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 柳樽二十五編異説考

 

 

予が研究範囲の及ぶところによると「誹風柳多留」は明和二乙酉年其の初編を創刊してより、天明八九年頃(其時未詳)迄に百六十六編(注、正しくは百六十七編)迄板行して終焉を告げたものであるらしいが、其の中寛政以降徳川幕府に於ける風俗上の取締が厳重と成った結果、爰に異本を生じ末番の句、賭博の句、役人嘲罵の句、罪人の句其の他風紀に関する句を改竄することとなった所から、初編以下殆んど毎編異本あらざるものはない位であるが、さもあれ異本といっても全然内容が変ったものではなく、唯如上禁忌の句ある箇所丈を埋木して所刻せる程度にとまるものである。此の外には三十六編に内容には触れていないが、千瓢庵艸麥の序ある本と板元菅裏の序文を冠せる本との二種類あり。又七十六編と七十七編とに内容稍同一なる混淆の粗悪本を流布してあったのと、百十二編に大部分百十一編のものを混入して製本したものはあるが、他に内容を異にするものは百二十一編の一部に止まるのである。此の百二十一編は異本といふよりは寧ろ別本と称すべきもので、其の編輯の様式、製本の体裁等より見て、容易に之が正否の断案を下し難く、今猶予の比較研究中に属するものであるが、此の百二十一編を除くの外其の内容の変わった異本は「誹風柳多留」中絶対にないと断言して敢えて差し支ないと思うのである。

然るに二十五編に於いて二部説を唱ふるもののあるのは甚だ不審の至りである。夫れは大日本俳諧講習会発行に係る「俳諧史」に於いて、其の著者故文学博士佐々醒雪が「俳諧の俗化雑俳」の項中に、

初代の没後四五年間に柳樽二十五篇といふものが二部上梓せられている。一は和笛老人他は笛先生の編とあるが、同人か然らざるかは不明である。蓋し当初二世川柳が未だ定まらなかった時に、某が二十五篇を出したものかと思われる。

といふているが、所謂其の二部なるものの内容を示していないから如何なる本を指したのであるか不明であるが、蓋し後に記する所の如き論拠に出でたるものであらう。又「滑稽文学」第五年第七号登載安藤幻怪坊、岩崎半魔両君の共編に成る「江戸雑考、川柳年表」中に、

寛政六年(甲寅)柳多留二十五篇出版同篇二部あり。一本は星運堂管裏(柳樽多留出版書肆花屋久次郎柳号)の序あり、一本には市中庵扇朝の序と子誠の跋文あり。川柳翁没後各連中に暗闘ありて斯かる結果に至りしか、二世川柳の立ちしは今年か、此の間の消息未だ考へず、

と記載してあり、荏原三郎君の「古句短評鹿鳴庵句集」と題する冊子の「川柳考」中にも、

初代の没後俳風柳樽二十四編を限とし上木の事止みしを、社中の惜みて二十五篇を出したり、時に寛政六年なり。然るに市中庵の家名喜多留二十五編と、星運堂の柳多留二十五編と二様に出版せしは、いづれが正なるや。

と記してあるが、如上の諸説は予をして忌憚なく之を謂はしむれば、曾て「文芸界」に連載せる故人中根香亭が「前句源流」の所説に誤られたる祖述説でなければ、讎校を忽にせる所謂耳食談の紕謬であらねばならない。何んとなれば書冊其の物を能く繙閲して理解さへすれば、何人も斯許の過誤に陥るべき筈はないからである。依て斯道の為其の憶説謬論を徹底的に否定す可く「前句源流」狂句章中の所説を左に抜出して批判することとしやう。

川柳没して柳樽の撰、二十四篇を限りに止みしかば社中の人々之を惜しみて、其の後を続がんとて二十五篇を出したり。

 されど茲に怪しむべきは二つの二十五篇あることなり。夫も撰者異なり、雙方の見る所同じからずして、彼此互いに同数の篇を出版したらんも料り難けれど、二書共に一人の撰の如く見ゆる所あれば、返すがえすも疑はし。左に載するは二書の序なり。

今や俳風盛んにて、柳子の四方になびきなびかせしより、くさぐさの姿も此の正風流に延臥(二字詳ならず)題に拘らず、一句に言葉広く森羅万象貴賎となく、上はあめのみまご愛する姑、下は賎が家の賑ひを御詠に知り給ふも、皆漏るることなく此の風雅に止まり、翁の樽の数二十四篇に満ちて、雪月花の盛を納めんとし給ふを、猶長かれと諸連子てちしの替りめを和笛老人(すすめて判を乞ひ五々の篇よりことしも一つおさへて、つぎ著す言を四方の雅叟の筆を労すせんもむつかしく、頓て墨を費すものは

                       星運堂菅裏

年々歳々花相似たり、畫きせぬ水の木の葉に、柳の志い木枯れ果てて、此の道既に絶えなんと、時に笛先生なるもの、川叟の俳風を慕ひ、是絶えたるを継ぎ、すたれたるを興す聖教に叶ひ翁の撰評にひとし、社中誠に闇夜に徃いて燈に逢へるが如し。歎

喜の美、颯々耳にみてり、予すすめて家名喜多留二十五篇とはなしぬ。

    寛政六のとし秋  市中庵主述

前の文は、歳月を記さざれど「ことしも一つおさへて」云々の語、二十四篇よりさほど年月を経ざる如く思はる・後の文は「寛政六のとし」とあれば、川柳没して五年めに当たれり。或は笛先生といふは和笛老人とは別人にて、其の撰に服せざるものの為めに別に二十五篇を撰みたるか。されど今公平に之を見れば、何れが勝って何れが劣れりともいひ難し、云々(中略)

是に由りて考ふれば、二世川柳は其父初代川柳死して、直に其の跡を受け継ぎたるにあらで、此の間若干の年月を経たるなるべし。猶又此の後も星運堂の序の見えたる柳樽はそこばくあれと、市中庵の序文あるものは見えず。然れば初代川柳死したる後、其の徒一時競争のさまにて互いに二十五編を出したるも、遂に一方は身を引きたるならんか、云々。

と滔々千百言に渉りて、さも大形に仔細らしう論評を下しているが、此中根説はもともと其の前提を誤った憶見であるから、到底肯綮に中るべき結論を得やう筈がない。即ち中根説は星運堂の序ある本と、市中庵の序ある本とを何れも二十五篇なりと臆断して途方もない見当違いな評論に陥っているが、豈図らんや二者各々別編物である。如何にも市中庵の序ある一本は正確な二十五編に違いはないが、他の一本星運堂の序ある方は二十五編に非ずして全く二十六編(****)なのである。千数百言の論評、茲に臻って何に値するものぞと言はざるを得ない。

斯かる誤解を来すに臻つたのは偶々二十六編の貼表題の編数を誤って二十五編と書いてあったのを見て「ハハア二十五編は二部あるぞ」と憶測し速断したのであったろうと思うが、更に他の原本と対照もせず、又其の序文を読んだのみでも、何人にも二十六編と頷かれるのに陸にも考案せず、否ナ()()()洒落()()一つ()おさ()()()せで()途轍もない見当違いな論評に千百言を費やされたのは、百面の書生ならいざ知らず、苟も学者ともあらう人の態度として余りにも軽率ではあるまいか。無論学者といひ博士といふても、素より畑違いの先生達であるから、之に最善の望を嘱するのは全体無理な注文で、且野暮の骨頂でもあらうが、ともあれ余り甚だしき謬見であるばかりでなく、其の影響の及ぶ所、毛を以て馬を相する如き偽り看板の請売者を生ぜしめ、其の紕誤を世に伝ふる範囲が益々拡大せる結果に対しては到底之を黙過する事が出来ないのである。且又中根、佐々木両先生とも、和笛老人と和笛先生とを別人なるかのやうに思ふているが、其の老人といひ先生といひ丸でこれは、桃井庵和笛といへる人に対する洒落的敬称で孰れも同一人を指したものである。従って如上二つの序文ともに和笛の徳を頌してある所から見ても、社中相反目して同編数を出したものでない事実が明白たるのみならず、星運堂の序に「五々の編よりことしも一つおさへてつぎ著す」との語は、五々即ち二十五編より今年も一つおさへ(おさへは捉への俗語)つぎ足して、二十六編でない事を立証して余りあるに拘わらず、思いの茲に至らなかった著者の短見こそ返す〱も疑わしと謂はずには居られない。将又著者は星雲堂の序中「此の正風流に延臥」とある延臥の二字に不審を容れているが、這は()()()()と訓むので、即ち柳に靡く四方の風を形容した言詞であって何等不審の点がない。そこが所謂畑違いの悲しさで流石の学者にも安永天明を中心として盛行した江戸文化の洒落や、平談俗語を生命として放て国文学の文法などに因われぬ川柳家の意気が理解されなかったものと見える。

又二世川柳は其の父初代川柳死して直ちに其の跡を継いだものではなく、十五年経過の後文化二乙丑年に嗣号したものであることは柳多留三十四編の後半に社中月次の丑九月(丑は文化二年である)六会目より川柳評の名義が出て居るのと、同編の菅裏が序に「又今の川叟の撰句を合せてみそよつのへんなりぬ」と書いてあるのに徴して明らかである。尤も三十五編の「文化三寅初秋」とある琴我の序に「今年二代の川柳親の柳の根を続て角力のざれ句十会を催し云々」とある所から見れば、二代目嗣号は文化三年のやうに見えないでもないが、これは文法などに係わらぬ川柳家の往々ありがちな常套書法で「二代の川柳親の柳の根を続て今年角力のざれ句十会を催し云々」と叙す可きを顚倒した所謂文法上の錯置と見るのは妥当であると思ふ。何にせよ二世川柳の嗣号は、文化二年であつたことは柳多留三十四編の撰評に拠て争ふべからざる事実であるから、因に此事を弁定しておくのである。

終りに吾々も誤解を避くる為に注意しておきたいのは、予が上来謬的異説を論難するは後人をして惑はざらしめんが為で徹頭徹尾故人を傷害し其の徒を詆訾するなどいふ意志ではないことである。況や中根香亭といへば知名の学者で其の著「前句源流」の一度び「文芸界」に出るや、世の人争ふて之を伝唱し宛ながら川柳論の金科玉条でもあるかのやうに尊重するものが多かったのみならず、大正五年八月金港堂より発行された「香亭遺文」にも此の「前句源流」が然も過誤紕謬のままに収載されてあるので、此の上愈々其の謬説を世に伝ふるの惧れあると、且は我が柳界に何の子爵や伯爵が川柳の作家たりと聞いて随喜し、其博士其大家が川柳を斯く論じ斯く説きたりなどといふて渇迎し、其の実成つてもいない駄句を誉騷したり、途方途轍もない謬説に訳もなく共鳴して知ったか振りの耳食談に穉気否ナ衡気満々たる人士なきにしもあらずであるが、此等は後進を誤り斯道を賊するもので、柳壇の為憂慮す可き現象と思われるから、敢えて其の異説の惑を解くと共に、鵼的川柳家の猛省を企図する所以である。

 

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