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  田舎曲紅畠

 

檉風写本

 

 

 

 

 

 

 

 

紅粉(カウフン)(セイ)()燈篭(トウラウ)(ビン)田舎(イナカ)(ヨメ)、きんきんたる紅うら、(ハギ)あらわに蹴返(ケカエ)しゆけば、本田あたまのいなか通人(ツウジン)、細ミの脇差鐺(ワキサシコジリ)(アガ)りに、目(ニムカヘテ)(ヲクッテ)(コレヲ)曰、すごいかな、(ビニメ)(エン)なりと、言ふ人いはるる人、ともに(アツハレ)の当世風、気の高き事太郎坊か鼻をまかせとも、(タエ)()(シラ)、すでに是上国(シヤウコク)十年前の古ミに落ぬる事を、思ふに俳諧前句附の新古も、またかくのごときのミ、しかハあれと、はくらんの薬ハはくらんやミがかふ習ひ、いなか娵には田舎聟ありて、いなか点者の目なしどちどち、玉か石かのわいためもなく、拾ひあつめし(ヤミ)(ツブテ)を、おこかましくも(ベニ)(ハタケ)と題して、梓にちりはむる事となりぬ、されハ我国の産物なるより、末つむ花とも()バしたき處なれど、畠の一字にいなかの光景(クワウケイ)ありて、すこし()(コエ)の匂ひも思ひよせたらむ、所謂(イワユル)かの花嫁の首筋(クヒスジ)に、うぶ毛のふつつかなる風情をうつし、いはれぬ先キに、田舎曲の三字を(カウムラ)しめ、したり顔にほほえミぬるも、則チ田舎の力味(リキミ)なるへし、客あり、余が(コト)を聞て(カン)()として(ワラツ)て舌を出して曰、先生ひさしいものだよ、へへをつなことばかり、

秋江斎自序

安永九庚子五月

 

 

 

大正十二年十月二十八日臨時発行川柳鯱鉾第十二巻十月号に、檉風が「古柳書の繪本平句花」を、京阪地方に於ける最古の珍書として詳説している中で、「(出羽の山形即ち今の山形県羽前国に於いて、安永九庚子年五月板行の『田舎ふり紅畠』及び享保三癸亥年五月板行の『俳風最上土産』なる宝暦天明調、而も川柳系統の古柳書があって、真個地方版最古のものと謂う可しであるが、此の事は別稿に紹介する事にしよう)」と「田舎ふり紅畠」を括弧書で紹介いる。

その後、檉風が何らかの関係誌に紹介しているのか、それとも其の儘になってしまったものか分からない。そして「田舎ふり紅畠」に関して書いた原稿等も残っていない。残っているのは檉風の「田舎ふり紅畠」写本のみである。

此の「田舎ふり紅畠」がどの様なものかは、昭和43815日発行の「山形市史編集」資料の中で、後藤嘉一氏が「俳人 小林風五」について書いているなかの、川柳「べにばたけ」の部分で分り易く説明しているので次に記すことにします。

 

風五は「川柳」の点者もした。川柳は正統の俳諧からは蔑視されたので、さすがに風五も「秋江斎楓呉」と別号を用いている。安永九年(1780)五月、京都寺町橘屋から「いなかふり紅はたけ」という川柳選集を版行しているが、これは全く山形地方の作家・作品を選集したもので (・・中略・・・) これによって本書の成立は明らかだが、川柳研究者の花岡百樹氏はこの書を解題し、「本書の出た年は江戸では『俳風柳多留』十五篇が出版され、そのころ地方出版の柳書というのは極めて稀であるばかりでなく、この句集の内容は決して江戸の川柳子に譲るところが無く、わが川柳史上に貴重な資料である」と激賞している。しかし其の選者秋江斎楓呉については、「江戸の柳書中にもその名が見当たらず、誰であるかわからないが、とにかく江戸風の洒落や穿ちや軽味を解している所から推察して、当時江戸に居た山形候(秋元)の御留守居役を勤めた藩士あたりではあるまいか」と推測しているが、これは見当違いで、実は山形在住の町人不二庵風五であることは明らかである。(・・後略・・)

 

後藤嘉一氏は市史編纂という作業の中で、山形の豪商(文人)と言われる家々に残っている貴重な資料を見せてもらえる立場故、花岡百樹氏の見当違いを指摘出来たのではと考えられるから、檉風は大正十二年当時「田舎ふり紅畠」の写本を持ってはいるが、選者が小林風五であることは解らなかったのではないかと思われる。

 

そしてその後、平成十一年一月三十一日発行、片桐昭一氏著「山形の古川柳いなか曲紅はたけ完」が出版されており、これは350ページ余に及ぶもので全ての句を評釈したものになっている。興味深かいいのは「あとがき」に

 

(・・前略・・)郷土の川柳句集についてあれこれ探っているうちに、今は亡くなられた、当時活躍されていた岡田甫氏より、実は「もがみせんりう」のずっと以前に、既に「紅はたけ」「最上土産」なるものの存在をご教示賜って、氏が所持しておられた、花岡百樹翁の謄写なされた「いなか曲紅はたけ」と、やや虫食いのある「最上土産」を快く譲っていただいた。またそれらの本は天理図書館に蔵されていることも知った。(・・後略・・)

 

とあり、又本文最後の奥付に

田舎ふり紅畠  後編追而出来

京 寺町二条下ル

書林   橘屋治兵衛 梓

山形に編まれし此紅畠は予曾て其存在をさへ知らざりしが◎者

京都の広田政之進君より借覧して其佳吟に富むこと江戸の柳多留の

優れりといふも劣らざるを想ひたれば茲に謄写して書架に蔵するこ

ととはなしぬ

昭和七年十一月二十三日の夜

写し終へて後

澪巴主人 百樹識す

と写本をした花岡百樹氏の加筆を其のまま載せている。

 

このことから、片桐昭一氏は花岡氏の写本を基にして評釈し出版されたように思えるが、「天理図書館より蔵本を快くマイクロフィルムに収めて戴き、感謝のほかない」と「あとがき」に書いてあったりしているので、天理図書館の蔵本は原本なのか、それとも花岡百樹氏の写本なのか?。

又後藤嘉一氏は山形市史資料中に「田舎ふり紅畠」の「序」を載せているが、これはどの様な本に基づいたものか?。出版当時の原本であれば、片桐氏も容易に原本を見せてもらうこたが出来たであろうから、花岡氏の写本にこだわる必要はないように思える。後藤氏が見たものは今はどこへ存在しているのか?山形県近郊へは存在していないので片桐氏は天理図書館へ頼ったのか。

 

何故こんな事にこだわるのかは、田舎ふり紅畠の「序」を三通り見ることが出来るからです。一つは後藤氏の「序」、二つ目は「片桐氏の出版物の中の「序」、三つ目が檉風写本の中の序。

全く大きな違いは無いが、「み」が「ミ」であったり、「、」が在ったり無かったり、「カナ」を付ける漢字が違っていたりという具合です。大した問題では無いのでしょうが、いずれにしても此の「田舎ふり紅畠」は稀少本でありることには間違いないようです。

 

「田舎ふり紅畠」を詳しく知りたい方は片桐昭一氏の出版本をみてもらうのがいちばんですので、ここでは羽前古川柳の歴史鑑賞として檉風写本を掲載致します。ただし檉風写本(昭和7年花岡氏の写本より古い、大正12年より以前の写本のように思われる)には以上のような不確実性があることを配慮の上で鑑賞してください。

田舎曲紅畠 写本リンクします

 

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