誠姟子大正六年八月十二日」といへる三童男女の法名を記入したのは、什麼如何の次第であるか、甚だ不可解な事である。

調べてみたら此三姟子は九代目の孫に当たる縁者ではあるが、柄井家には関係なく即ち九代目と全然別家を為している前島柳之助、同中吉という者の児輩であるから、之を初代川柳の墓に合葬すべき筋合いのものではない。然るに何物の没分暁漢ぞ斯かる心無き業をなし、あたら先賢の遺跡を汚したというのは、実に非礼千万僭越至極な行為というべきである。

又九代目川柳は「狂句柳の栞」第一巻(明治二十八年六月十九日発行)雑報欄の「柳宗忌」と題する項中に「予は明治二十五年の五月柄井家再興名跡相続の後同年十月川柳忌の前日菩提所龍寶寺に於いて告祭の法要を営み、その際元祖より三世まで居士号を贈る」と記してあるが、廻向帖の法名には別に改刻した所もなく、他に其の事実を証すべき何らの記録のあるでなし、住職の言にも更に聞くところなしとの事ゆえ、或いは九世が例の誇張説に止まるものであるかも知れぬ。

 

 

 

裏面

柄井家川叟五十回忌為追善建

       五代目

         川柳

干時天保十己亥年

  九月吉祥日 世話 惣連

        催主 壽山

           升丸

前掲木枯遺吟の石碑は、初代川柳翁五十回忌節五代目川柳が建設したもので、縦四尺横二尺乃至二尺五寸の根府川石を以て造ったもので、其の位置は龍寶寺本堂前左の方で当時有名の書家田畑松軒翁の筆である。石碑の背後にある石碑の壱幹の柳は、当時五代目川柳が手ずから植え付けられたものであったが、老木と成って立枯れした根生の若木を、現住の釈氏亮栄の手で植継いたしものとの事であるが、今将に直径七八寸余に成木して、年々歳々緑満だる枝葉の繁茂しつつあるのは、斯道隆盛の兆といはば謂うべきものである。初代翁五十回忌に前掲の如き石碑を香拲院に建設した上に、「前句附狂吟祖柄井川柳五十回忌追善会」(天保十亥年十月十五日開巻)なるものを開催して「俳風柳のいとくち」と題する上下弐巻の句選を出版したが、参考のために柳亭種彦の書いた序文を次に摘録しよう。

 

筑紫ことは八橋の流れ蜘手にひろがり、衣の色の紫の花々しき手事を畫し今、日に日に盛んなり。俳諧は難波天満の梅翁がかろ口の香りを花の江戸にうつし、柳の枝に咲かせてより、おかしき物とうばかかまで聞知るようになりたり。

元来和歌の一体なりとて寛永調を今吟せば、やまと琴にて貫川のやわらか手枕うたうが如く。なる程品のよいものと誉たばかりで誰かはまなばん。鳴呼柳宗の功なるかな其の祖の柳枯れてはや五十年に至りしとて、又新たに碑をいとなみ連中の句を集めてもて、法延をもうけしは、植えつぎうえつぎ、弥しげる今五本目の柳宗なり。例の如く綴ふみとし、それが柳のいとぐちをとそそのかされて、手にをはの調子も知らねど譬えに琴をひいてちょっとしらべておくは

         偐紫の作者  種彦なり

 

 

 

 

過去帳写(石井竹馬記載過去帳の誤りについても記)

以下は龍寶寺の過去帳により柄井家の部分を登録の順位及び文字共原本通り抄写したものである。

 

 

柄井家過去帳原本写し

檉風注書き

「川柳獅子頭」第一巻第一号(明治四十一年五月五日発行)登載 石井竹馬「柳談無駄話」の龍寶寺廻向帳柄井家写しの誤り指摘

石井竹馬記載

誤り指摘

柄井

 

 

柄井家

廻向帖原本には「家」の一字なし、又「過去帳」あるも原本は廻向帖と題せり。

顯實院是相日隆信士

天明四甲辰

六月二日

 

 

 

光明院融岳宗圓信士

寛延二己巳

四月四日

 

 

 

蓮壽貞性信女

元禄十三庚辰

七月五日

 

 

 

明夢童女

寶暦二壬年

八月九日

 

 

 

莊域實有信士

安永二癸巳

七月十日

 

 

 

貞彰院鷲峯妙松信女

文政元戊寅

十一月十一日

 

眞彰院

貞彰院なり。

微妙院浄心法信女

天明六丙午

二月十七日

 

 

 

圓鏡印智月寂照信士

文政元戊寅

十月十七日

二世川柳

寂照信女

之は寂照信士にて二世川柳の法名なり。

恭岳常念信士

正徳二壬辰

五月十八日

 

恭岳

(「恭」の字が違っている)

徃蓮社譽源生雲意居士

寶暦三癸酉

十月十八日

 

 

 

智月妙元信女

寶暦三癸酉

十月二十日

 

 

 

觀月妙空信女

元禄十二辰

正月廿日

元禄十二年の干支は己卯なり。辰年とあれば恐らくは元禄十三年の誤記あらん。

觀月妙寶

妙空なり。

覺嬈童子

寶暦十四甲申

四月二十一日

寶暦十四六月明和と改元あり。

 

 

夏泡童女

明和六己丑

六月二十一日

 

明和六己巳

 

明和六己丑なり。

 

慈光院體心妙智信女

寛保元辛酉

八月二十二日

 

寛保卒酉

 

寛保元辛酉なり。

 

契壽院川柳勇緑信士

寛政二庚戌

九月二十三日

初代川柳

川柳勇縁

勇緑なり。元祖の戒名墓碣には勇縁とあるも、廻向帖及び燭台彫刻の文字は縁にあらずして緑とあり是にすべし。

全幻童子

享保十五戌

十一月二十七日

 

 

 

心鏡院常照妙光信女

文政七甲申

四月七日

 

 

 

m受院浄刹快楽信士

文政十丁亥

六月二日

三世川柳

 

 

無量院長遠妙壽信士

孝達妻逆修

 

 

茲遠妙壽

長遠なり。

教受院雪山源理信士

天保十四卯年

十月十九日

 

 

 

 

 

過去帳は天保初年十二世権大僧亮長の代に於いて調整したもので二冊になっている。是即ち龍寶寺唯一の鬼籍でこの他には、天保以前に於ける死者の正日等を知るべき旧記更に無い。他に如何しても開基伝来の過去帳有るべきはずであるが、寺什宝の其の物が全く無いのみならず、伝来物の無くなった理由等も現住の釈氏にはとんと解らないとの事である。

斯様の次第であるから龍寶寺の過去帳は、その実過去帳として余り価値ある資料と思われぬものである。

特に柄井家の鬼籍に至っては大いに疑い無きこと能わずである。若し是が果たして純真正当のものであるとすれば、其の登録の順位は死亡者の年代順に記帳してあるべき事は自明の理であるに拘わらず、上記の如く年代錯綜前後不順に書き込んであるところを見ると、甚だ不審の感に耐えない事であるが、これ等の問題は川柳史実の研究上然迄詮議立の要もないから暫く姑らく省略に従うこととする。

        大正十一壬戌年十一月二十日

               木枯庵檉風 記焉

 

 

 

 

 

参考

初代川柳の遺物に於いて(大正十年浅草大火で印消滅の以前に書かれたものにつき注意)

 

初代川柳「柄井川柳翁の遺物」に於いては、「無名庵」と白字に篆刻した石印一顆と、錦木塚回文の懐紙と、肖像の画幅との三点が現存して有ることは、梅本秋の屋氏が「五月鯉」第二巻第九号(初代川柳記念号)及び同第十一号の柳誌に記述をされてあるが、この説は予が見聞きせるところと、甚だ相違の処がある。

こんな事を申すと、先入主的な半可の似而非先生達より「又しても余り穿鑿に過ぎる」との抗議が起こるかは知らんが、遮莫柳界に錯誤、或いは虚偽の事柄、而も川柳史上重要な事たる初代川柳遺物に関する謬説を伝ふるのは、斯道の為、洵に忍びざる事であるから、「五月鯉」発行後十数年経過の今日、恥か既往を咎むるような感じが有って、実は本意でないけれども、予は茲に偽らざる事実を告発して、其の真相を明らかにしようと思うのである。

実を申せば、予は川柳に手を染めてより茲に二十有余年、この間兎に角公私多用の為、其の研究句作に専念たることを得なんだが、さもあれ九世川柳(前島和橋氏後川柳宗家を再興して柄井氏を称す)以来は、所為川柳の宗家に対して特別関係を有しつつあったもので、特に十一世川柳の号を嗣いた故昇旭(小林釜三郎)氏とは昵懇の間柄とて、明治四十二年五月立机披露の際には、其の席に参興もし、小林家には度々寄泊もしたことがあるから、初代川柳の遺物に関する消息、及び其の所在とも総て之を熟知して居るのである。

秋の屋氏が云われた通り初代川柳の遺物は全く如上の三品丈である。

 

(石印)

 

先ず石印の事は、秋の屋氏説に方七分とあれども、之は正方形ではなく、縦七分横七分五厘の蝋石印である。此の印の継承につき秋の屋氏は、渡部虹衣子の言を引き八世(児玉環氏)病没の際、昇旭氏の手に帰したものかのように考えて居らるるが、此の石印は一旦は九世川柳の有に帰したる後、十一世小林氏に伝来した物であるが、 大正二年十月訳ありて小林氏川柳宗家の机を辞し、十世平井氏復机の際小林氏より改めて平井しへ引継をなし、今現に同氏の手に保存して或る。予は九世川柳以来数次此の石印を実見し、又同印始め宗家歴代の印譜を所蔵している。

印譜 

 

 

 

 

 

 

(錦塚回文の懐紙)

 

錦木塚回文の懐紙は、八世在世中昇旭氏に直接譲与されしもので、宗家伝来物で無いことは秋の屋氏説の通りであるが、此の一軸今は十世平井氏の手に帰し、現に同氏が之を秘蔵して居られるのである。これも予が度々実見した軸で、特に明治二十九年十月百六回忌の、川柳忌の際昇旭氏の篤志を以て石版摺りとなし、当時に於ける同好の士へ配布された事があったから、川柳宗家の柳士諸氏には、之を蔵して居られるる向きが必ずあろうとおもう。

 

「錦木塚回文和歌」

 

 

テキスト ボックス: 錦木塚
錦木と
とさして
たにの塚に間の
かつ野に
たてし
里ときき
しに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


     右二首

テキスト ボックス: 錦木と
つたへも
おきし
長の夜の
かなしき
おもへ
たつと
ききしに
       回文

 

            江都

             無名庵

              せん里う

「九世川柳の記」

柳門の開祖柄井川柳翁の真跡は、世に伝わる物実に稀なり。

茲に八世の翁いまだ柳袋たりし頃、明治のはじめ官の命によって

秋田の県に奉職中、同じ里なる二階堂某の秘蔵する元祖

自筆の懐紙を見て、懐旧の情に堪さるより強てこれを懇望し、、

任果て帰京の折其家に秘め置かれしが、同じ十七年の頃故ありて

昇旭ぬしに譲る事とはなりぬ。而してより以来年毎の祖翁忌に

必らず肖像の傍らに掲げ縦覧に備ふる事とせり、是ぞ斯道の

重宝にして、今日祖の遺物とするは吾が無名庵の印章と此

懐紙あるのみなり。翁の筆跡は素より作詠の卓越なる、一見

その人の非凡なるを知ること足れり。本年百六回の川柳忌に

昇旭ぬし志しありて、是を石版にうつし同好の雅友へ分布

す。之に依て聊その理由を記し保証すると倶に祖印を

模刻して茲に押捺す。

 明治二十八年十月      九世 柄井川柳謹識

 

 

(肖像画)

 

肖像画の一軸につきて、秋の屋氏は前記初代川柳記念号に

「此の軸は八代川柳まで伝来したが、同人が病没の際、後継者の競争があったので社中の某が窃に隠匿してしまった。其の所在は目下不明であると云うが、夫れは全く詐りで、確かに或る処に隠匿して有るのだ。十一代目の川柳が出来ると共に、天から降る歟地から湧く如く、必然其の一軸が世に現れると、私は此処に予言する。」

と記述せられ、且つ「五月鯉第二巻第十一号」の誌上に於いて、虹衣氏の言に基ずき再び「此の一軸を、八世病没の際、昇旭氏に譲られたると云うは、虚偽の甚しきにものや。四世川柳より代々の宗家に、伝来したる肖像を、八世がお無くして、宗家にもあらぬ昇旭氏に譲るべき理由無し、案ずるに○鶴は嘗○○氏の師事せし人にて交際親密の間柄なれば、八世病没の際、両人○○して○○せしものならん乎。曩に予が、将来十一代目の川柳が出来ると共に、必然其の一軸が世に現れる、と予言せしが、将来十一世川柳の号を嗣ぐべき昇旭氏が、現に彼の軸を所持しているは、予の予言に違わず云々。」

と断言せられてあるが、之は全くの誤りで事実跡形なき無根の想像か邪推説である。

秋の屋氏は八世病没以後柳界を引退せられ、川柳宗家に遠ざかられたのであるから、この間の消息を知らるる筈はなく、多分何等かの勘違いをして居られる事であろうと思はれる。成る程昇旭氏は、初代川柳の画像一軸を持つことは持って居られたが、其の画軸は宗家伝来の肖像ではなく、九世川柳前島氏が原像の記憶を辿りて、画きたる複写の一軸で、飾り無く申せば贋物であったので、其の実宗家では、眞物の肖像が八世病没の際紛失したのであるから、九世が之を自作し以降仮に此の軸を伝ふる事に定めたのである。乃ち此の軸は今十世平井氏が所持して居られるので、予はこの間の事情を熟知して居るものである。

秋の屋氏は全くの別軸とも知らで、「昇旭氏の所持する肖像の軸は、臓物なることを告白す」と迄極言されてあるが、昇旭氏こそ飛んだ冤罪を被ったもので、甚だ気の毒な感に堪えない。

若し夫れ虹衣氏言の如く、昇旭氏が虹衣氏に対し宗家伝来の肖像画軸を、八世病没の際、譲渡されたと明言されてあったとすれば、察する処それは十一世を、継続せる自身の手に此の伝来物が無いと云っては、宗家の恥辱とでも思われたところより、虹衣氏は新川柳家でもあり他派に対する軆面を取り繕うべく、いい加減にお茶を濁した一時的遁辞であったろうと思われる。何となれば、宗家伝来の初代川柳肖像画の一軸は、事実全く昇旭氏が十一世川柳嗣号の際は無論其の前後に在りても、遂に昇旭氏の手に帰せなんだからである。

然からば、其の眞物たる肖像の一軸の所在如何。疑問は此の処に生ぜざるを得ない。併しそれには斯うした秘密の事情が伏在して居ったのである。

当初肖像の画軸を松楽堂寿鶴(森銅三郎氏)と云う男が、八世病没の際五世川柳(水谷金蔵氏)所用の印章二顆と共に隠匿したことは、秋の屋氏の推測通り相違ない実説だが、昇旭氏と共謀して同氏の手に収まりたりと云うのは全くの虚構説である。即ち此の軸は寿鶴氏の手より直接に膏張亭〆太(中村万吉氏 自立九世川柳正風亭の事)と云える人へ授受せられ、深く之を秘蔵して居ったので、昇旭氏は此の一件に何等の関係も無かったものである。

而して何故に寿鶴氏が斯かる行動を執ったかと云ふに、これは宗家継承問題に関連した事で、当時〆太氏と萬治楼義母子(前島和橋氏)との間に九世競争をなし、寿鶴氏は〆太派の参謀にて義母子氏に反対なるところより(当時寿鶴は谷中清水町に住し指物師を業とし、〆太は麹町山元町に住し畳方棟梁たり。両人共に音曲を能くし職人同士として意気投合の間柄なりき)宗家の重宝たる画幅を同氏に渡ざる可く、此の予備的非常手段に出でたるものである。

「柳の栞」第二号に八世翁の未亡人の言として、祖翁の画像は上記の印章と共に、翁が未だ息を引き取らぬ前日盗難にあいし如く記されてあるが、事実は全く未亡人と寿鶴氏とが諜し合わせて隠匿したものであったらしい。

果然其の後明治二十六年中、義母子氏が全国社中披露の結果大多数の推挙を以て、九世継承者と確定したにも拘わらず、〆太氏は寿鶴氏等一派の後援の下に、此の唯一の什宝たる画幅を擁して自立するに立ったのである。

茲に又、〆太氏の親友に、遊泳史魚心(佐々木宇右衛門氏、山形県西置賜郡長井市大字成田の人、蘇息斎と号し、資産もあり風流心もあり地方の宗匠株で、今は故人と成られたが、嘗て代議士たりし事あり)なる人あり。

此人は八世没後九世相続争いの際、隠然〆太派の総参謀として大いに画策するところあり、次回は己れ川柳宗家たらんとするの野心もあった云うことで、自ら無名庵の号を僣して居ったものだが、〆太氏とは交際最も親密の間柄で愈々或る密約が結ばれたのであった。

偶ま明治二十九年五月山形県長井町に於ける斯道の宗匠雅外、文子、蓼塢、芳川、呉茗の五翁が其の還暦賀会狂句会を開催の際、〆太氏は立評者として九代目正風亭川柳を称し、今以亭〆内なる従者と共に降羽し来たり。携帯したる彼の画像を右開巻の席に揚げ、会衆へ自身は川柳宗家九代目たる者に相違なしとの権威を誇ってあった事は、今猶ほ当地方の一話柄と成っている。それで狂句合摺巻にも〆太氏自ら序詞(実は他の代作)を添えその中に

「上略、己斯道に遊ぶこと五十余年嘗て恁る盛会をみず掲へし祖翁の画像も軸を抜きて為に賀さんかと怪しまる云々下略」

と記してある。斯くて帰京に際し、此の臓物たる宗家伝来正真正銘の画像一軸を、上記の魚心氏へ譲渡し其の侭く留置して帰られたのであるから、断じて昇旭氏の手にあるべき筈はなく、其の画像在りというは全くの虚言であって、言はば虹衣氏は昇旭氏より一杯喰わされたのであったろうと思ふ。この事実は予が責任を以て言明する所である。

斯の如く川柳宗家に伝来した、初代川柳肖像の一軸は事実全く山形県の佐々木家に秘蔵して在るので、九世前島氏在世中、如何にもして之を取り戻さんと百方復環の策を講ぜられ、明治三十五年五月昇旭氏と共に予が小庵がりへ来訪の際、此の事を談じられてあったが遂に其の甲斐もなく、後又十世平井氏奥羽へ来遊の際にも、佐々木家を訪問し舊交を温めて取り戻し方を交渉せられ、予も同氏の切なる依囑に由り特に宗家へ返還の配畗を試みてあったが、佐々木氏の頑強なる到底之に応諾せず、今以て侭惣案と成って居るのである。

佐々木家の現在は魚心氏の息、太郎助と云い、今は亥父宇右衛門の名跡を襲ぎ予とも心易い間柄であるから、機会ある毎にこの事の交渉を試みたがいつかな応託を与えず之には殆ど閉口せざるを得ないのである。当代の佐々木家は別に川柳趣味のある人でないから、我が柳界以外にさほどの価値あるとも思われぬ当軸、手放しても大事なさそうなものだが、絶えて聞き入るる様子の無きのみか、貸出し事も承諾しないのであるから、予は更に機会を見て当写真を撮影し世に紹介しようと思う。

以上は、予がこの頃「五月鯉」繙読みの際不図秋の屋氏の記事に触目し、余りに事実を誣ふるの甚だしきものと思ふるから、将又世の誤解を闡明し其の真相を知らしめんが為、新しく之を絮説した次第である。因みに、秋の屋氏が其の著「川柳難句評釈」の総説中に採用された、四世人見川柳の肖像の画幅(香蝶楼国貞書四世川柳画賛)を始め、その他祖翁以外の宗家歴代の画像等は、仔細あって今は予の手許に所蔵して居る。この事も川柳史上何等かの参考にもと書き添えて置く。

(参考)

祖翁以外の宗家歴代の画像等は、記述時以降檉風のもとを離れ所在不明

 

 

次に木枯庵檉風著「川柳の史的研究第二編川柳詞藻上巻」記載、四世川柳画像肖像自賛の一部を記す。

 

四世川柳画像の筆者は歌川派に有名なる番蝶楼国貞(後二代目豊国)にして、当時四世翁とは水魚の交あるを以て常に同家へ出入なし遂に該像を写生したものなりとか。其図は慰斗目裃にて新年の礼服(九曜の御紋所)を着し蒲団の上に座す。後背には刀掛を置き前に文台を扣へた極彩色にして、其の態突然生きるが如し、国貞の丹誠恐ふべし。伝える所によれば、画了の後五十日を過ぎ翁の機嫌よき日を見計らい点睛せしもの云々。

 

 

 

 

(参考)

遊泳史魚心(佐々木宇右衛門氏)について、  

「置賜柳風芳名録完」記載の内、魚心と九代目との拘わり及び無名庵の印を使用している箇所。

「川柳九代目選挙競争の折、吟社の出京委員となりて其の調和を試みしも、故ありて出来損じぬ云々」

      明治二十八年 中秋

          無名庵主人識    魚心作成

                          無名庵印

      吸いあきて花の乳房に眠る蝶

 

 

 

(参考)

祖翁画像の現在について、平成元年五月十二日付山形新聞記載記事。

 

「幻の文化財とされてきたわが国川柳界の三種の神器の一つ「初代川柳画像」(軸)が、長井市内で二十日から三日間、全国で初めて公開される。同市が実施する奥の細道紀行三百年祭記念事業の特別展として催されるもので、関係者によれば、この貴重な文化財は、明治時代に長井の素封家佐々木右エ門(柳号・魚心)に託されており、実に九十三年ぶりの里帰りとなる。(中略)長井川柳副会長の小松梢風さんらが精力的に調査研究した結果、長井出身で、東京都港区、三井信託銀行会長の川崎誠一氏宅に大切に保管されていることが判明。後略」

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